霊視鑑定、電話占いの現場を書いてます。  -4ページ目

  霊視鑑定、電話占いの現場を書いてます。 

電話占い、霊視鑑定の依頼をしなくてもがんばれそうな内容、精神面の強化につながりそうな事を主に書いてます。
不思議な話、幽霊の話、霊視鑑定師としての日々、葛藤など占い師として率直に思う事も書きます。

あー。
またやってしまった。

「もうブログ更新しないのですか?」
とお客に聞かれ、

はは。
ついにやめたと思われるほど放置したのか。
次は何て言われるんだろう。
検索しても出てきません、
って言われる日ももう近い。
(それは嫌かな)

…。すっかり間が空きすぎて、
以前の話に戻れない。

仕方がないからここ最近まとめた話を書いてみる。


ホント、
力って不思議だ。
(ちから、です。カタカナではありません。)

力って、ほんと、水のように道があればそこに流れる。
流れという動機が流れのスピード。

ある時は人に向かい、夫に向かい、妻に向かい、子供に向かい、
部下に向かい、仕事に向かい、近所の人に向かう。

気が付けばその力は自暴自棄に自分に向かう。
人を刺した後で、
落ち込んだってもう遅い。

力を出すなとか力を抜けとか殺せというつもりはないけど、
その力、人に押し付けるか自分を刺し殺すか、
どっちにしても、

それは辛い。

分かりやすい例ないかな。

恋愛依存は自分の保護を放棄してまで止まらない暴走列車。
子供の幸せをぉぉぉぉ!って気ちがいのようにのた打ち回るステータス病。
心配で、心配で、と勝手に他人の事情にはいりこんで己の存在に浸る寄生虫。

これらは自分の中に自分の力を貯めおく習慣がない人たち。
傍から見ると我慢が出来ない、と言えばそうかもしれない、
下手したら犯罪に近いところまで手段を択ばないこともある。
しかし、その人にはその罪は見えない。

この人達に一番足りないのは、自分の存在感。
これを自分で作ることを忘れて他人に触れて己の役割に惚れ存在を知る。
なので、これらのテーマを失うと自分を失う。
試しに失えばいいのに、それが出来ないから、
余計にあがく。
あがいた瞬間、周りに迷惑を吐き散らす事にも気が付かない。
そして満足するときもおそらく無い。
だって、世間は信用ならない。
他人を自分の支えにすれば、不安と怒りと期待がぐるぐる。

人間は多かれ少なかれ人と接して自分を感じる。

親切な自分を感じたければ親切に出るだろうし、
正義の味方である自分を実感したければそう出るだろう。
強烈な個性で周囲の主人公である自分を感じたければ、
ピーターと狼?

また、それとは反対に、

他人が触れてくれて感じる自分もいる。

他人に大事にされて、自分を大事にすることを放棄するただの不良とか、
他人に大事にされて、その瞬間に陶酔して気が付けばただの中毒患者とか、
他人に同意と感想をもらわないと一日も過ごせないめんどくさい人も。

…、まこんな風にイヤーな風に書こうと思えばいくらでも。
人様の間に飛び交う欲望は常に蠢く。

こういう難しい力との戦いは本当に疲れる。
いや、本人は疲れ知らず。

ま、上のタイプは自分欠落タイプ。
いや違うな、正確にいえば、

自分が欲しくてたまらないタイプ。
困ったことにこういう人が一番対人関係で地獄を見る。
当たり前と言えば当たり前。
だって、上の構造は、ほとんど他人をつかわないとほしい自分が成立しない。
誰がタダで一生そんな役回りをしてくれるものか。

なので、勘違いで発生した人間関係も、
壊れるときは大爆発。

人の個性に正しいも間違いもない。
がしかし、上に書いたような落ち着きを知らない心というのは、

ある程度までなら、それは
性格でも何でもない。

タダの生活習慣から始まった中毒だ。
私のやめられない喫煙と同じだ。

みんな、ここから離脱するのに悲鳴をあげながら、
他人を呪い自分を無駄にして、
相当苦しんできたのを見たが、

ただの習慣だ。
本人が二度と苦しみたくないと宣言できれば、
お別れできる。

…、一方、
うーん。
どうかな。

これらの構造と逆のパターンを持つ人達って、
変わらないかもしれない。

上に書いてきた人達は我々占いのお客さんに多いタイプ。
私のところでは話の先に付き合うことなく、
依存構造を破壊して、その人自身に若い新しい芽がでることを
私の勝手な喜びとしている。

鑑定の仕方はそれぞれだが、
多分どういう過程を経ても、
多分、中毒は終わらせれる。

だって、遅かれ早かれだけど、
一生中毒とか一生狂いっぱなし、
なんて、人は出来ない。
不自然だから本人だっていつか気が付く。

しかーし、
その逆、

私が一番見ないタイプの人達、
占いの客では絶対に来ないあるタイプ、

欲しいものは決まっていて、
己を疑う事もなく、
欲するものは当たり前に取る。
なのでそこに迷いがない。
なので占いなんぞと無縁。

こういう人間。
私の客には絶対にならないタイプだから考える必要はないんだが、
相談の奥には結構いるからな。

上のタイプの人たちと性質を比較すると、

多分、不特定多数に愛されたい自分はないし、
他人の中に感じる自分の存在はどうでもいい。
人を信じないタイプと言えばそうかもしれないし、
下手したら金しか信じていないかもしれない。

良く出れば、これほどブレない人もいない。
多分相手に誤解すら与えないから、
問題すらないかもしれない。

でも、これは良く出れば、というだけの話。
悪い例は書かなくても想像に足りるかと。
ただこうであると成長はない。

うーん、深いな。

人に迷惑かけてでも、
人を信じ、人を疑い、
自分を愛し、自分を呪い、
こういう複雑な変化が次を作る。
冒険も挑戦もここから生まれる。

上の人たちのように紆余曲折、
ぶって、ぶたれて、
大恥かいて、
伸びて、超えて、
楽になる。
そういうプロセスは人との変化を知らない人には経験できない。

個性に悪もへったくれもない。
多分、人は生きる限り欲とは離れられない。

ならせめて、
一度しかない人生だとすれば、

自分の心を知り、
自分の変化を喜び、
いつもの周りが
違う景色にすら見えてくる、

そんな満足があってもいいかと思う。











ある鑑定が終わって後、

私は自分の事が知りたくなった。

その理由、
…。

他人の隠された精神エネルギーに惚れてしまったからである。
(そこまで見えないものに惚れる私は、病気を越えて狂気。)

多分、それくらいある人の行動の影に隠れていた
ただひたすらに耐えてひっそりと固まっていた個性、

今まで全く価値を認めてもらえなかった、
取り残されたその人の分身、

その個性のあまりの美しさに
心打たれてしまったのである。

しかし、悲しいことに、この個性、
当の本人は完全無視。

こんなに大事な個性が、
本人の価値観から捉えると、

無価値。
無視どころではない。
軽蔑の対象にすらなっていたかもしれない。
いや、すっかり消し去られて、
無かったことになっていたかも。

…、と私の感想を思いつくままに書いたら、
読む人が理解に苦しむ。

現実的に砕いて書くと、

ある人は、
本人が自分でも自覚している普段の性格があり、
特性があって才能がある。

しかし、

ある人は、
恋愛と仕事のバランスの悪さに苦しんできた。
そして、いつも、同時に二つのテーマを抱えているうちに、
恋愛に奪われるエネルギーの比重が大きくなって、
仕事での人との関わりが難しくなったり、

詰まる所、

本人にとってあまり得ではない選択とか結果を見つめてきた。

最近も、何だかそのバランスがおかしくなっていたが、
ある日、その答えを拾って鑑定に持ち込んだ。
結びつけるには、ちょっと難しいヒントではあったけど。

不思議である。

私の目からすると美しすぎる、
純粋で無垢で健気な個性。

『あんた、ほんまにええ子やな。』
って感動で涙が出そうなくらいの私、
この人の真の姿、
ここにいたのか。

と病的に、
まるで逃げ出したペットに5年ぶりに出会ったぐらいの私に対して、

『あの頃は辛すぎて性格悪かったんですわ。』
と無価値の評価を下す当の本人。

あぁ。
これや。

この人、この頃のこの人が耐え忍んだ美しい個性、
これを再評価して手放さないで共に生きることで、

もう、自分を信じれるようになる。
土地でも、仕事でも恋でも宗教でもない、
自分の安心を手にするんだろうな、

きっと、ここの整理が付くと、
この人の場合、
他人から過剰な信頼を得ようとする動きが止まる。

という構造を見てしまった私、

私は私の放置した個性を知ってみたくなった。
ちょっと、いや、かなり羨ましかった。

…、自分で自分を違う角度から認識するのは、
…、ほぼ出来ないけど。
私は私のケツが見えた日に、

何を得るんだろうか。
(見えるか!ボケ!)



お久しぶりです。

言い訳をせずに、更新します。

人が遭遇する色んな出来事、
色んな心配事、
色んな思い、

ただ、目の前の日々に純粋に一生懸命になれたらそれが一番。

でも、それを遮る色んな話が人の頭には存在する。

忙しい日々に、時折思い出されるレベルから、
日常生活が奪われるレベルまで。

どうあろうと、目の前の集中力を欠く要素である。

終わらせたくない夢の様な妄想の世界、
その夢見る自分が自分を癒すなら、
それは最高の息抜きとか、
気晴らしなのかもしれない。

問題は、その逆、

もう、考えただけで反吐が出そうな憎々しい話や、
この先に発生するかもしれない大事件に対しての尽きることない心配など、

そんな話に捕まったら、
健康を維持するにも到底無理、
という内容は、

果てしない泥沼のような心を作り出し、
泥沼のような心は今を生きる力を抜いていく。

その原因になる話。
話というより、経験とか事件とか、失敗、と例えたほうが分かりやすいのかも。

ま、でも要するに話だ。

この話を終わらせる必要がある。

終わらせるだけなのだから、
無理に切り離しても終わるだろうし、
根拠から作り直して立て直して、
完全なる修復という終わらせ方もあるが、

いずれにせよ、

終わればいいのだ。
なので、『気にするな!』って周りは励ましてくれる。
それが出来たらそれが一番。

心配なら、心配が消える程度に対応すればよく、
心配が心配を呼んできりがないなら、
必要以上に心配材料に触れない、でもいいだろう。

ここ、色々言葉を入れ替えれる。
理想との相違とか、
ありえない悲しい話とか、
受け入れられない家族の死とか。

話をおわらせられないのは、
時間を止められている本人が、
話を終わりにしないから。

願望なら、

諦める。
という終わらせ方もある。

諦める?
到底諦めきれないに決まっているだろう!!

…、内容にもよるけど、

諦めることって、失う事だけではなく、
得るものも大きい。

確実に言えるであろうことは、

諦めることで、
今まで猛烈に暴れていた自分の緊張した思いから解放される。
自由になるのだ。

頭の中の話なんぞに、本気でぶつかっても、
目の前の問題の解決には程遠い。
いや、ただ時間が過ぎる。
浸りたいならいいんだけど。

諦めることで、
今の自分に合う動き方も見えてくる。

そこのあたりの天秤具合なんだろう。
終わらない話に完全に疲れたら、
放棄することの楽さが見え、

終わらない話にあきらめがつかない程度であれば、
まだ、その話は続く。

いずれにせよ、
人って知ってか知らずか、

もう、楽になりたいって思っている。

それが逃げであるかどうかは、
程度の問題。




タイトルがオカルト的で。
…、の割に今回は何も飛び出さない。

人が、人と決別する時、

人は相手の最後に見つめたある性質に興醒めし、
関係を断ってしまう。

最後に知った相手のフレーム。
人物像だな。

フレームの中身。
大抵それは人の短所。

魅せられて、関わって、
普通以上に興味を持ち、
その関わりに情熱を燃やすが、

終わる時が必ず来る。

その時、あなたが捉えた相手の印象は何であったか。

否定的要素。
当たり前だ。
興味が止まるわけだから。
もう、引きに引く自分すら認められない。

否定的要素がボヤーっと曖昧にうごめく間は、
自分に対する信頼も薄らぎ、
緊張と恐怖と興奮のなかに、
ただ無駄に心を泳がせ、
大きく動くが、

あるフレームを捉えることで、
その動揺がぴったり止む。

…。

少ない情報からあちこちをフォーカスし、
膨大なヒントから情報を選別し、

最終的に絞る的の先、

にあるのが、

否定的要素なのは、
本当につらい。

追求が終わった、
自分が掴んだ相手のフレーム、

あ、こんな人だったのか。
げ、こんな人だったのか。

よく、恋愛で、手に入ると興味が失せる人がいる。
それもこれに似ている。

そういう人に限って、
手に入りそうで収まらない時、
狂ったようになってしまう。

あなたが求める人の形、
好きだと信じた理想の人型は、
最後は別人のような顔色になる。

最後の最後で貧乏くじを見て呆然。
また、ハズレか。

じゃぁ、なぜ人は貧乏くじに心躍らせ、
恋い焦がれたり、
熱狂的に遊び狂ったり、
人だかりで夢中に泳いだり、

するんだろうか。

考えてみてほしいかも。

自分を疑い、他人を信じ、
薄らいだ信頼に依存が襲い掛かり、
張りつめた空気から、

解放されたくて、
貧乏くじ情報を寄せ集めて掴んだのは、

自分の救いの道を自分が探していたのだと。

確かに、ケツのケツが、

げ、こんな人。
かもしれないが、

あなたのながーい緊張の日々、
もう、終わったでしょ。
あなたが望む本物の人生って、
この感じをちゃんと覚えておかないと得られないかも。
何事においても。




あ、さて。

自分で決めた続きを書く。
(もう読んでくれる人おらんかったりして。)

結局、最後になってしまったけど、
私はこれを書きたかった。

あるお客、
(誰とは書かないけど、この人をもう一度描写したくて3連続のブログを書いた。)

この人に幸せになってもらいたい!
この人が幸せを見出した時、
何が現れるんだろう。

どのお客さんを見ても、確かにそう思い鑑定するのだが、

私はこの人が目に留まった。

多分、かなり多くの人の救いになるようなヒントが潜んでそうな気がしたから。

日々、まわりによかれと思って生きている。
優しく温かい、そんな人。

にも関わらず、
日々、その優しさを踏みにじられ、
責められ、問い詰められ、
その人の誠意は、
表向き、全く認められていなかった。
表というより、その人本人が、
認められていると感じる瞬間がまるでない扱い。

…、昔のお母さん、と呼ばれる人にはこういう人、多かったかな。
現代なら、そんな不公平さに耐えられる嫁さんなんて、
どれくらいいるんだろう。

…、私なら3秒持たないな。
私なら、私なら、…、フフフ。
許さない。

私はなぜこの人が目に留まったか今気が付いた。

きっと、母さん。いろんな話に登場した色んなお母さん。
どこの母さんの話にもある話だけど、
昔のお母さんの話って、どんなひとも、

逃げられず、虐げられ、馬鹿扱い。
毎日日々家の仕事をしているのに、
馬鹿扱い。

我々、多分、このブログを読む世代の人って、
自分の親が、こういう立場だった、という時代の人が多い。

でも、そういう背景から、
ぐんぐん実力を伸ばした父さんの話はよく聞く。
うちのお客の父さんでこういうタイプって、
あの人とあの人と、…、って数えきれないぐらい
延々と続く。

そういう時代。

今では時代が変わって、
そんな意地悪は、世間も嫁も認めない。
女が負けなくなって、
気が付けば不景気。
関係あるかどうかはともかくとして。

うーん。

このブログのテーマは楽しみ。

私はこういう人達が本当の自分、を取り戻すにも、
どこから一番大事な自分を守ることを知るのか、

それを書くはずであった。
そうそう。

よその国、宗教観がまるで違う国には、
きっと虐げられた女の人って、腐るほどいる。
現代だって山ほどいる。
表社会にまるで出られない声すら拾ってもらえない、
そんな存在。

無能呼ばわりになることで
無力だと思ったその人は、
より一層と逃げ道を失う。

虐げる側からすれば思うつぼ。

意地悪している方も囲って意地悪をしているわけだから、
逃げ出されたら、タダのさみしいおっさん。
逃すわけにはいかない。

そして、責められた人は、自分を責めに責めて、
諦めたり、ため息ついたり、呆然としながら、
正解を探す。たとえそこに正解があったとしても、
正解を目の前に動けない自分がいる。

自信がどこにもないからなのだろう。

--------

ちょっと違う角度から書いてみる。

普通、願望の強い人間に振り回されれて、
運という運を奪われている構造の時って、

普通に、邪魔な人を取り除くと、

面白いように道が開ける。
新しい道が出たり、以前失ったものを取り戻したり。
私が知る限り、運というのは、鳥もち、いや、ゴム?スライム?のように、
引っ張られても踏まれても、踏んだそいつをどかせば、戻ってくる。

こんなもんは何度も見てきているし、
私は以前、お客のそういう形を作りたくて、徹底して、見張っていたこともあった。
結果に魅せられたものも数多い。

大抵、奪う側の人には、
相当なコンプレッスクというものが潜んでいたりする。
気が付いているかどうかは別であるが、
ここに男女の差は無いと思う。

おっさんでもおばはんでも同じ。
そのコンプレックスを直視したくないから、
誰かを飼い殺しにする。
飼殺される人は男でも女でも自分の子でも。
そして飼い殺しされる側も、
相手に何も言えない何かを持つ。

そこに注目するといいのかも。

誰かが正しくて誰かが悪いということもなく、
加害者が、ある時は被害者になったり、
被害者がある相手だけには加害者になったり、
ぐるぐると、延々と、その絆は続く。

何も、人間だけの世界の話ではない。
なわばり、というものはどこにも存在する。
動物の世界だって、同じことがあるように見える。

だから誰にでもあてはまる事だったりする。
誰でも遭遇することだと思う。
話しのつくりはどうしても個々に個性があるので、
個々にはなるけど、

簡単に答えを書くとすれば、

その流れに巻き込まれないようにすること、
そういう連鎖の中にいない事が
今現状維持で出来ることだろうと。

もちろん、今、逃げることが最善であるものは
そうするしかないが。

逃げ出すほどでもない程度であるなら、
逃げ出す、という選択肢がそこにないなら、

巻き込まれない自己の強化に時間を費やせばいいのだと思う。

そもそも、コンプレックスの強い、人を嘘で縛る人とは、
一枚皮をはいだら、ただの弱い人。

ものすごい脅しをかけてきているように見えるけど、
実はその裏で、

ものすごい恐怖に弱い。
恐怖に対する弱さを人に恐怖を与えることで打ち消している。

対抗する、
やり方は色々。

相手の恐怖に入るような接し方を一発するだけで、
一発がそのテの人には強烈な一発になる。
特にそういうコンプレックスがある人は、特徴のある、
一手、に対して、地獄のような恐怖心を持つ。
だから思いきり人を捕まえるわけであるが、

なので、そこを突く、
というのもありで、

そういうのが嫌いな人なら、

その環境の中、思いっきり自分を作り上げる事だと。
作り上げるには、相手の挑発に怯えたり恨んだりしていたら、
難しくなるわけで、ただ時間だけが相手の有利に過ぎるだけで、

そう、巻き込まれない、というのは、
応じないとか、屈しない、という
巻き込まれないフリではなくて、

本当に作り上げるということかと。

楽しみ。
え?この内容のどこのあたりが楽しみ?
最後まで読んだ人が怒り狂いそう。
すみません。ごめんなさい。

相手の感情に動かされなくなって、
その代わりに自分の人生を作ることが出来るようになって、

初めて、自分が物事を動かしている、
自分が選んだ人生なのだ、
自分にもできるのだ、
という感覚を知って、

そこから初めて、

楽しみも、自分が動かして作るものだと、
知る時が来るのだと思う。

縛られた時間が長いと、道のりが長く感じるが、
それはそれで仕方がない。

脅かされながら、逃げ道が無かった時代もあった。
でも、今って、社会的な状況が違う。
力関係が明らかだったからこそ、
それに反発する今の社会がある。
どちらがいいかは別として。

昔と今の状況の違い、
逆にこれがその人たちを余計に苦しめる選択肢になるのかもしれないが、

どちらを選ぶかはその人が決めることである。
苦しい、って人にしがみついても、
人はあなたを助けたりはしない。

私から言えるのは、そんなことだろうか。

楽しむにも、初めて自分が立ち上がった感じになるにも、
ただ、その形にあこがれて語っている場合ではないで。









自分の願望を追いかけて、追いかけたら、
まるで違う自分の姿になった人と、

振り回され振り回され、それでも断れずに、
喜びを見失った人、

今回は、上の人について書いてみる。
下の人だって、根底には、上のような仕組みが潜んでいることだってあるはずだ。
だけど、下の人のタイプは、次回に。

さて。

答えは簡単。

今の何物でもない自分を良しとする。
理想を知って、理想を追いかけ、
時として、
過去の栄光を自分の真の姿と信じて、
追いかける人だっているだろうけど、

いずれにしても、そうなっている人は、
到底、今がほとんど見えていない。
聞こえてもいない。

将来を作ることにおぼれてしまう事も、
将来に呪われているともいう。

現在を作る力がないのだ。

将来に呪われている人は、
詰まらないところで足元をすくわれる。
現実を救う力がないからだ。

何とか依存、
というのは、
こういう人と相性がいい。

今、を楽しむ力がない。
一人、を楽しむことが出来ない。

夢見ることを楽しんでいるに過ぎないわけ。

将来、理想の姿になった自分が幸せになっていると、
何の根拠もなく、今の自分の姿が受け入れられない。

紆余曲折、今までには散々な色々があったけど、
今となっては、カスカスの自分しかいないけど、

今が現実、それでええ。
私が生きているのは、今、ったら、今。

過去の栄光も、昔の若さも、
熱狂的な願望も、
ぜーんぶないけど、

それが自分。
今の生活は、今、目の前にあるものが全て。
だからそれらを大事に生きることが最善。

そう、理想より、今が最善。
ということが分かってこないと、

楽しめない。

やり返すか、見返すか、
の繰り返しは、

正直、不幸の連続。
私は、やり返して、見返して、幸せになった人を、
見たことが無いような気がする。

他人に奪われた自分の印象、
などという外から映る自分を捨てて、

おかしな発想を放棄して、
初めて自分を取り戻した、

その時から、

楽しみは、作れるものかなぁと私は思う。

発想のパターンさえ壊せば
その人の運の動きは変わっていく。

むむむ。
ご無沙汰です。
お元気でしたでしょうか。

何連続かで、
いいテーマを頂戴したので書いてみることにする。
(そして書いている本人は即忘れる。)

自分独自の楽しみ、
について。

え、あたしですか?
心が老いているので、
もう、自然に飢えて飢えて。
何もしないで緑をずっと見ているのが楽しい。

それ以外は?
…、あるとは思うけど。
…。

ということは置いておいて。

楽しみ。
これを感じることが出来ない人がいる。

決断。
これが出来ない人がいる。

以前、首が締まるまで危険行為がやめられない人、
金が消えるまで自分を変えられない人、
命が、というところまで考えが変えられない人、

みたいな話を書いたかと。

今回は逆に、
相反する人について書いてみる気になった。
大事な事のような気がする。

『一体私は何をしたいのでしょう。』
『私はどうして今の状況になったのでしょう。』

こういう状況。表現力はワンパターンだけど、

この発言、

自らが自らを陥れて、
抜けられなくなってから現れる台詞でもあるが、

自らの決定が流れ流され、
ただ他人に、景色に影響されるまま、影響され、
その刺激を眺めているうちに、
自分の感覚が分からなくなった人も発するであろう。

無い答えを追って追って追いかけて、

という人と、

めまぐるしく刺激や攻撃を加えられ、
追う方向性すら定かでない人、

というどちらからも同じセリフが聞こえる。

同じ言葉だけど、
こちらからすれば、

手の付け方が違う。

続きは、後日。



また、ブログを書かんかいと、
ケツを叩いてもらってここに戻れました。
すみません、いつも。
また、叩いてください、って、
何人が叩いてくれた?今回は。

甘えんな!!!

よし、リクエストがあったので、
書いてみる。

でも、これ、私にとっては、どう表現したらいいか、
かなり難しく感じる内容。
なので、挑戦して1週間ほど。
ちやう、数週間。

いろんな相談内容に変身して現れる、
ある心の状態。

決して珍しくない心のパターン。

やめられない自分とか、
変われない自分とか、
そういうテーマに潜んでいる物だ。

この人達の表面上よく分かる特徴は、
『逃げ癖』
だと思っている。
(私も逃げ出してはいけないな。いや、逃げたい。)

根本的な改善から逃げるから、

常に同じ問題と闘い、
鑑定は長時間化し、長期化する。

別に占いごときに限ったことではなくて、
どこかの分野で、長期化する。

目が覚めるまで金を使う。
倒産まで粘る。
親の金がなくなるまで使う。
命の限りに気が付くまで暴れる。
エネルギーの消耗方法はそれぞれ。

危ない!ピンチ!
となるまで止まらない。

もうだめだ!
となるのが遅すぎる?
諦めるのが遅すぎる?

この行動。
特別な人だけに限定された問題ではない、
と私は思う。 

私だって、性格上、結構経験する。
あかん、もう、死ぬ!
って思ってから、目が覚める。
…、気が付いたときには被害増大。
どんだけ気が付くのに時間がかかんの。

逃げる癖、と周りは見るだろうし、
落ち着かない人と見る人もいるだろうし、
弱い人間ととられたって仕方がない。

自分で自分を責める人もいるだろうし、
まるで自覚ゼロで指摘されるまで気が付かない人もいる。
指摘しても発狂して否定する人すらいたりして、
捉え方も様々だ。

頑張れない。
我慢が効かない。

そういう問題ではない、
根性で踏ん張るような問題ではない。
そんなもんは解決したフリに過ぎない。

ある一つの何か、
である機能が
制御できなくなっているだけのように感じる。

そこだけが上手く行かなくて、
人それぞれだけど、
ユニークな問題を持ち込む。

答えがあるとすれば、
今の自分の姿を直視できていないところが
共通点。

そう、答えは、
自分が何から逃げているのか明確に出来ない。
ここに尽きる。

直視しても、自分の穴は気が付かない。
そこを指摘して、対処方法を伝えるんですけどね。

私だって、自分のケツの穴は覗けない。
ふふふ。

ケツを想像して立ち方を変えているに過ぎない。
あたりまえじゃ。

思いの痛さ、
心の悲鳴、
人は、問題を通じて、自分の叫び声を聞こうとしている。

聞こえた時が、
死にそうなときでも、

聞こえさえすれば、終わる。

『あなた、もう、罪は重ねないで!!』
って刑事ドラマみたいだけど、
他人が叫んでも簡単に聞き入れられないのは、

そこに、本人が、本気で求める、
心の形があるからで、

いやん、もうやめて、
って言われてやめれたら止めてるわアホ、
ということである。

私は鑑定において、
その感情がどういう感じのものか、
どういう雰囲気で、どういうものを探しているのかを、
出来るだけ説明する。

その引き金になった構造も一緒に話す。
結局これがないと、分かるきっかけも遠いからだ。

とはいえ、
そういう性質も、個々に違えば、
深さも違い、

『いや、あなた、私を捨てないって言ったでしょ、いやぁあ。』
って、すがりついても踏み倒されるほどのエネルギーのものもあれば、

『もう、今度こそ、あたしと一緒に居てね。』
って、誓っても、
次の日には、元の居場所に戻られる残念なパターンも。

『わたしは、こう思います。』
って淡々と話すだけで解決するうものもある。

ポイントは、聞き手である人が、
自分の心を見ないで、
どこまで現在の問題に騙されて、
はまり込んでいるかによる。

洗脳と言われる他人が持ち込んだ問題もこれに近いけど、
自分から勝手に作り出した挑戦という頂しか見えないはまり込み方もあり、

ま、いずれにせよ、その人の中に、
はまり込む要因があってのことだが、

そう、洗脳した人が悪いから殺したところで、問題はまるで終わらない。
そいつを殺してもいたちごっこ。
私が自分のケツを見ようとぐるぐる回るのと同じである。
(どうなの、この例え。)

どっちにしても、要因じゃなくて、
問題というただの景色(時に恋愛、時に商売、時に争い、)が刺激的で、
そこに勝手に問題を感じて解決とか成功を見出して、

自分が見えないだけの話である。
あは。

作りは簡単、
だけど、ほどくのが難しいのは、
そこには構造、があるからであって、

私は自分のケツの穴である、自分の構造は、
想像しかできない。
とはいえ、日々、人を描写しているので、
想像はしやすいが、
ま、でも想像は想像。

今までのこだわりの塊が、
解けて消えてしまう瞬間。

という面白いほど有効なカギは、
自分の追い求める精神にある。

っちゅうこっちゃ。

いや、思いっきりやってこい。
私は、ある人たちにこう思えた。
一人や二人ではない。

普通、お客がリスキーな行動に出ようとしている時というのは、
鑑定する側は、そのリスクを代わってあげられないので、
反対するし、お客の保護を考えた意見を出す。

しかし、それでは解決できないものもあって。
こちらの言葉が余計にその人の時を止めてしまう事に繋がることもある。

とは言え、

ある種、自分の事を良く理解していて、
ありえない結果だけを欲しいと唸らない、

自分の今、
自分の心、

に正直で素直にいる人、
自分の今に一生懸命な人、
そういう人は、
止められない。

無難な答えが次の疑問を呼ぶからだ。
結局まとまりを失い、選択肢が方々に散らばる。

その人たちは、恋愛の果ての栄光を狙っているのではなく、
自分の心の本音の部分に出会いたくて、

閉じ込めて、開かなくなってしまった、
本当の自分を知るために、

そう、苦労して、分の悪い相手に命を渡しに行くのではなく、
本当の自分、という

心の形を認識するための挑戦、
かな。

こういう人達の話を聞いていると、
がんばれよ!と素直に思える。

多分、一度は大きな衝撃があるし、
傷つくことになると思うけど、

それを通り越して消化した時に現れる、
その人、

そこに到達したかったのに、
おかしな駆け引きで時間を止めた、

良い人になっても全然満足する結果が来ない。

そういう自分とお別れする為、
とでもいうのかな。

回り回って、
本当の意味での幸せを掴むためのステップであろう、

挑戦。

何と言えばいいかな。
人の人生なんて、一度限り。
その一度の人生、

大きな冒険をせよ!
じゃなくて、

本当の自分を知って、
安心したり、満足しながら、

その人生を力強いものにしたい。
こんなことなら、あるべきかと思う。
そんなことを願う。

日本人の寿命はとても長い。
昔なら、必死に自分を追いかけている最中で死んでしまった人だっていると思う。
その自由すらなかった人も。

ヘンに長寿で、
ヘンに自由。

中年も、老化も、老いも超えても、
結構まだまだ生きている。

そういう長いストーリーになるんだったら、
劇的な生き様だけでは精神が持たない。

ながーく、歩いて平凡を楽しむには、
強烈に塞がれた自分を見つけて、
必死に窮屈な思いに襲われないようにしたほうが。

必死に必死に自分の出口を探し、
周りを困らせていることに気が付けなくて、
無駄なところに敵を作って、
あらぬ世界に答えを見出す。

これが体が自由にならない年齢まで続いたら悲劇だ。

恐らく、そういう意味で、
我々長寿の人たちは、

長時間マラソンに耐えられる精神を追って、
いろんな相談業だのがあるのかもね。
なんて思う。

私だってそうだな。

ここのところ、
何だかいい結果を掴んだ人が続いている。

長年の努力が叶った人
たちなのだろうか。

人って一つの事に捉われると相当苦しい。
何で人生がうまく進まないのか出口を探す。

そして、ある分岐点がやってくる。

選ぶべき道だ。

こんなことに気が付いた人もいただろうし、
気が付かないままにそうなっていた人もいるだろうと思う。

最近、変化があった人をまとめて、
思い起こしてみると、

えーい!飛び込んでやれ!
って飛び込んでどうにかした人とか、
自分の中のストレスを見ないように過ごして次を見つけた人やら、
以前の自分の姿にこだわらないことで勝ち得た評価とか、

諦めることでつかんだ人と、
思い込みを捨てる勇気でつかんだ人と、

2種類かな。

右にも左にも進めない、
右、左、どころか、あれもこれもどれも、落ち着かなくてどうしようもない、
そんな時がある。

でもそんな時があるから、
そんな時がものすごい長いからこそ、
次の時も来る。

心配事を減らすことで見えるものもあれば、
いらぬ闘争心をすてることで得られるものもあり、
そのバランスはその人によるが、

きっとみんなが眺めてきたものは、

自分の幸せ、
という心の満足なのであろう。

と、一言に言っても、
その時その時によって人は抱える問題があって、

その問題が、その人を幸せにしないのであろうが、

問題によっては、捨てれる問題もある。
もっと大きな問題は、

捨てれない条件があること、
物理的にせよ、精神的にせよ、

バカ!
って言われたのが悔しかったから、
一番になるまで引き下がれないとか。
おかしなこだわりが生まれるとか、
精神的に不安定になってしまったそこだけを埋める無駄作業に追われるとか、
これだって立派な悩みになり得るし、
幸せを見ることが出来ない時間かもしれないし。

バカ、というところは色んな表現に置き換えていいだろうと。

もっと苦しそうなのは、
そこに一般常識、という自分の思い込みから、
そこに合わせる苦しさもあるだろう。

幸せの定義、
いろんな幸せ本を読んだら山のようにアドバイスがあると思うけど、
そればかりがその人の幸せとも限らない。

なので、他人が人の幸せを作り出すことはできない。
その人が幸せと感じる、という瞬間がくるかどうかでしかない。

だけど、

最近見た人達って、
自分の幸せの形を以前のものと変えた瞬間に何かがやって来た人たちだ。

うらやましいな。