なんだか、最近、

小さいころから自分が望んでいた状態に

やっとたどり着いた気がしている。

 

 

それは、

 

「心が楽になること」

 

 

とにかく、

存在してるだけで

苦しくてたまらない。

 

早く死んでしまいたい。。

 

 

そんな心の状態を

やっと超えた気がしている。

 

 

 

うむ、ここまで来るのにどんだけの時間や労力を費やしたのだろうw

 

 

まあ、必然だった気がするので

それはそれという感じだが。

 

 

 

今回なんだか今の状態をまとめてみようと

思ったのは、

 

この「心が楽になる」=「平安状態を維持できる」

 

 

これを達成した時に

若干、パニくったからw

 

 

 

なんでパニックになったかというと

知らず知らずのうちに

その達成状態に対して

凝り固めていたイメージがあったようで、

 

実際そうなると、

 

そのイメージとはまったく違う状態があった。

 

 

 

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まず、

 

平安の維持を達成したら、、、、

 

それを“伝える立場”になると思っていたww

いわゆる、“ティーチャー”みたいなのになって、

なんか、「会」とかを開いてみたり、

みんなで共有したり、、自然とそうなるのかな?

そう思い込んでいたwww

 

これって、本当に勝手なカン違いで

これこそ特別性であった。

(因みに、奇跡講座でいう「教える」って

たんに“赦し”のことを指してる)

 

 

 

面白いのが、

 

自分が平安でいると

周りも平安にしか見えない(思えない)のだ。

(まあ、“赦し”ってそうだもんねw)

 

 

そして、

“自分”という境界も“他人”という境界も

その平安からだと

存在しないわけで、、、

 

 

一体、誰が、誰に教えるの??

伝えるの???

 

(・・?

 

そうなっちゃう。

 

 

 

学ぶ誰かも

一緒に学ぶ他の誰かも

 

そこには存在しないのだ。

 

 

 

私も他の誰かも

存在しない…

 

 

それって

すごく空虚な感じがするのだけど、

 

いやいやぜんぜん違うのだ。

 

 

 

その何にもない感じは

 

とても平和で

問題なんてどこにもなくて

 

ただ、幸せだけが一貫して存在している。

 

 

 

わーおって感じだ。

 

 

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あと、

もうひとつの勝手なイメージは

 

 

“私”という人間が、

すごく素晴らしい人間になると思ってたwww

 

 

 

いろんなことや人に対して

 

あたたかくて、包み込むような笑顔しかなくて、

とにかく素晴らしい人www

 

 

 

しかし、実際は

その“平安”と

“私”個人の性格?みたいなものは

まったく関係がなかった。

 

 

“私”自体がどんなに悪どいいじわるな人間だとしても

その“平安”はまったく関係なくそこに在る。

 

 

むしろ、

その“平安”は

どんなき汚い臭いキモイ?モノだったとして、

反対に、めちゃめちゃ美しくきれいでいい匂いで素晴らしいものだったとしても

どんなモノ?存在?でも

あるがままに自由にさせてくれるのだ。

在らしめてくれるというか。

 

 

 

映画とスクリーンの例えは

本当にドンピシャで

映画に写る物語はなんでもよくて

スクリーンには一切なんの影響も与えることはないのだ。

 

スクリーンは、

静けさ、実相、真我…はただ、在るのだ。

 

 

 

んじゃ、それに気づいたときの個人がどうなるか?

 

 

それもそれぞれの個で、

起こることが起こるのだろうが。

 

 

“私”の場合は

 

夫曰く、

動揺することや、イライラしたり、怒ったりすることが

格段に消えたそうで、

 

その変化に、

夫が一番びっくりΣ(゚Д゚)している昇天

 

 

自分の認識では、

もし動揺があれば“赦し”だし

その“赦し”をする機会が

以前よりは減ってるなあとは思う。

 

 

 

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んじゃ、

この世界?この現実(と思い込んでいるこの場所)では

どう生きるのか?

 

 

ただ生きるのだwwww

 

 

「“私”が生きる」

と思うから苦しむわけでww

 

 

ただ生きるのだ。

 

 

ただ、起こることが起こるので

ただ、そこにいるだけなのだ。

 

 

 

そこに、

なんの雑音もなく

苦しみも悲しみもなく

 

ただ、“そう”なのだ。

 

 

 

これって

非二元とかで

よく聞いていた話だけど、

 

 

本当にそうだった…。。

 

 

 

 

この、“ただ平安な状態”

 

そうまさに、ただの状態

 

これこそが

本性、真我、実相…

なんと言葉にしてもよいのだが。

 

 

なんにも特別なことはなかった昇天

 

 

ただ、“そう”なのだ。

 

 

 

あまりにも“特別感”がなくて

肩透かしw

 

 

 

だけど、

ただ幸せ。

 

 

本当に外的状況に左右されない幸せにっこり

 

 

 

そして、

反対にいえば、

 

その当たり前の幸せに

佇むことへの

恐怖といったら!!笑

 

私の体験だと、

 

これこそが

“神への恐れ”というもの。

 

 

“神”って

すごいんだけど

あたりまえで

本当はなんでもないものでもある。

 

 

 

まとまりないけど

まあ、そんな感じ。

 

 

 

「私は、私であるものを知らない。

だから、私が何をしているのか、どこにいるのか、

あるいは、この世界や自分自身をどのように見たらよいのかも、知らない。」T31.Ⅴ17.7