副鼻腔炎になった。

 

最近は、

なんだかいろいろ忙しくて

 

ずっとダルイ感じや

ぼーっとした感じがあったのだけど、

 

 

それは肉体的な疲れなのか?

なんなのかわからず、

 

ああ、おそらくこの症状は副鼻腔炎だろうなあと

思いつつ

今日、やっと病院へ行けた

という感じだ。

 

 

 

自分にとって

とても面白かったのだが

 

 

肉体的なだるさや

病気に関する痛みなどがあったとしても

 

 

真にある静寂だけは

まったく揺らがなかったこと。

 

 

むしろ、

大きく広がった、広大な静寂に包まれていて

 

その中で

自我の私は

あれこれ右往左往している感じ。

 

 

どうにも消えない赦しなんかもあって、

それも死にまつわる恐れだなという気づきもありつつ、

 

そんなこんなで右往左往もするのだけど、

 

 

それを取り囲んで静けさが広がっている。

 

 

反対に言えば

 

静けさの中で

自我の私にとっては

色んな事が、一見起こっているように

見えているだけなのだ。

 

 

ほんとうは

これまで全部そうだったのだな…

 

 

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副鼻腔炎のおかげで、

肉体に関する赦しがさらに

進んだように感じるし、

 

もうそれだけで

万事OK

 

 

何があっても、起こっても、

 

「それは何のためのものなのか?」

 

 

大事なのはこそだけなのだ。

 

 

 

エゴの防衛として使うのか、

ただ、赦しとするのか?

 

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そして、

これまた自分にとって面白いのが

 

 

悟りや覚醒とかって

 

本当は

まったくもって

エゴにとっては

くそ面白くもなんともないことなのかもしれない…

 

というさらなる気づき。

 

 

 

エゴから見ると

すべての特別性や偶像や自己概念を

どんどんとっぱらって

いくことでもあるから。

 

 

 

こんなん、だれもやりたくないだろうな昇天

 

 

アジャシャンティの本で

 

「禅の探究には少し変人にならなくてはなりません。」

「「変人だけが残る」と。」 「禅 空を生きる」P24

 

と書いてあって、

ほんとそうだろうなと思った。

 

 

まあ、やろうとやりまいと

真実はそうなのだから

逃れることはできないのだけどにっこり

 

 

 

とにかく、

 

悟りや覚醒なんてものは

 

本当は、「ただの人」に

なっていくことなのだと思う。

 

 

 

悟ったから、覚醒したから、

人生が素晴らしいものに変わる、

 

自分にとってとても都合の良いものに変化する

 

 

なんてことは

どうやら全くなさそうだ。

 

 

むしろ、

何が起こったとして、

それが

真の自分を損なうことは

一切ないと気づいていること

なのかもな。

 

 

 

まあ、私もまだまだ過程なので

どうなることやら歩く

 

 

ただ、

興味にのあることは

 

この静寂とさらに

合一していくことだけ。

 

 

どれだけここと一つになっていけるのだろう?

 

 

こんな事だけにしか

興味がないなんて

ほんと変人真顔