どうしてこの世に生きているのかしらとか、そんな風な問いを考えるのは恐ろしく贅沢で芳醇な証なのでしょう。
例えばそのあたりに生きている野生の生き物たち、道端で寝転がる野良猫だとか、あの無垢な目をした渡り鳥などが、そのようなと問をその頭の中で繰り返しているとはとても思えないからです。その問いは、私たち人間というこの奇妙な形(私は人間を、奇妙な形をしていると思います)の生き物に特有な、ある種のしるしのようなものなのかもしれません。あるいは、それこそが、私たちという生き物を特徴づけるアイデンティティそのものなのかもしれません。
そうなのだとしたら……今私の頭を占めているこの途方もない考えはすべて、食事をするとか、排泄をするとか、性交をするとか、そう言ったことと同じように取るに足らない、日常の営みに過ぎないのでしょう、おそらく私がこのように筆をとり、このような文字をつらねていることも、おそらくまったく、当然で当たり前で、情けないようなことなのでしょう。
ひとはなぜ物語を必要とするのでしょう
ひとはなぜ物語を生みださないといけないのでしょう
そのような問いも、おそらく、同じようなカテゴリ—に含まれてしまう愚問なのでしょう。
ひとは……おそらく、この不格好な形をした生き物は、とてつもなく愚かで、無駄が多く、絡み合っていて、無意識などという名前の暗い海を発見してしまったために、それを満たすために、物語を欲しているのでしょう、その海から拾ってきた正体不明の醜い魚に意味を見つけるために、それを物語と名付けているのでしょう、そして人は、人の釣ってきた上質な魚と、自らの海で培養した平凡な魚をむさぼることで、生きていこうとするのでしょう。物語をまったく必要としない人もいますが、そのような人は、また別の海を持っているのでしょう、きっと誰もがその海を持っていて、その海の水が完全に自分のものになるまで、物語を欲し続けるのでしょう。
そこにはそれぞれの海があり、それぞれの生態系があり、それぞれの海峡や海流や環境破壊があり……
ひとの意識は、海に似ていると思います。
だから人は、海を見ると落ち着くのでしょう。
海が見たいと思います。
そこは、私の中に存在する海です。
それは私の中に存在するとてつもなく美しくて、そしてどうしようもないぐらい切ない、夕暮れの少し前の時間です。そらは、白く、ほのかにピンクかかっていて、光は金色で、その金の部分だけを、海は反射しています。
波は比較的高く、なんども、なんども、なんども、打ち寄せて、返し、打ち寄せて、返し、それは、永遠に永遠に終わることのない繰り返しを続けます。
繰り返し、繰り返し、繰り返し、その表面のきらめきを見つめながら私は途方にくれます。おそらくその、表面的に美しくて穏やかな海の底には、私には想像もつかないような世界が広がっているのですから。私はその圧力に耐えることができないので(第一そこは、私が潜るには何もかもがたらなすぎます)、私はそれを想像することしかできません。そこには何がいて、どんな風な幸福があり不幸があり、また、未来があるのでしょう。
私が途方に暮れているのは、おそらく、この現代に生きる私の同胞たちは、その海の中にいるものを、無理やりにでも暴こうとしているようにみえるからです。彼らは、その海の途方もない広さを知らないのです。その海がどれだけ残酷で、どれだけ無慈悲かも知らないのです。知っていても、彼らは挑もうとするのです。無謀な船出に出るのです。自分は立派な船を持っているから、自分は十分なだけのダイビングスーツを持っているから、自分は最新鋭の潜水艦を持っているから、大丈夫なのだと彼らは言います。自分の海の美しさを誇り、自分の海の珍しい魚を掘り起こし、それができないものを、嘲笑います。
私が途方に暮れているのは、私自身もそれと同じことをしようとしているからです。しかも私は、全くの丸腰で、何も持たず、今にも息をつめて、丸裸で、海に飛び込もうとしているのです。
どうして生まれてきたのか、どんな意味がそこにあるのか、その、見つけることのかなわぬ宝を見つけるためには、私は飛び込まないといけないのです。
たとえ人が、それを、自害と呼ぶのだとして
堂々としたでかい音楽が鳴り響いてる。
タマオはぼんやりとほおづえをついて、でかいホールの真ん中の階段に座っている。本当は、サボっていてはいけない。タマオが現在するべきなのは、ホールを掃除する事であって、昨夜の客が残したパンフレットやペットボトルのゴミを回収する事であって、シミやしわや汚れがないか一個一個のシートを確認する事であって、音楽を鑑賞することではない。それがコンサートホールの掃除人としてのタマオのわきまえるべき領域なのだ。
だけどもタマオは、階段に座り込んで、重要にして古典的な命題でも考えるみたいに、眉間にしわを寄せて音楽を聴いている。
ステージの上では、オーケストラがリハーサルだかなんだかをやっている。実際のコンサートじゃないから、みんなジーパンだのTシャツだの適当な格好をしているし、曲だって途中で何度も止まる。指揮者のおじさんがなんのかんのという。チューニングをする。誰かかれか出たり入ったりする。そういうのをぼんやり見るともなく見ながら、タマオはマチコさんのことを考えている。
マチコさんはタマオのかつての恋人であって、今は養老院に入っている。かつて、あの夏がすべて若い自分たちのものだったころ、タマオはマチコさんにレコードをプレゼントした。今、ステージでまさに練習中の、その曲が一曲目に入っていた。タマオもマチコさんも、その曲が嫌いだった。それ以外は全部好きなのに、それが嫌で、いつも針をひょいと、二曲目のあたりに合わせて聞いていた。マチコさんの小さく白い耳がタマオの肩にちょこんとつけられている。マチコさんの優しい息づかいがタマオのそれを呼応する。素敵な夏の夕暮れの、真っ赤な世界の中で、沈んで行く世界の淵で、二人で何も言わずに、音楽を聴いていた。
どうしてこの曲が嫌いだったんだろうなあ、とタマオはぼんやりと思う。今聞けば、決して悪い曲じゃない。そりゃ、いささか大仰だしセンチメンタルにすぎるけれども、夏の恋人たちに嫌われるほどの価値がない物でもないと、今だったら思う。だけどマチコさんもタマオも、その曲がちょっとでもかかるとすぐに、あたかもそれが不愉快な虫だとか、そういうもののように嫌悪して、ひょっと針を動かした。
タマオは行きつ戻りつしながら練習されるその曲を、五十年ぶりに聞いた。よく考えてみれば、あのレコードでも、まともに聞いた事がなかった。かかるとすぐに変えていたから当然だけれど。
そして今も、本番ではないから決して通して聞く事ができない。
タマオはその曲のタイトルさえわからなかった。
レコードを手に入れたのには奇妙な経緯があった。タマオはそれを自分で買ったのではなかった。タマオは非常に貧乏な学生であり、金は底をつき、食べる物にも困るような有様だった。とてもじゃないが、レコードなどに手を出せるはずがない。
マチコさんはお嬢さんで、お宅には立派なステレオ装置がひとそろいそろっていた。革張りのソファにはなぜかレースがかけられていて、すわるとそれがどうもちくちくして好かなかった。
マチコさんは音楽を好んだ。といっても、ピアノもバイオリンも弾けなかった。マチコさんは右腕が根元からなかったのである。もしも不幸な事故がなければ、マチコさんはきっと音楽家になろうと思ったであろう。その夢が叶うか叶わぬかはわからないけれど、きっと志したのではないかと思う。けれど、腕がなくなった地点でマチコさんは、音楽を鑑賞する側に徹するようになった。深くソファに座り込んで、耳を傾けるものだった。しかしただ聞くだけではなく、マチコさんは時々哲学をした。音楽について深く考察していた。
「音楽を聴いていると、自分の心のなかに、こんな風な場所があったのかって、驚く事があるの。そんな風に考えた事はない?」
マチコさんはよくそんな風に、タマオに声をかけた。
「音楽がね、思ったより早く動いたり、ゆっくりうごいたり、あがったりおりたり、じれったかったり、そのね、流れに自分の心をヒョイッと乗っけてしまうと、不思議とそれまでただの音楽として聞いていたメロディの流れが、急に自分を乗せる船のようになるの。思いもがけない場所へつれていく船なの。私は、自分が行きたい場所にいける船をこうして選んでいるの」
レコードのジャケットをなでながら、マチコさんはそう言う。
タマオは音楽に対してまったくの無関心だ。流行の歌ぐらいは口ずさむが、マチコさんがそういう世俗の歌を好むはずはないと知っていた。どちらかといえば、クラシック音楽は退屈で長くて、そわそわした。眠たくなった。だけども、そういう気に入った音楽を聴いているときのマチコさんはとても美しくて、うっとりとしていて、それを見るのが好きで、タマオはじっと何も言わずに、マチコさんの隣でわからない音楽を聴き続けるのだった。
「音楽を聴いているときだけ、私は自分を旅して、なくしてしまった私の右腕を探す事ができるような気がするの。もちろん、あれはもうどこにも存在しないのだけど。だけど私が言っているのは、私が 実際に なくした腕そのもののことじゃないの。私の 腕 という形をとったなにものか、形にならない、言葉にもできないものを、探しているの。私がかつて当たり前にもっていて、今なくしてしまったもののことよ。私はそれを探すために、たくさんの船を探しているの」
タマオの汚い下宿屋の、部屋の真ん中にしらないレコードが落ちているのを見つけたときはびっくりした。四畳半で、知らないひとでも入れるような、ただのふすまのような入り口がついているだけだから、単純に考えれば、誰かがふすまをあけてこれをタマオに渡すために放り投げたことになる。
だけども、タマオにはそんな効果な贈り物をくれるような友人はいなかった。となると、一番有力なのは、誰かが部屋を間違えたということだった。この下宿にすむ他の人の部屋に放り投げたつもりが、タマオの部屋に入れてしまったのだ。
それはクラシックのレコードだった。いかにもマチコさんが好みそうな雰囲気のジャケットだった。タマオはそれのただしい持ち主を探すつもりでいた。しかし、じっと真っ赤な光の中で、ヒグラシの声を聞いているうちに、がばと立ち上がり、マチコさんの屋敷まで走り出していた。
部屋に落ちていたのがクラシックのレコードであった事が何かの運命だとタマオは思った。タマオは、マチコさんをどこかにつれていける船を手に入れたのかもしれないと思った。
マチコさんは案の定とても驚いた。タマオが至極貧乏であることを、誰よりも彼女は知っていたからである。しかし、タマオが無理をしてそれを手に入れたのかもしれぬと思ってマチコさんの胸は熱く震えた。
しかもそれは、幼い頃にマチコさんが持ち出したきりなくしてしまった大事なレコードと全く同じだった。ある春の日に小さなマチコさんはその気に入りのレコードを旅行に連れて行こうと鞄につめ、そのままなくしてしまったのだという。車の中では決して鞄をひらかなかったのに、目的地の別荘についてひらいてみると、それはどこにもなかった。マチコさんのお父さんがとても気に入っているものだったので、勝手に持ち出してなくしたことで、マチコさんは怒られてしまった。マチコさんがお父さんに怒られたのはそれが最初で最後だったのだというのだから、それがどれだけ大事なレコードか、推して知るべしである。
「それをどうしてあなたが知っているはずもないのに、今こうしてここにあるのかしら」
と、マチコさんは言った。マチコさんはもはやぽろぽろと涙をこぼしていた。
「もしかしたら、それは同じレコードなのかもしれないね」
と、タマオは言った。
二人はよりそって音楽をかけてみた。すると例の大仰な曲がかかった。それは、センチメンタルで涙もろい今の雰囲気にあっていなかった。だからマチコさんはもどかしい手つきでそれをひょいと飛ばした。二曲目からは、魂がそっと震えるような静かな音楽だった。それ以降、一曲目が聞かれる事はなかった。
タマオは主任に怒られる前に立ち上がればならない。しかし、釘付けされたように動けない。
私たちはどうしてこんなに遠くまできてしまったのだろう、とタマオは思った。
あれからいくつもの年月が流れ、今はこうしてコンサートホールを日々磨き続ける毎日だ。マチコさんは小さく小さくしぼむようになって、もう消えてしまいそうになっている。
大仰でドラマチックなその音楽がぴったりくるような、そんなぐらいの時間が経っている。
タマオは、マチコさんに会いに行こうかと考える。
タマオはぼんやりとほおづえをついて、でかいホールの真ん中の階段に座っている。本当は、サボっていてはいけない。タマオが現在するべきなのは、ホールを掃除する事であって、昨夜の客が残したパンフレットやペットボトルのゴミを回収する事であって、シミやしわや汚れがないか一個一個のシートを確認する事であって、音楽を鑑賞することではない。それがコンサートホールの掃除人としてのタマオのわきまえるべき領域なのだ。
だけどもタマオは、階段に座り込んで、重要にして古典的な命題でも考えるみたいに、眉間にしわを寄せて音楽を聴いている。
ステージの上では、オーケストラがリハーサルだかなんだかをやっている。実際のコンサートじゃないから、みんなジーパンだのTシャツだの適当な格好をしているし、曲だって途中で何度も止まる。指揮者のおじさんがなんのかんのという。チューニングをする。誰かかれか出たり入ったりする。そういうのをぼんやり見るともなく見ながら、タマオはマチコさんのことを考えている。
マチコさんはタマオのかつての恋人であって、今は養老院に入っている。かつて、あの夏がすべて若い自分たちのものだったころ、タマオはマチコさんにレコードをプレゼントした。今、ステージでまさに練習中の、その曲が一曲目に入っていた。タマオもマチコさんも、その曲が嫌いだった。それ以外は全部好きなのに、それが嫌で、いつも針をひょいと、二曲目のあたりに合わせて聞いていた。マチコさんの小さく白い耳がタマオの肩にちょこんとつけられている。マチコさんの優しい息づかいがタマオのそれを呼応する。素敵な夏の夕暮れの、真っ赤な世界の中で、沈んで行く世界の淵で、二人で何も言わずに、音楽を聴いていた。
どうしてこの曲が嫌いだったんだろうなあ、とタマオはぼんやりと思う。今聞けば、決して悪い曲じゃない。そりゃ、いささか大仰だしセンチメンタルにすぎるけれども、夏の恋人たちに嫌われるほどの価値がない物でもないと、今だったら思う。だけどマチコさんもタマオも、その曲がちょっとでもかかるとすぐに、あたかもそれが不愉快な虫だとか、そういうもののように嫌悪して、ひょっと針を動かした。
タマオは行きつ戻りつしながら練習されるその曲を、五十年ぶりに聞いた。よく考えてみれば、あのレコードでも、まともに聞いた事がなかった。かかるとすぐに変えていたから当然だけれど。
そして今も、本番ではないから決して通して聞く事ができない。
タマオはその曲のタイトルさえわからなかった。
レコードを手に入れたのには奇妙な経緯があった。タマオはそれを自分で買ったのではなかった。タマオは非常に貧乏な学生であり、金は底をつき、食べる物にも困るような有様だった。とてもじゃないが、レコードなどに手を出せるはずがない。
マチコさんはお嬢さんで、お宅には立派なステレオ装置がひとそろいそろっていた。革張りのソファにはなぜかレースがかけられていて、すわるとそれがどうもちくちくして好かなかった。
マチコさんは音楽を好んだ。といっても、ピアノもバイオリンも弾けなかった。マチコさんは右腕が根元からなかったのである。もしも不幸な事故がなければ、マチコさんはきっと音楽家になろうと思ったであろう。その夢が叶うか叶わぬかはわからないけれど、きっと志したのではないかと思う。けれど、腕がなくなった地点でマチコさんは、音楽を鑑賞する側に徹するようになった。深くソファに座り込んで、耳を傾けるものだった。しかしただ聞くだけではなく、マチコさんは時々哲学をした。音楽について深く考察していた。
「音楽を聴いていると、自分の心のなかに、こんな風な場所があったのかって、驚く事があるの。そんな風に考えた事はない?」
マチコさんはよくそんな風に、タマオに声をかけた。
「音楽がね、思ったより早く動いたり、ゆっくりうごいたり、あがったりおりたり、じれったかったり、そのね、流れに自分の心をヒョイッと乗っけてしまうと、不思議とそれまでただの音楽として聞いていたメロディの流れが、急に自分を乗せる船のようになるの。思いもがけない場所へつれていく船なの。私は、自分が行きたい場所にいける船をこうして選んでいるの」
レコードのジャケットをなでながら、マチコさんはそう言う。
タマオは音楽に対してまったくの無関心だ。流行の歌ぐらいは口ずさむが、マチコさんがそういう世俗の歌を好むはずはないと知っていた。どちらかといえば、クラシック音楽は退屈で長くて、そわそわした。眠たくなった。だけども、そういう気に入った音楽を聴いているときのマチコさんはとても美しくて、うっとりとしていて、それを見るのが好きで、タマオはじっと何も言わずに、マチコさんの隣でわからない音楽を聴き続けるのだった。
「音楽を聴いているときだけ、私は自分を旅して、なくしてしまった私の右腕を探す事ができるような気がするの。もちろん、あれはもうどこにも存在しないのだけど。だけど私が言っているのは、私が 実際に なくした腕そのもののことじゃないの。私の 腕 という形をとったなにものか、形にならない、言葉にもできないものを、探しているの。私がかつて当たり前にもっていて、今なくしてしまったもののことよ。私はそれを探すために、たくさんの船を探しているの」
タマオの汚い下宿屋の、部屋の真ん中にしらないレコードが落ちているのを見つけたときはびっくりした。四畳半で、知らないひとでも入れるような、ただのふすまのような入り口がついているだけだから、単純に考えれば、誰かがふすまをあけてこれをタマオに渡すために放り投げたことになる。
だけども、タマオにはそんな効果な贈り物をくれるような友人はいなかった。となると、一番有力なのは、誰かが部屋を間違えたということだった。この下宿にすむ他の人の部屋に放り投げたつもりが、タマオの部屋に入れてしまったのだ。
それはクラシックのレコードだった。いかにもマチコさんが好みそうな雰囲気のジャケットだった。タマオはそれのただしい持ち主を探すつもりでいた。しかし、じっと真っ赤な光の中で、ヒグラシの声を聞いているうちに、がばと立ち上がり、マチコさんの屋敷まで走り出していた。
部屋に落ちていたのがクラシックのレコードであった事が何かの運命だとタマオは思った。タマオは、マチコさんをどこかにつれていける船を手に入れたのかもしれないと思った。
マチコさんは案の定とても驚いた。タマオが至極貧乏であることを、誰よりも彼女は知っていたからである。しかし、タマオが無理をしてそれを手に入れたのかもしれぬと思ってマチコさんの胸は熱く震えた。
しかもそれは、幼い頃にマチコさんが持ち出したきりなくしてしまった大事なレコードと全く同じだった。ある春の日に小さなマチコさんはその気に入りのレコードを旅行に連れて行こうと鞄につめ、そのままなくしてしまったのだという。車の中では決して鞄をひらかなかったのに、目的地の別荘についてひらいてみると、それはどこにもなかった。マチコさんのお父さんがとても気に入っているものだったので、勝手に持ち出してなくしたことで、マチコさんは怒られてしまった。マチコさんがお父さんに怒られたのはそれが最初で最後だったのだというのだから、それがどれだけ大事なレコードか、推して知るべしである。
「それをどうしてあなたが知っているはずもないのに、今こうしてここにあるのかしら」
と、マチコさんは言った。マチコさんはもはやぽろぽろと涙をこぼしていた。
「もしかしたら、それは同じレコードなのかもしれないね」
と、タマオは言った。
二人はよりそって音楽をかけてみた。すると例の大仰な曲がかかった。それは、センチメンタルで涙もろい今の雰囲気にあっていなかった。だからマチコさんはもどかしい手つきでそれをひょいと飛ばした。二曲目からは、魂がそっと震えるような静かな音楽だった。それ以降、一曲目が聞かれる事はなかった。
タマオは主任に怒られる前に立ち上がればならない。しかし、釘付けされたように動けない。
私たちはどうしてこんなに遠くまできてしまったのだろう、とタマオは思った。
あれからいくつもの年月が流れ、今はこうしてコンサートホールを日々磨き続ける毎日だ。マチコさんは小さく小さくしぼむようになって、もう消えてしまいそうになっている。
大仰でドラマチックなその音楽がぴったりくるような、そんなぐらいの時間が経っている。
タマオは、マチコさんに会いに行こうかと考える。
彼女は完全に行き詰まっていた。
細長い白い画面を眺めながら、ブルーベリーのジュースを飲んだ。飲んでも、疲れた目はかすんだままだったし、さっき飲んだバファリンも、この壮大な頭痛をおさめてはくれなかった。
明日の朝までに、彼女はあるインディーズバンドのCDジャケットのイラストを制作する予定だった。
それは美術学校に通う学生である彼女にとってはじめての、仕事らしい仕事だった。
そのバンドのボーカルが、インターネットにアップしていた彼女の絵を気に入り、セカンドアルバムを制作する際には是非イラストをお願いします、とメッセージを送ってきたのが半年前。その時は本当に嬉しくて、さっそくライブへ行ったり、ファーストアルバムを購入したりした。
彼らの歌は、荒削りだし、八割がたは、何かのコピーのように聞こえた。バンド全盛期風の正当的な青春風の歌を歌い、時々メッセージ性がありそうな歌曲やバラードも挟む。どれも聞きやすいし、歌詞も所々に、あっと言うようなオリジナルな部分がある。だけどどうしても、ライブが終わればその歌曲を思い出せない。口ずさんで、自分の人生に沿わせることができない。彼女はそれでも、ipodに歌曲を落とし込んで何度も聞いた。昔からバンドが好きな彼女は結構そのグループが好きになった。その第二アルバムを自分の絵が彩るだなんて考えただけでも胸がときめいた。
そのうちにメンバーとも親しくなり、一月に一度は酒を飲む仲にもなった。彼女は誰とでもすぐに打ち解けられるという得難い特技を持っていたので、内気なメンバーも次第に心を開いてくれた。
バンドは全員27歳の会社員五人組で、高校時代からメンバー一人も欠けずにずっと続いているそうだ。別々の会社に勤め、日々残業に時間を奪われながらも、週に一度はあつまって練習をしている。
「それってすごく難しい事なんじゃないの」
と彼女は尋ねた。誰か一人ぐらい、ネをあげそうなものだけど。
「難しいよ」と、キーボードが言った。彼は一番端っこに座り、メンバーのなかでは一番社交的に見えた。しかし、一番最初にやめそうなタイプだな、と彼女は思った。なんとなく、存在が地面に足をつけていない感じがする。口当たりも雰囲気も柔らかいけれど、それは何かを綺麗に覆うパッケージにすぎず、本当は皮肉と冷徹がその中に隠れている。器用だからそれを隠す事ができるのだ。そんな感じだった。あとのメンバー、特にボーカルなんて、それを隠すパッケージすら上手に用意できてないみたいだったから。
「でも、続けてんだね。そして、アルバムも最近になるまで発売しなかったんだね。なんで?」
「食べられるから」
と、ベースがつぶやいた。
「は?」
「やめろよ」と、ギターが制しなければ、ベースはまだ続けそうだったが、その一声でベースは口をつぐみ、全員がしんとしてしまった。彼女は焼酎のグラスを傾けながら、このメンバーを覆う、なんだか得体の知れない空気は一体なんなんだろう、と思った。それは歌曲にも共通したものだった。一見口当たりがよく、あたりさわりがなく、悪く言えば個性のない歌なのだが、そのどこかしこに、何か不似合いなものが入り交じっていて、それでなんだか奇妙なざらっとした感じが残る。そこが彼らの持ち味なのかもしれないと思っていたが、こうして実際生身の本人と対面していて、違和感はさらに強くなった。
画面をにらんだまま、彼女は硬直し続ける。
ヘッドホンからはセカンドアルバムの歌曲が流れている。
それは、素敵な恋人と別れたあとの男の気持ちを歌っている。罪のない歌詞、罪のないメロディ、ちょっと息が苦しい人のような独特なボーカルの声。きっと、手に取りやすい綺麗なイラストを期待されているんだ、と彼女は思う。彼女の絵のタッチはもともと水彩とデジタルを併用した、柔らかくカラフルで現像的な感じだった。しかし、この歌曲の群れにそんな絵をつけることが、彼女にはどうしてもできない。
まぶたの裏に強烈なイメージが浮かぶ。
それは巨大な生き物で、それが彼らのすぐ後ろに大きな口を開いて待っている。彼らは歌い続けないと食べられるのだ。
スケッチブックには大きな黒い丸しか描けない。彼女はぼんやりとそれを見つめる。
深い夜の闇が彼女のすぐ後ろまで迫っている。
食べられる。
細長い白い画面を眺めながら、ブルーベリーのジュースを飲んだ。飲んでも、疲れた目はかすんだままだったし、さっき飲んだバファリンも、この壮大な頭痛をおさめてはくれなかった。
明日の朝までに、彼女はあるインディーズバンドのCDジャケットのイラストを制作する予定だった。
それは美術学校に通う学生である彼女にとってはじめての、仕事らしい仕事だった。
そのバンドのボーカルが、インターネットにアップしていた彼女の絵を気に入り、セカンドアルバムを制作する際には是非イラストをお願いします、とメッセージを送ってきたのが半年前。その時は本当に嬉しくて、さっそくライブへ行ったり、ファーストアルバムを購入したりした。
彼らの歌は、荒削りだし、八割がたは、何かのコピーのように聞こえた。バンド全盛期風の正当的な青春風の歌を歌い、時々メッセージ性がありそうな歌曲やバラードも挟む。どれも聞きやすいし、歌詞も所々に、あっと言うようなオリジナルな部分がある。だけどどうしても、ライブが終わればその歌曲を思い出せない。口ずさんで、自分の人生に沿わせることができない。彼女はそれでも、ipodに歌曲を落とし込んで何度も聞いた。昔からバンドが好きな彼女は結構そのグループが好きになった。その第二アルバムを自分の絵が彩るだなんて考えただけでも胸がときめいた。
そのうちにメンバーとも親しくなり、一月に一度は酒を飲む仲にもなった。彼女は誰とでもすぐに打ち解けられるという得難い特技を持っていたので、内気なメンバーも次第に心を開いてくれた。
バンドは全員27歳の会社員五人組で、高校時代からメンバー一人も欠けずにずっと続いているそうだ。別々の会社に勤め、日々残業に時間を奪われながらも、週に一度はあつまって練習をしている。
「それってすごく難しい事なんじゃないの」
と彼女は尋ねた。誰か一人ぐらい、ネをあげそうなものだけど。
「難しいよ」と、キーボードが言った。彼は一番端っこに座り、メンバーのなかでは一番社交的に見えた。しかし、一番最初にやめそうなタイプだな、と彼女は思った。なんとなく、存在が地面に足をつけていない感じがする。口当たりも雰囲気も柔らかいけれど、それは何かを綺麗に覆うパッケージにすぎず、本当は皮肉と冷徹がその中に隠れている。器用だからそれを隠す事ができるのだ。そんな感じだった。あとのメンバー、特にボーカルなんて、それを隠すパッケージすら上手に用意できてないみたいだったから。
「でも、続けてんだね。そして、アルバムも最近になるまで発売しなかったんだね。なんで?」
「食べられるから」
と、ベースがつぶやいた。
「は?」
「やめろよ」と、ギターが制しなければ、ベースはまだ続けそうだったが、その一声でベースは口をつぐみ、全員がしんとしてしまった。彼女は焼酎のグラスを傾けながら、このメンバーを覆う、なんだか得体の知れない空気は一体なんなんだろう、と思った。それは歌曲にも共通したものだった。一見口当たりがよく、あたりさわりがなく、悪く言えば個性のない歌なのだが、そのどこかしこに、何か不似合いなものが入り交じっていて、それでなんだか奇妙なざらっとした感じが残る。そこが彼らの持ち味なのかもしれないと思っていたが、こうして実際生身の本人と対面していて、違和感はさらに強くなった。
画面をにらんだまま、彼女は硬直し続ける。
ヘッドホンからはセカンドアルバムの歌曲が流れている。
それは、素敵な恋人と別れたあとの男の気持ちを歌っている。罪のない歌詞、罪のないメロディ、ちょっと息が苦しい人のような独特なボーカルの声。きっと、手に取りやすい綺麗なイラストを期待されているんだ、と彼女は思う。彼女の絵のタッチはもともと水彩とデジタルを併用した、柔らかくカラフルで現像的な感じだった。しかし、この歌曲の群れにそんな絵をつけることが、彼女にはどうしてもできない。
まぶたの裏に強烈なイメージが浮かぶ。
それは巨大な生き物で、それが彼らのすぐ後ろに大きな口を開いて待っている。彼らは歌い続けないと食べられるのだ。
スケッチブックには大きな黒い丸しか描けない。彼女はぼんやりとそれを見つめる。
深い夜の闇が彼女のすぐ後ろまで迫っている。
食べられる。
