2016年12月5日(月)晴
「中山道トコトコ歩き」いよいよめでたくも最終日を迎えることになりました。
北浦和駅ー東京駅ー京都駅ー大津駅
トコトコ歩き最終日は晴天です。「小春日和」この言葉がぴったりの天気の中、三条大橋を目指します。
9:15=大津駅を出発
JR大津駅の前です。
大津駅は県庁のある駅としてはシンプルです。
実は私どもの浦和駅も県庁のある駅なのですが大津駅と同様にとてもシンプルです。
ついこの間(20年くらい前)まで中距離の電車のホームがなく、急行などは止まりません。地元の人のみが利用する駅でした。
駅から中山道の向かってなだらかな坂を下って中山道に出ました。
昭和初期の建物が中山道のシンボルです。上の写真のような建物が続く道は、中山道です。
「大津事件」の現場です。警備の巡査がロシア皇太子に切りつけました。
1891年「日露戦争」開戦13年前のことです。
被害にあったニコライ2世は日本びいきで、事件の大きさにしては影響は少なかったようです。
国道161号線に「京阪電気鉄道・京津線」の水色の電車が走っています。
東京では「都電荒川線」が自動車と一緒に走っていますが1両の電車で「大きなバス」という感じですがここでは本格的な5両編成(?)の列車です。
広重 大津
旧東海道と「京津線」が合流する所から、琵琶湖を見た風景を描いています。
このブログの「広重」「英泉」の図(浮世絵)は「木曽街道六拾九次」(70景71点)から取りました。
71点目の図が「大津」です。したがってこの図を持って、トコトコ歩きのブログの広重、英泉の浮世絵も最終回となります。
これやこの 往くもかへるも 別れては
知るも 知らぬも 逢坂の関
盲目の歌人「蝉丸」が作った「百人一首」の歌です。
教養が浅い私ですが「これやこの・・・」は知っていました。
蝉丸神社:蝉丸神社は「上社」、「下社」、「分社」の三社があります。
写真は下社です。
逢坂の関跡
この立て看板に「うなぎ」が書かれています。逢坂の関を超えると、街道一帯はうなぎのこうばしい香りでいっぱいです。うなぎの老舗があり、「日本一のうなぎ」と堂々と宣伝しています。
追分
「ひげ茶屋追分」
追分とは牛馬を追い、分ける場所を言うと書いてありました。
たくさんの「追分」をトコトコ歩いたのですが、旅の終わりで初めて知りました。
閑柄寺の境内に門前の東海道を模した「車石」が敷き詰めたものがあろました。
この辺りの東海道は急坂とまでは言えないけれど、いわゆる坂道です。京都から大津へ向かう牛車、馬車は荷物を積んだ荷車を引いて大変だったと思います。
国道一号線をまたぐ歩道橋で越えいよいよ京都に入ります。
「えっ!ここが京都の入り口?」。
滋賀県(近江路)の終わりで、京都(みやこ路)の入り口なのですが、なんの標識がありません。どこの町にもある「京都」という標識がありました。
私的に、「近江路」の終わりを滋賀県の終わりとイメージしていました。京都に入り、
東海道は「みやこ路」になると勝手に命名しました。
それぞれの「境」の地、はそれぞれ感激しながら越えて来ました。だからおそらく
「滋賀県」・「京都府」それなりの感激があるのかな?と思っていました。私たちの高ぶった気持ちに沿うようなものは何も見当たりません。
仕方がない、私たちの気持ちの中で「いよいよ京都に入った。」という大きな感激を持って、最後の「境」を越えました。
京都六地蔵の一つ徳林庵の山科地蔵
ベンチの腰をかけ休息をしている時徳林庵のお寺の人が、「どちらからおいでになったのですか?」と声をかけていただきました。
「東京の日本橋からトコトコ歩いて来ました。今、ここにたどり着きました。」
「ほー。それは大変なことです。」
「よろしかったら、このお地蔵さんにお会いなさりますか?」
「それはありがたい、是非ともお会いしたいと持っています。」
そして、庫裡の方に行きジャラジャラと鍵を持って来ました。その鍵で、お堂を開けてくれます。お堂の扉を開けるのには4箇所に鍵がかかっていて、それぞれに鍵をさして開けてくれます。
「どうぞお入りください。」と招いてくれます。
お地蔵様は極彩色の衣をまとった立派なお姿のものです。特に黄金色の部分は本金で輝いています。
私的で勝手なお地蔵様感ですが、「野仏」をイメージしていて、あまり装飾の少ないシンプルなものであったため、このお地蔵様に出会った時、あまりの立派さに驚いてしまいました。
昔、京都に住む友達から夏の「地蔵盆」の話を聞いたことがあります。
大人のお盆が終わった8月23日を中心に子どもが中心のお盆の行事が京都の各地で行われる行事で、屋台などが出て、夏休みの終わりの楽しい行事の様子を話をしてくれました。
「地蔵盆」は、京都入り口の各地にある、6っつの地蔵堂を中心に行われています。と、徳林庵のお寺の人が話してくれました。
五条分かれ道道標(右は三条通、左は五条橋)
私たちは「右の三条通」に進みます。
車石広場
小春日和の柔らかな日差しの中、ここで小休止をしました。ここからなだらかな坂になっています。この坂(九条山峠)を越えるといよいよ京都の市街地に入ります。
ここで、娘に電話をしました。
娘たちは夫婦でわざわざ新幹線に乗って、「三条大橋」に出迎えてくれることになっています。
「いい。私たちは15:00に三条大橋三条大橋に着くからね!
私たちの方が早く着いてしまったら・・・。お話にならないから、あなたたちは15:00前に橋に着くようにしてね!」と注文をつけています。
車石広場のの隣に粟田口刑場跡があります。この刑場で約15000名の人が処刑されました。当時京都は日本でいちばんの人口と言われていても20万人だと言われています。その中で15000人という数は大変な数です。
「蹴上」という地名は、処刑される人の多くが歩くのを嫌がり前に進みません。そこで、罪人を蹴り上げながら進んだためについた名前です。
時間調整(15:00着)を兼ねて「南禅寺」に立ち寄りました。
紅葉の季節は過ぎていましたが、綺麗な紅葉でした。
いよいよ三条通りまっすぐ進むと三条大橋です。
平安神宮の鳥居も大きく見えます。
いよいよ、ゴールです。
三条大橋の上で娘たちが手を振っています。
娘と豪ちゃん(娘の連れ合い)がテープを持っています。
2016年12月5日(月)15:00。
私たちは手を繋いで、二人が持っているテープを切りました。感動で目が熱くなってきます。
橋の上で、娘たちが作った「表彰状」をいただきました。
晴れ渡った午後、三条大橋にはたくさんの人の往来があります。それらの人たちが私たちに拍手をしながら通り過ぎます。
ささやかだけれど、私たちは、今、大きなことを成し遂げたという実感を深く味合うことができました。とても、とても幸せでした。
このブログこれをもちまして「おひらき」といたしたいと思います。
お付き合いいただき本当に、本当にありがとうございます。