下着業界で死語となった言葉、パンティー!! 若い女性は小さなパンティーを!おばさんは大きなパンツを!昭和の半ばまではそんなふうに呼んでいましたね。

「パンツ」の呼称は現代でもメンズインナーやアウターでも使われているためか、さわやかさを含めた響きにも感じます。「パンティー」はどこかなまなましく、今ではすっかり廃語となりました。30年ほど前にインナー業界がイメージアップ戦略として「ショーツ」という言葉を普及させなければ、今でも女性用の小さなショーツをパンティーと呼んでいたかもしれませんが「ショーツ」という呼び名が浸透した今となっては「パンティー」呼びには戻れませんよね。

 

 

では、スキャンティーはどうでしょう?ズロースは?ドロワーズは?湯文字(腹巻)は?実はこれらはすべてショーツのこと。姿形は多少異なるものの、ショーツのルーツなのです。
ご存じ、日本は和装の国でした。着物の下に肌襦袢や長襦袢を身に着けてはいましたが、下半身を覆い隠す下着はつけていませんでした。下半身用の下着としてラップのように腰に巻き付ける湯文字というものはありましたが、デリケートな部分を保護する機能はなかったのです。

その頃、ヨーロッパでは既にドロワーズと呼ばれる太ももまで丈のあるパンツをはいていました。保温効果や汗とりの役目だけではなく、デリケートな部分の汚れが洋服に直接つかないようにしていたのです。
日本に洋装が入ってきたのは明治時代と言われています。同時にショーツのルーツとなる物が初めて日本にやってきたという説もあります。岩倉具視大使が欧米使節をした際に同行した留学女子が持ち帰ったそうです。ドロワーズとは発音出来ず、なまって「ズロース」となったとも言われています。今のショーツより大きめですが、現代のクロッチにあたるデリケートな部分に布があるタイプです。和装の日本人にとってはモダンなデザインだったことでしょう。 しかし、大正時代になってもズロースはあまり普及しませんでした。洋装は上流階級しか身につけられなかったことや、陰部に布が触れるという服飾文化のなかった日本人には馴染めなかったのです。


ところが、2つの火災が日本人のショーツ事情を激変させました。
1923年関東を襲った大震災。多くの人命が奪われる大惨事となってしまいました。中には陰部が露になった女性の遺体もあり、いたたまれなく思った政府は、後日「外出する時はズロースを着用するように」と政令を出したのです。とは言え、まだまだズロースは広まりませんでした。「洋装でも下着は和装」という時代は昭和初期まで続いたのです。
1932年(昭和7年)白木屋百貨店の4階にあるおもちゃ売り場から火災が発生しました。7階建てだった白木屋の4階~7階までのお客さんが逃げることが出来ず、男女14名が天に召されました。飛び下りれば助かる可能性もあったそうですが、それを拒む女性もいました。ズロースをはいていなかった為、野次馬にデリケートな部分を見られたくなかったのです。この事件をきっかけに女性達のズロースに対する関心は高まりました。ところが、手にしたくとも、戦争が続いた日本人にとってズロースを買うという贅沢は許されませんでした。

 

TUNIC(鴨居羊子さんのブランドの大人気「オヤスミパンツ:)


終戦後、革命を起こしたのが鴨居羊子氏です。新聞記者からランジェリーデザイナーに転身した鴨居氏は「かわいらしさ」や「色っぽさ」のあるおしゃれパンツ「スキャンティ」を生み出したのです。戦時中にはもんぺをはき、デリケートな部分に生地のある服装に慣れてきた日本人にもスキャンティ(パンツ)は徐々に受け入れられていきました。和装下着は衰退して「巻く」から「はく」へ定番アイテムはバトンタッチ!遂に洋装下着がメインという時代がやってきたのです。その後、特別感のあったスキャンティは一般に広くはかれるパンティーへと進化し、パンティー&パンツの歴史は次々と駒を進めていったのです。

 

今やショーツは日常の中にすんなり入り込んでいるアイテム。一生でカウントしたら、何時間、ショーツに身を委ねているのでしょうかね。ものすごい時間になりますよね。衛生面でもマナー面でも頼りになになり、当たり前のようにはいているショーツですが、歴史を振り返ると存在自体に感謝してしまいました。

 

下着美容研究家 湯浅 美和子

日本ボディファッション協会認定インティメイトアドバイザー