石田さんの出撃に際しては大きな出来事があった。


どう整備しても油漏れで不調であった石田さんの戦闘機、彼は見切りをつけて同部隊の渡瀬少尉の好調な飛行機に乗って行ってしまったのだ。


渡瀬少尉が前夜外泊しており、当日早朝遅刻することを石田さんは知っていたのだ。


残された渡瀬少尉は不調の飛行機を取り替えに福岡まで行くことになる。


だが、終戦を迎え、渡瀬さんは生きながらえることになった。


生と死を分けることになったこの話、フィクション小説であった永遠の0の中でもモチーフとして使われていたのではないか


確かめてみたのだが、参考文献の中には記載はなかった。


尚、これには後日談がある。


生き残った渡瀬さんが翌年の命日、世田谷にある石田さんの実家を訪ねた。


医院である玄関をどうしても入ることができず、たむけの切り花だけを置いて立ち去るのだ。


渡瀬氏の胸の痛みは消えなかったという。


特攻隊で生き残った人が復員して世に名を残す例は多い。


大山倍達総裁や安藤昇氏がそうだ。


命がけの覇気というものがあったからに違いない。


親友を亡くした私の父も同様「死んだ石田君の分まで俺は牧師をやる」と覚悟があったらしい。


先日私が年老いた母を訪ね、知覧の本の話をした折、そう話してくれた。


確かに父は物や金を追って生きなかった。


信仰に生きた人だったと思う。


その証拠に私の実家は貧乏だった。


特に私の幼少期は外光が差し込むあばら家に6人家族。


それなのに牧師館なので物乞いや押し売りがよく来た。


私が「あのおじさん誰?」と質問すると父は「お父さんの友達」と言って小銭をあげていた。


もっとあげたらいいのにと私が言うともう1円もない、とがまぐちを逆さに振っているのが母だった。


翌日の生活費もないのによく暮らせたものだ。


教会の人たちが良くしてくれたのだと思う。


昭和40年代のことだ。


両親は清貧だったと思う。


現在母はしみじみと振り返るが、当時の私にとっては赤貧そのものであった。


特攻基地知覧はノンフィクション小説である。


決して特攻を美化せず、著者高木氏が直接取材した話が書かれている。


特攻隊員は死ぬのが当たり前で生還すれば不忠者とののしられ、周囲からは白眼視された。


耐え切れず飛行機で自家近くの畑に突っ込み亡くなった隊員の話、上官からの陰湿ないじめや、暴力に便所で嗚咽する若き隊員。


知覧で結ばれた隊員と女子学生が生き残ったにも関わらず、戦後身を持ち崩す話など、戦争の愚劣さを克明に記している。