先日のGWキャンプの体験で
さらにいろんなことが
透明化したのか
一度、
居心地のよい場所を
離れることにした。
というか、
これも“私”が決めたことではなく
なんだか、
「それ以外の選択肢はない」
という感じだ。
(↑今の“私”にとってのガイダンスってそういう感じ)
そして、
長年携わってきた?
ヒプノセラピーという看板も
(というか、いつからそうしてきたのかも覚えていないのだが)
完全におろすことにした。
これもまた、
「それ以外の選択肢はない」
という感じだ。
※↑これについてはどうやらアイデンティの手放しを超えて、
今のところしばらくは使われていくらしいことがわかったので、訂正します。
あえて理由を言えば
今回手放したどれもが、
“私”というものの
アイデンティティとなっていたということ。
そのアイデンティティを手放した…
というところかな?
といっても、
この家庭や日常のこまごまから
離れる選択肢は
まったくわかないので
ま、そこでこそ
今度は、さらに微細な赦しが
起こるのだろう。
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いまは
この「やまうちかよ」というものが
ただの象徴でしかない感覚がある。
本当には存在もしていない
“からっぽ”なのだけど
(↑器も何にもない感じ)
“私”はいろんなものをくっつけて
「やまうちかよ」を
作り上げてるwww
そして、
周りのみんなも
「やまうちかよ」というものを
いろんな概念で作り上げた
ただの“象徴”として
みている。
“私”もそう。
周りの人やものや状況や
何もかもを“象徴”としてしか
みていない。
本当のところは
なにもみえてないのもしれない。
からっぽなのに
色んな概念をくっつけて
“象徴”としてみているだけ。
そこから考えても
やはりここは夢の世界
なのだな
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だけど、
そんなこと何にも問題ではないのだ。
“私”ができることは
ただ間違った見方を
訂正していくだけ。
その道がすでに
明らかに差し出されているなんて
なんて福音だろう
「この世界は奇跡に満ちている。
一つひとつの痛みと苦しみの夢や罪と罪悪の夢のすぐ傍らには、
奇跡が静けさの中で輝いている。
奇跡は夢に代わるもう一方の選択肢であり、
自分が夢を作り出すうえで果たしている
積極的な役割を否定するのではなく、
夢を見るもので居るという選択をすることである。」T28.Ⅱ.12.1-3