霊視鑑定、電話占いの現場を書いてます。  -3ページ目

  霊視鑑定、電話占いの現場を書いてます。 

電話占い、霊視鑑定の依頼をしなくてもがんばれそうな内容、精神面の強化につながりそうな事を主に書いてます。
不思議な話、幽霊の話、霊視鑑定師としての日々、葛藤など占い師として率直に思う事も書きます。

最近、あることに気が付いた。
鑑定で見たもに教わったのだが。

あるはずのものが無いと人は怯える。
あると信じているけど、実はない、

あるとか、ないとか、
目に見えないもの。

愛情だ。

例えば、お母さんという人はいるにはいたけど、
そこにはずっとあるはずだったけど、
実はなかった、お母さんは大変すぎて、
感情を出してあげる余裕が到底なかった。

その人は、
対人恐怖症。

そういう主旨の相談で本人もかなりの努力をしてきたのだけど、
どうにもならなかった。

…、
それがわかったのは、その人の動きだ。
色んな動きの中に、あるもの、ないものを探しているように見える。

いろんな場面の話をしてくれ、
そこを追ったり、関連しそうなものを勝手に追いかけたり、

お客は相談内容を必死に話しているのだが、
私の方は指定された場面を見ていたりもするが、
他の動きや、過去の出来事、トラウマ、
原因とつながりそうなものを数多く出してみている。

少し異なるが同じ対人恐怖症、

ある人は、自分に対する評価、人物像、
自分が自分に対してもつ人物像がずれ、
そこからどう人と接してもうまくいかない、
繰り返し起こる出来事に怖がっていた。

これも、あるもの、ないもの、の感覚によるものだ。

外からの印象という感覚や、
自分自身の経験上勝手に誤解した印象を持つ自分自身。

感覚がおかしくなると、
場面や空気を掴めなくなって、
調子狂う。

軽いものならジレンマを感じたり、
暴れてみたり、
裏切ってみたり、
そういうのもあるかと。

感覚上の錯覚だ。
でも、霊視鑑定の相談って、
ひょっとすると全てがここにあるのかもしれない。

トラウマから生ずる勘違いも、
結局、ないはずのものがあったり、
あるはずのものがあったり、

感覚の故障だ。

何となく、更に深く鑑定を追求できるかも。
最近なんとなく、そう感じ始めた。




何かを掴んだとき、
人は時間を忘れただ何物かを追う。

その時の過ごし方は、
面白い。

自分の気がかりな何かを追っている時、
やるべきことしか見えないで、ただひたすらに集中している時って、

当たり前だけど、
詰まらない世間は見る余裕ないし、
日常の世界が心に留まらない。
他の意見すら聞こえていない。

随分世間が変化していることも、
あなたが見放したあの人の心も、

何も見えない、感じない。
ただ神経を張り巡らせ探している。

そういう時ってあるよね、
っと言いたいところだが、

実は、こういうの、
常に複合的に発生して、
人がいろんな問題を複雑に作り出していたりして、

その複雑さを見つめることが
最近興味深い。




最近、鑑定が新鮮に思えたりする
今日この頃。

私は最近、限られた時間でガンガン鑑定をこなすことがあるが、
そういう流れの中で、

あー。
と思わされる仕事があったので、参考までに。

ゆーれい力。
霊力とか透視能力とかイタコ力というものと似ていると言えばそうだろうけど。
ちと、違う。

昔、誰かの鑑定の中で、
ゆーれいとの対話、供養の気持ち、その人の夢をかなえる気持ちって、
実のところ見えない運をひらく、言わば、総合的な社会運になっている、

なーんて話はよくしたことがあるし、
そういう事に引きずられて、シンクロなるものが連発したりする。

このゆーれいがもたらす力。
これだけにしがみついても時止まる。
それだけにしがみついても運は止まる。

今を生きる。
そういう力が思いっきり動いたときに思いがけない何かが、
ドバーっと動く、相乗効果。

それとは逆に、

わが想い、我が欲が本物の欲、
それ以外は考えられないし見ようともしない、

そういう時は、ゆーれい力も、くそもない。
ただ欲しいものが遠くにあって、
本人はヒステリー気味にガツガツ。
人の話も聞き入れやしない。

ゆーれいもへったくれ(私)も、
そこに入り込む余地なし。
こういう人は我が願望と供養を引き替えに祈ったりする人もいたりする。

このゆーれい力、

綺麗な言い方をしたら、
ふとした何かを受け入れる力、
とでも言いましょうか、

それの応用として、
今ここに生きる自分をそのまま受けいれて、
今目の前にある現実や、
トシとりすぎて可能性が遠くなった自分を、
現実的に受け入れる力、
とでもいうんでしょうか。
今の自分だからできることをまっすぐ見る力。

現実の出来事から逃げたり、避けたりではなくて、
あー、こういうのも、

あるのね人生。
ぐらい受け入れながら、
受け入れた証として、
そこに正面から対処する力、

これとゆーれいとの相性、
ここが同時に動くと、

こちらもびっくりの結果を聞かされることになる。
こんなの、もう日常茶飯事。

でも、その割合というかバランスを見つめる鑑定をしたのは、
初めてかな。


ゴリラの続きだ。

ゴリラ、
社会での定期応力低く、
家庭での適応力も多分低い。
人間とは異なる動物。

ただ。
…。
思うのだ。

もし、ゴリラが表に飛び出して、
その姿で生き方を見つけたら、

人は驚いて振り返るよ。

自分のペースを信じて、
自分にしかできない事を、
人間に分かる形で提供するか、
ゴリラのままの姿が、
人に共感してもらえる形になるか。

言い方を変えると、

人が自分のスケール、個性を感じて、
集団社会のスケジュールから抜け出して家出するなら、

その人は、
きっと、

自分の形を知ろうとしているのだと。
なので、理想は、

表を知って???
でも、

家で????
でも、

学校で???
だとしても、

自分が自分の正確な形を知ろうとして、
(自分が出来ること、感じることをくみ取って)

そこから合う選択をするべきかな。
ってね。

これはどこの誰でもそうするべきかと。

金が欲しいから高額給与の職業を目指す、
って思っても、魂が合わなければ結構無理。
金金金、それだけ、金、っておもっても、ちょっと無理。
人間、必要以上の金を持つと頭がおかしくなる。
その時、それでも、騙されないなら、
きっとその人の心がその仕事にあっているから、だろう。

話は元に戻る。

ゴリラ、
「自分が止められなくなった状態」
で、家を飛び出してしまったとき、
(ここ、就職で難を感じた時、学校で違和感を持った時、町が面白くなくなったとき、社会全体が面白くなくなったとき、等なんでも置き換え可)

そこがチャンスだと思う。

なぜだ、
どうしてだ、
私はこれが欲しい、
でも、本当にそこでやっていけると思えない。

なら、そうだと気が付くべきだ。

再考だ。
己のゴリラが首を縦に振らないんだから、
それは聞いた方がいい。

聞いた方が難しそうで生きやすい。

逆に脅しではないけれど、

ゴリラが家出して、
他人の顔色見て、エサもらってしまったら。

もう、ゴリラではなくて、
表の飼い猫。
ただの不良になってしまう。

でも大丈夫、

ゴリラはそんなことで満足しない。
恋愛に言いかえたら、
ある条件だけ理想だから ま、OKにしたけれど、
時間が過ぎたら難しくなった。

とでもいうのでしょうか。

気持ちだけでも食えないし、
条件だけでも継続できない、

抑圧から噴き出た真なる個性、

その個性は活躍時間が短いから、
色んな意味で、持久力には欠けるけど、

うまい、線と線がつながるといい。

では、私はゴリラの私を見つめみる。

おい、ゴリラよ、
やりたい気持ちだけでは話にならん。
嫌いだという気持ちだけでも話にならん。

強烈な好奇心だけが先に走って、
手元になにも持ち合わせなければ、

それはタダの興奮。

手元に持ち合わせるべきものは、
ゴリラが己の縄張りを愛する気持ちだ。
…、というのが、私が私のゴリラに対する今の答えだ。







私は、自分の人格をぼんやり思い出してみた。

うぉぉぉぉぉ。
がぉぉぉぉぉ。

勝手に収まらなくなった、
檻の中のゴリラ。
表のルールも知らずに檻を破って逃走し、

収まり方もわからず、
世間のルールも知らず、

檻から飛び出した衝撃と、
檻に帰りたいのか、
何をしたいのかすらわからない混乱と、
解き放たれたい蓄積された思いが原動力になって、
自分が檻を壊したのに、
加害者なのか被害者なのかも理解せず、

ただ、
叫んで、
町を踏み荒らす。

狂っているけど心弱い獣。
(本当にゴリラじゃないか。)

って、自分の事をここまでひどく書く必要はないと思うけど、
いい例えが他になかったので、ゴリラということにしておいて、
(ゴリラに失礼。)

とにかく、ゴリラが自分の内にいることに気が付いていたかどうかは知らないが、
そういう自分にスイッチが入る時が何度かあったと思っている。

分かりやすい時期は、

当然、
若いころだ。

世間を全く知らないが、
町を歩く体力があり、
人を欺くにわか知識を知り、
表の世界に刺激を求め、
そこにはいつもの詰まらない日常とは違う、
何らかがあるのだと期待して、…。

期待して、
…。

期待して、
…。

いつの間にやら、
ゴリラは、日常と折り合いをつけて、
檻に帰っていく。

ふはははは。
書いてみると、笑えるが。

これを普通の言葉に書き直したら、

家庭の子供として育った私、
私自身は、無力であることも、バカであることも、
知っていはいるけど、

我慢できない。

バカで無力で家と学校の奴隷、
奴隷の中でも聞き分けが悪く、働きも悪い。
なので、自分にどうも満足と納得ができない。

そこから、

目線を動かし他所の世界を覗いたとき、

そこには我が家のルールは消えていて、
自分の否定感もわからなくなる、

外国が広がっている。

外国では、周りの人が私が馬鹿であることは誰も知らない。
罪から解放されたような気分。

そこで、
のびのび、
・・・

って、
そこのルールも知らない。

なので、タダのゴリラになる。
(ここ、山から下りたイノシシでも、サルでも構わない。)

なーんとなく、
こういう自分を思い出してみた。

挑戦と安定、
緊張と弛緩、
ゴリラと私。

ふははははは!
はははっははは!

多分、これ、私は私のこういうところに今更興味が出たので自己で追求するけど、
これって、

私じゃなくて、あの人のおうちの今に似ているじゃないか!
(相談者)

あは、
あの子もゴリラで、
私もゴリラ♪

いやいや、譲る気はない。

あたしがゴリラ♪

今、どうしてもこの視点から物事を見たい。
(ゴリラになって鑑定したい、という意味ではない。金もらえなくなる。)

抑圧から飛び出したゴリラ、
しょんぼりとお家に帰るゴリラ、
再び家出を夢見るゴリラ、

ゴリラ、ゴリラ、ゴリラ♪




今日は、いつものドロドロテーマから離れて、

最近気に留まる人達の特性を書いてみる。

動けない、変われないといっている。
一人や二人ではない。

その人たち全員の特徴は、
人を見る癖があるということ。

人を見るうちに

ある人は、
他人の方が優れていると思い込み、
自分を信じて動かすことができなくなったり、

ある人は、
人に本心を伝えることが怖くなって、
動けなくなっていたり、

ある人は、
社会に取り残されたことを意識しすぎて
動けなくなっていたり、

またある人は、
人様の話を聞きすぎて、
他人の話の中にしか自分がいなくなってお地蔵さん。

全員、自分ではなく、
他人を観察している。

他人の動きに心奪われ、
自分の心が動かなくなった。
そして、体が動かなくなった。

対処方法は伝えてあるので大丈夫だと思うけど、

自分が自分を救えなくなったら時は止まる。

救うべき自分というのは、

他人を見過ぎて下がりに下がった自己評価と、
止まりすぎて動かせなくなった自分自身だ。

生きるのか、生きながらえるのか。
恥を受け入れるのか、
恥から逃げ出すのか、

その人たちの心はそこの手前で立ち止まる。
その人たちが動かない本当の理由は、

動くことで生じる負の部分、
失うものがあると思っているからである。

精神、
プライド、
人間関係、
他人からの評価、
今まで他人に見せてきたいい人の個性、

これらに亀裂が生じることを恐れている。
等々だ。

そう、リスクは確かにある。
でも、そういう構造だ、ってしっかり思い知ってたら、

思いっきりそれだけを見て本気でそこに苦しみ切れば、

話はとっくにおわってる。
この壁を見て見ぬふりを続けていたら、
いつまでたってもお地蔵さんだ。

占い師となってお金を頂戴するようになって、
気が付けば何年。

何年?
(ごめんなさい。経験値は上がりと要領はよくなっても、貯金はゼロ…。あれ…。もらったお金どこいったんや。→胃袋。)

今回は私自身の占い師として感じることだけを書いてみようかと。

私はウン年前、
定かな目標も動機も欲望もなく、
無責任にもただのその時の流れと自分の都合ごときで
占い師になってしまった。

当時の私は

人の声を聞くとその人の何らかが立体的に読め、
事実と照らし合わせて確認ができるという経験があった、

霊視鑑定師を開始した動機はただそれだけ。

…、ふ、ふざけてんのか、コノヤロー!!!
って今の私は当時の自分に会えるなら、
殴り飛ばしたろかあほんだら、って
思うと思う。 

私は占い師さんは好きだったし、
鑑定を依頼することも好きだったし、
気付かされることで変われた貴重な自分も経験与えてくれる鑑定を受けたことがあった、
大好きな鑑定師さんがいた。

しかし。
物凄い勝手な話で呆れるが、

自分が占い師になる、占いを仕事にするという事に対して、
ものすごい嫌悪と抵抗を感じていた。
むしろ、自分が占いでお金をもらう事に強烈な、

軽蔑。
そういうものを感じていた。

当然だ。
自分が、人を動かすような鑑定スキルなんか持ち合わせていなかったし、
徹底的に鑑定を学んだわけでもなかったし、
成りたくて努力をしたわけでは全くない。

ただ、そうは言っても、
人の相談に真剣にはまり込んだり、
その人以上にその問題を捉えて考えたり、
そういうことは人として、自分の超得意分野ではあった。

中途半端な自分も納得できなかった上に、
腕がプロほどあるはずない、と思っていた。

ブログをいつも読んでくださる方に、
上手く説明できているかどうかわからないけど、

とにかく、
自分が占い師になる、
なんて絶対にありえないぐらいの嫌悪感を持って
キチガイみたいに真剣に鑑定を開始した。

己の職業に嫌悪を持ちながらも、
人の相談にその人以上にはまり込んで動かそうとする、
そういう熱意だけは誰よりもあったと思う。

占いというものを越えた
人に対する熱意、
それだけがこの仕事と私を繋ぎ続けてくれたんだろうな、
って今の私は思う。

多分、プロ(?)になってから、
2年か3年ぐらいはそういう思いでいたと思う。
相談には猛獣のように集中し、
仕事が無い時、自分を振り返っては、
占い師の自分の姿に嫌悪する。

不思議な時間だった。
鑑定はどこまでも貪欲に追求し、
立ち止まっては何日も思い悩み、
伸びることや、知名度の欲なんてまるでなく、
時間=料金 なんて度外視して、
ただ目の前の鑑定を昨日よりいいものにする。

今の鑑定を今まで一番の鑑定にする。

それだけはキチガイのようにずっと。
それだけを追いかけ、ずっと見つめてきた。

しかも、そこに関しては多分、
他の鑑定師さんだって一生懸命だと思うし、
知識的な積み上げなんて私は全然他の方にはかなわない。

今の鑑定を自分の一番にする、

という欲望だけは、
多分、誰にも負けないと、思う。

そういう姿勢でいるうちに、

あっという間に5年は過ぎていた。

その後、
徹底さは度を越えて、
鑑定の精度の納得を考えて、
ずっと続けていたサイトの仕事を断ったり、
自分の実力を知りたいだけで、他所のテストを受けてみたり、

納得できる鑑定をしたいあまりに、
実は、ある期間、毎日、

半日占い師業を捨てて、
全く違う会社勤めを並行して行った。

アタマの切り替えを早くしたくなった
鑑定に必要な体力が欲しくて、
金のための鑑定をしたくなかったから、欲しい金はよそでもらい、
徹底して納得できる鑑定をしてみたかった、
鑑定からはなれることで過去の鑑定スタイルに縛られず、
何らかを表で得てみたかった。

(今考えると、ほんまにようやるわ、って思うが。
 また、鑑定の精度に必要と感じたら、多分またいつでも表で働くかもって思える。)


今は、元のペースで普通に鑑定する生活に戻ったが、

長い間声をかけていただきながらも断り続けた
他所での鑑定を一部引き受けさせてもらうことにした。
他所というのは、他所の事情がどこでもあるので、
私が納得できるような仕事をさせてもらえるか、なんて事に期待できないから
断り続けたんだけど、

実際の条件を聞いたら、
その心配は無用だった。
なので、無理のない範囲で継続できればって思っている。

今の私は、他所のお仕事で、鑑定の構成とスピードとバランスを考え実行させてもらうことで、鍛えさせていただきながら、
個人、朋月の仕事で超常連さんや常連さんや、新しい方と関わりながら、
更なる追求が出来るかを最大限試させていただいている。
(なので、自分の追求が絡んでいるときは勝手に鑑定時間をマイナスにする。)


今の私。
鑑定が大好きだ。
私は占い師になって
本気で立ち向かう何かを持てて、

本当に占い師になってよかった。

はぁ~???

うん。
私は占い師になることで、強烈な本気を出す事を許され、
徹底的な本気の継続のうちに

自分が占い師であることを大事に思うようになっていた。
してくれたのか、そうなったのか、なんなのか、よくわからないが、

私は自分が占い師であることが好きになっていた。
つい最近、気が付いた。



あは、
これでおしまい。
今回のテーマ。

私の文章は恐ろしく長い。
端的に!分かり易く!
が世の常識なのに。

そうそう、
恋愛で苦しむ人って、
故意に孤独で悪意に潜んでいるわけではなくて、

ベースとして、

『あの、引きずられる思い』

がずっと頭の中で暴走している。
本人の力ではどうにも止められない欲望、
という感情が制御不能に自動的に駆け巡る。

軽いものは人生相談のお世話になり、
酷いものはあの人の行動までも探り出す。
家の電気を調べ、車の位置を調べ、
靴の置き場所、傘の立て位置がいつもと違うだけで騒ぎだす。
盗聴までは、知らんけど。

(すみません、すみません!他人事みたいに書いて。欲望が老婆状態の私。)

その構造のなぞ、
についてお客に依頼されてここに書いている。

答えは簡単でござーる。

そういう人って、
自分の世界にそれを置けていない。
それ=問題解決
(当たり前やろ!しばくぞ、老婆! ち、ちがうの。お願い。続きを読んで。)

さっきのブログで分かったと思うけど、

自分の夢を日ごろから形にする習慣。
これを身につけるしかないの。

そ、そんなことしたら日本は崩壊やろ。
世の中全員犯罪者になるやろうが、って、
それも違う。

結局、人生は長い。
あなたが思うようにはならない。
(あたしの思うようにもならないが。)

いい人で潔癖で若いころは自分をいい人として半殺しにできたとしても、
人って、いつか何らかの形で、

人間として試される時が来る。

自分を半殺しにしてきた人は、
情熱的でインパクトの強烈な個性に魅せられ、
赤の他人の強烈な個性のアシスタントになりたいと、
我の人生を放棄する。

なんでや。
あほかあんた。

自分が自分の使命である自分の個性を生かすことが、
生活習慣で恐ろしくなって、
社会の集団が怖くなって、

無かったことにしたあんたが悪い。
親が悪くても、先生が悪くても、兄弟が悪くても、友達が悪くても、
そのツケは不公平にも自分だけが払う。

そういうもんや。


むかーし、
『じゃぁ、勝手にしなさい。』
って叱られた人は多いだろう。
『じゃ、そうします。さようなら。』
とできない自分がこの問題を越えられない。


個性を生かすというのは、活かすとは違う。
猛烈な個性を大多数の前に曝け出す、
というのは勘違いで、

生かすからには、守ることも同時に起こる。

恋愛妄想の自動的再生は、
自分の生活を自分の心で生かすことから消し去られ、
次は日ごろの何かが心配になって、
その心配を消すように毎日動いて、

…、の繰り返しで、形を変える。

世間でも、どこでもそうやろうけど、
これからは、自分の世界で自分を消してはあきまへん。
言いたいことも言えずに、
言ったことも帳消しにして、
誤魔化されてはあきまへん。

自分がつまらん。
自分だけじゃつまらん。
でも実は、夢を現実にする人は、
ここをあきらめない人。

自分一人ではどうにもならないわが人生、
って、他人をアテにしても逃げられる。

自分を失いながら生きる人生は、
妄想と回想に追い回されて、
自分を生かしきれなくて、
眠ることもできず、笑うこともできない。

でもやな、そういう人に限って、
本当の秘められた自分の人格が、
びっくりするほど美しかったりする。

それを信じてその自分とつながり続けることが、
共に生きる欲望の源だったと知ることが、
あなたの本来の望みなんだが。
あぁ、恋愛が、テーマでしたっけ。
(恋愛がテーマじゃない人は違うことに置き換えてください。)

って、続きを書かんかい!!!!

書きます。書きます。

重い、じゃなかった。
『思い』でした。

恋愛で相当苦しむ人たちの気持ちの特徴として、
どうしようもない、思いに日々襲われて、
妄想の中、欲望に我を忘れて、
現実を見て、もがき苦しむその思い。

1ミリのヒントでも、そこにありそうなら飛びつき、
砂漠のオアシスをどこまでも探す。

孤独な恋愛は相当な孤独を生む。
誰からも理解されない孤独な感情は、
その人を根こそぎ孤独に追いやる。

酷いケースは本当に孤独になり、
貧乏になり、働く力を失い、
生きるのがやっと、なんてレベルまで。

そんなあなたを作り出したのは、
感情の問題。
これさえなければ、こうもならない。

そう、私が書きたかったのはここ。

あなたは孤独を欲して恋愛を欲したわけではない。
むしろ逆であろう。

人との温かい関わりを欲しながらも、
一点の強烈な衝動に襲われたのだろう。

取り返したい思いとか、
手にしたい想いとか。

ふんふん。

そう、あなたが本来望んでいたのは幸せである。

幸せの形は人それぞれだとしても、
一般的な幸せの形とは、

きっと、

自分の中に迷いがなく、
今という世界で自分が生きることだろうと思う。

寿命に制限がある、生きるという世界にいるのだから、
体は常に食べ物を欲し、飲み水を欲する。
この気持ちが働く以上、それは生きるため。

あの人がいないと自分の人生が始まらないなら、
あなたの人生は何も始まっていないことになるが、

いや、そんなことはない。
あなたの人生は、とっくに始まっている。
下手したら折り返し地点を超えているかも。

あの人と共に、
という思いが自分を破壊しただけで、
自分の人生を忘れさせただけ。

いや、その下積みとして、
山のように自分を控えめにした繰り返しがあるはずだが。

『恋愛なんぞ、ただの勘違い。』
なんてことはどこの誰でも年寄りなら言っている。

でも、真面目で純粋なあなたは、
自分が犠牲になることなんか人生で慣れっこ。
なので、恋愛なんぞというものに試練を感じて、
真面目に取り組んだ。

のであろう。

真面目で純粋なあなたがなぜこの地獄を正面から味わうことになったかというと、
そこに恋愛の試練が知らせたかった『この先の生き方』に対する答えがあると私は思う。

本当の意味で自分を大事にすること。
きっと恋愛地獄はそれをあなたに教えたかった。

本当の自己を伏せながら生きる人生、
それをもうやめてほしい。

まじめなあなたが伏せて殺した本来の人としての欲望、
これと共に分かり合って生きてほしい。

やりたいようにやる、
生きたいように生きる。
窒息寸前まで社会の奴隷になったり、
学校の奴隷になったり、
仲間の奴隷になったり、
家族の奴隷になったり、

それの積み重ねの果てが
自己との地獄の葛藤。

人が自分を幸せにしてくれることは、
一人の人として生まれてきたのであれば、
その時から、それは絶対にない。

自分一人でしか自分を幸せにすることはできない。
きっと真面目で純粋なあなたなら、

こういうテーマにも気がつけばまじめに取り組める。

自分の世界とあの人の世界。
あの人の世界はあの人の世界。
自分の世界は自分だけの世界。
自分の人生は自分だけの人生。

自分だけの人生は、みすぼらしくて気が滅入る。
自分なんて言う気色の悪い存在は到底見れない。
というところから脱出すれば、
もう、遅いから恋愛に逃げます、なんて事にもならない。
間に合うどころか、いつでも間に合う。

今一度、ここに戻ってきてほしい。
自分の自信、自分の満足、自分の充実。
ここを見つめて、今一度、自分のために泣いてみてほしい。

恋愛地獄にいる人は、
本当の意味で自分のために泣くことを忘れている。

きっとその時から、
あの人に一方的に向けてきた力は、
自分に戻る。

泣くことは痛いのかもしれない。
泣いたところで誰も見てくれないからだ。

でもやな。

かわいそうな自分のために本当に泣いてくれるのは自分しかいないし、
他人が泣いてくれてもピンとはこんやろう。

大丈夫。
その繰り返しが、意外な自分を作り出し、
ありえなかった運を呼び戻す。

ふふ。
まだ、続きはあるんやで。
(って、忘れたらえらいこっちゃ。)
ふむ。
おはようございます。

久しぶりにここで考えながらものを書きたくなったのは、
ある人の相談を覗いたから。

今回は、がっつり、
『恋愛』
の不思議について書いてみる。

...いつもなら、蹴散らしそうなテーマだが。
お客の真の要望に押されている自分がいるから書くのだろう。

占い師が見あきるほど見聞きする『恋愛に苦しむ心』、
依存とか中毒とか、洗脳とか、現実逃避、等々
今まで散々書き散らした表現を脇に置いて、

抜け出せない地獄の生き方と、
離れられない強烈な想いについて。

あぁ、私はあの人のファンである。
テレビの向こうの人を見て、その人の美しさに陶酔する。

というレベルを超えて、

あぁ、私はあの人と共に生きたい。
私があの人と一緒にいれば、
あの人の苦痛を取り去り、
あの人の笑顔を取り戻し、
あの人が望むものを一緒に探して、
...あの人にとって私はかけがえのない人になる。

うーん。

テレビの向こうの人ちゃうわい!
私のあの人は私と現実にかかわったあの人じゃい!
って怒鳴られそうだが、

よく考えると、
そこに何の違いもない。

いや、現実にあの人はたった一人の私に向って、
こんな話や、あんな話を言っていた!

…としても、
構造としてはまったく同じ、

『現実のあの人とまったく同じ時を生きていないのに、共に生きたいと思う』
という構造。

現実の接点が過去にあったかどうかぐらいの違いで、
現在において何の接点もない。
いや、ちょっとの接点があるほうが余計に狂う、
恋愛の苦しみ。

恐ろしいことに、
恋愛が欲する最終地点は、

独占である。

共に生きるという言葉は
聞こえはいいが、

恋愛が望む、
共に生きるという意味は、

所有化である。

逆の立場から書いてみると、

あの人の今の生活の大部分を破壊して、
我の人生に居座らせる事。

それが真のあの人の幸せであると錯覚する人もいれば、
いや、一部でいいと、譲歩したふりの人もいたりもするが、

あの人、からしたらとんでもない衝撃で、
とんでもない打撃である。

例え、最初の始まりが、あの人の積極的なアプローチによるもので、
自分はただの被害者だとしても、

その思いは、
今のあの人を壊すことになりかねない。

…、というのが恋愛で苦しむ立場上の構造かな。

興味深い。

苦しむその人の元々の元をたどれば、
その人にそんな悪意はどこにもない。
ただの美しい心を持つ人でしかない。

うーん。
じゃぁ、そういう魅力を振りまいて、
時として、人を騙して逃げた、
あの人が悪い?

悪い、場合もあるけれど、
そうはいっても、そうだとしても、

相手の悪を突いたところで、
我の煮え切らない思いが残るばかり。

相手の悪を見ないで、いい人のふりをしても、
自分の中の憎悪は時々疼く。

なんじゃいこれ。

たまーに、中には、
どうしても手にしたかった人を手にすることができた人もいる。
しかーし、そういう人は自分の中に、いやな自分がいることをを知っている。
なので、その自分との戦いがいろんな形で待っている。

…、
無理がある。
無理をして得た物にはそれ相応のツケがある。

そういうことか。

得たいものを得たい。
現実を超えて現実を変えるには、
どこかに必ず犠牲が生じる。

私個人としては、
悩ましくも欲する本人以外がその犠牲者になるような話は到底付き合えない。
親が泣く、子供が泣く、配偶者が泣く。
こういう相談には私個人の人間としてという部分が耐えられない。

とはいえ、
悩みの淵の当の本人、
その人だって、本来だれかを傷つけたくて生きているわけではない。
しかし、己の思いは、誰かが苦しむ。

この矛盾。
その前にある、

その思い。

この思いについて書いてみる。
(あれ?ただの前置き?)