桜も終わり、ボタンからハナミズキへと季節も移り変わっている。


さわやかなこの時期になると毎年思い浮かべることがある。


特攻隊だ。


太平洋戦争末期、日本帝国陸軍が行った戦闘機による米国艦船への体当たり攻撃。


この愚行が実行されたのが昭和20年3月から6月であった。


この手の話を知人にするとあなたは戦争が好きなんですねなどと先日言われた。


好きなわけではなく嫌悪する。


だが、私の頭の中では1月の沖縄上陸戦に始まり、3月の東京大空襲、今ごろの時期の特攻隊、8月の広島・長崎への原爆投下、15日の終戦記念日(敗戦の日)、12月の真珠湾攻撃と一年を通じて回っている。


史実を知ることで歴史を学ぶことから今後の日本がどうあるべきか知りたいと思うからである。


先日、本立てに一年間置きっぱなしになっていた文庫本に手をのばした。


友人から勧められた「特攻基地知覧」(高木俊郎著、角川文庫)である。


70ページまで読んでいたので続けて読み始めた。


しばらくするとあっ!と声が出た。


私の父の親友であった方が登場したのである。


彼の話は九年前、私が知覧を訪ねた際にこのブログで紹介している。


石田糠一氏(仮名)は父と都内の大学の神学部に在籍、世田谷の教会に通っていた。


二人の将来の夢は聖職者になること。


母親同志も敬けんなクリスチャンで仲が良かった。


学徒出陣で雨の明治神宮を行進した父と石田さんは陸軍に配属となる。


しかし病弱な父は北海道の通信課へ、石田氏は自らの意思で特攻隊へ入隊したという。


祖父は糠(ぬか)を研究した明治の博士で、父は医師であったという石田さん、息子に糠の字をつけて糠一(こういち)と命名した。


日本を勝たせるためには自分は死なねばならぬ、硬く信じ公言していた石田さんに私の祖母はこうちゃん死んじゃだめだ、どんなことになっても死ぬことだけはだめなのだからと説得したという。


自死は聖書の教えに反する。


宣教師でもあった祖母は涙ながらに訴えたが、そうかぁ、おばさんはそう考えるかなぁと石田さんはつぶやいたそうだ。


柱少尉、田崎少尉(ともに仮名)、石田少尉、三機で出撃した朝のことを整備工であった女子学生が証言している。


磨き上げた風防ガラスの向こうで笑顔で飛び立ってゆく飛行機を見送りながらこんなに若く美しい人を死なせずに多大な戦果をあげる方法はないものかと何かに向かって慟哭したかった、と。