「東海道中膝栗毛」NHK名古屋『金とく』の東海道散歩の放送11月4日20時との偶然のマッチングに合わせて
「有松宿」のエッセイを載せてみます。(マッチングの偶然はおどろき!です。
このエッセイは10月に作成しました。)
「旧東海道 『有松宿』 有松絞り」
私は、涼しくなった秋の風に誘われて、プチ旅行に出かけることにした。
行先は、名古屋の緑区有松である。
金山駅から名鉄で東岡崎行の電車に乗った。金山駅は、総合駅となっており、JR、名鉄、地下鉄に乗ることの出来る便利でにぎやかな駅である。
最近は、『TOICA』(トイカというICカード)でピッと軽快に改札を通り電車に乗ることも出来るようにもなった。
有松」と言えば、「有松絞り」である。母の実家があり、小さな頃に連れて行ってもらった思い出がある。祖母が「有松絞り」を作っていたことを母が私に話しをしていたことを電車の中で思い出していた。
私は、名鉄・東岡崎行の電車に乗るといつも、きめこまかな温かい人情に包まれた気持ちになる。何故なら、乗り合わせた人の話が、初めて乗り合わせたのにもかかわらず、電車の中では、前から知り合いのように会話を楽しんでいることが多いからだ。
その言葉は、独特の柔らかい三河弁に近い名古屋弁で、温かい会話が聞こえているのだ。
母も同じように、私の顔が赤らむぐらい初めての知らない乗り合わせた人に、気軽に声をかける人であった。恥ずかしいようでもそばで聞いていると楽しくなることもあった。
今では、あまり考えられないが、気軽に「お子さんですか?」と聞かれて飴をもらったこともある。そんな電車の中の風景は、懐かしい気がした。
それで、「有松」の名の由来をインターネットで調べて、引用をしてみた。
―――松林が一面に広がっていました。そのためもあり、追いはぎが続出し、江戸幕府としても治安維持に困り果てていたようです。そこで、尾張藩が有松への入植者公募をした結果、阿久比庄 ( あぐいしょう )(現愛知県知多郡)から竹田庄九郎始め八名が移住してきて、まず宿場が開かれました。地元の人たちが愛情を込めて呼ぶ、この「竹田庄九郎さん」がゆくゆく有松絞りの創始者となる訳です。
有松絞りのきっかけとなったのが、名古屋城の築上工事に竹田庄九郎さんが参加したことでした。そこで、九州から名古屋城の築上工事に参加していた人たちの美しい藍染めの絞りの着物に驚き、幸い、当時珍重され始めた木綿が郷里の知多の特産品ということもあり、それで豆絞りなどの手拭いを作ると、たちまち人気商品となりました。それ以後、絞りの種類や色柄を増やし、浴衣はもちろん、高価な絹の着物まで手がけ、元禄時代には大産地となり、現在へと受け継がれています。また、当時、有松の地質が稲作に向かず、困り果てていたことが今の有松絞りへとつながってもいるのでしょう。
「有松」の名の由来は、松林が広がっていたことからのようだ。
稲作に向かなかった場所で旧東海道の宿が開かれ、そこで豆絞りの手拭いが人気商品になり「有松絞り」が出来て、今も続いているということである。
実際に有松駅に立ったとき、そこから、見えた景色は、ゆるやかなカーブとゆるい坂と緑の山が見えた。
「有松絞り会館」は、踏切を渡って二本目の道を左に曲がっていくとなまこ壁の古い家並みが見えた。簡素な道の風情は、古い歴史を感じさせる空間だった。中に入ると藍染の鹿の子絞りや三浦絞りで、反物や浴衣、帽子、ハンカチ、Tシャツなどが作られて、売っていた。二階でビデオを見ることになった。鳴子絞りが出来上がるまでの工程を映していた。
そのビデオの部屋を出ると「見てってヨ、」と、鹿の子絞りを実演している元気な女の人に声をかけてもらった。
「おいくつですか?」と初対面なので遠慮がちに聞くと「私は九十」と軽快に絞りをくくりながら答えてもらうことが出来た。絞りは、手際よく、次々と鹿の子ができていた。一枚の布も絞りで縮んで小さなモチーフに変わっていた。有松絞りにとても愛情を持っているように感じた。
また、手際のいい、ひとつひとつの絞りのくくりの繰り返しは、江戸時代のわらじでスタスタあるく速さにも思えてしまった。
稲作が出来なかったので「有松絞り」を作って「なりわい」とした技なのだろう。
座ったままで、ひたすら、くくる「有松絞り」のその様子や「楽しくやれば苦も楽になる」と話すその言葉は、一日中、こまごまと文具店を営んで働いてきた私の母の姿に重なった。
そこで食べたランチも、エビフライ、はまちの刺身、あげとひじきの煮込み、ちょっと焦げた玉子焼きと赤みその味噌汁は、母の味とよく似て、感動した。希望であれば添えることのできる茶碗蒸しも懐かしい母のおかずの一品であった。種類の多いおかずは、東海道沿いで集まる豊富な食材のおもてなしなのだろうか?
思い出してみると、ゴォーと水が堀を流れるゆるい坂のそばに出格子(窓に木枠が貼って外から中が見えない)のある窓の家が母の「有松」の実家であった。扉を開けると、中は、土間で部屋が仕切られていた。風呂は土間の右にあった。五右衛門風呂で母の話で数回、私は入ったらしいが覚えがない。出格子で部屋の中はいつも少し暗いように思えた。
母の実家の近くには、「中京競馬場」があった。母の兄は、校長先生をしていたのに、なぜか、競馬ファンであった。日曜日の遊びにいくと必ず、三時に始まる競馬中継をテレビで見ていた。そこで、競馬で儲けた人の話や財産を失くした話も聞いた。母は、競馬の話が、好きではなかった。有松絞りを懸命にやっていた祖母に競馬に行ってしまう祖父が気分良くなかったそうだ。
「有松絞り」は、時間をかけてたくさんの絞りを布にくくり、その布が小さく縮んで染める。そして、乾いて、その糸をほどくとき、なんともいえないきれいな柄が布に広がる。
人の営みも、いろいろな想いで暮らしを工夫し、生きていく時間を「楽しいデヨ、苦にならんワァ、」と言いながら、時を重ねていくと、「有松絞り」のようなきれいな人生が広がるのかもしれない。稲作が出来なかった人たちの「有松絞り」から、学ばせてもらった。
又、それは私の母の人生かもしれない。母は今年で、八十二歳になる。
「有松絞り」の帽子の土産を届けたら、今でもなつかしそうに「有松へ行きたい」と言っていた。
二十三年十月 つついしきこ

