本日のワークブックレッスンは

 

レッスン100

「私の役割は神の救済計画に不可欠である。」

 

 

今朝も、

朝の瞑想前に音読して

 

その音読を録音したものを

何度か聞いている。

 

今日は、

(というか最近のレッスンがそんな感じだが)

 

一時間ごとに、五分間このレッスンをするわけだが、

その度に、この録音音声を聞いている。

 

 

改めて

何度も聞くと

ほんとすごいことが、

しかも、確信とともに

書いてあるなあと思う。

 

 

 

「自分の役割は幸せでいることだとよく理解しなさい。(T.L100.7-3)」

 

私たちの役割って

ただ幸せであることなのだ。びっくり

 

 

 

「それでは今から、その喜びを見つけ出すことを試みよう。(T.L100.8-1)」

 

「それをここで見つけること、しかも今見つけることが、あなたの機能(はたらき)である。(T.L100.8-2)」

 

そして、その幸せは、今!!この瞬間に達成できるのだ。

 

今、今、今、今ですよ!って有無を言わさず書いてあるw

(今って漢字、改めて見ると笑ってるように見えるな…)

 

 

どこにも気を散らすことなく、

いま!今この瞬間に内側から湧き上がる喜びだけに目を向ける。

 

それだけが、、

それだけが自分の役割だったって…

 

なんかほんとすごい昇天

 

 

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最近、

特に、この朝の瞑想をするようになってから

 

日常がすべて

この瞬間の幸せで満たされていることを

感じられるようになって

 

日常見えるものが、体験されることが

「幸せ」のフィルターを

通してる現われてる感じがする。

 

 

逆にいうと、

見えるもの、

体験されることが、

実在性がないというか、

リアリティがない感じで…

 

 

本当に実在しているのは

「幸せ」だけだったんだなと

体験していくような感じ。

 

 

 

もちろん、

自我の自分、

これまでの自分からすると

絶対に「いやいやいやいや、それないですわ…滝汗

ってことも何度も起こるのだが、

 

どんなびっくり、がっかりするような体験も

全て赦しの対象であり、

 

赦しをすれば

一瞬で(いや時間かかることもあるw)

そのがっかりや不快感は

 

幸せの感覚へと

覆われてしまう。

 

 

「赦し」を地道にやってると

 

自分の知覚がほんと嘘っぱちに思えてくるし、

 

なあんだ、マジで全部が幸せしかないじゃんと

確信させられてくるというか…

 

 

 

どうやら、

本当に

幸せだけが

実在するものなのかもしれない…

 

 

 

私は

ただただ、

 

目の前に起こることを

「はーー」「ほーーー」と

まるで映画を観るように観察して

 

そこに「不幸」が見えたら

そのフィルターを磨いて

「幸せ」へと置き換えていく。

 

 

ただ、それだけが自分の仕事。

 

 

 

 

そして、

 

その幸せ感をますます深めていくこと。

 

 

どんどん深みを増していくから

またなんとも面白い。

 

 

生きてることって

これをやっていくだけだったなんて…

 

なんと幸せなことなんだろう。