前回に引き続き歌の話です
私は今まで何人かの先生に歌を教えていただきました。
単発講座や2〜3回完結の講習会を除くと、期間はまちまちですが師事したと言える先生は六人です
子二人を出産後、それまでも自分の発声技術に行き詰まりを感じていたので、先生探しから始めて、30代後半にトレーナーの先生に辿り着きました。
その先生のお弟子さん方は、それはもう錚々たる顔ぶれで、育児に日々追われ疲れ果てていたフツーのオバサンのアタクシはかなり腰が退けておりましたが、それでもご縁あって足掛け6年通いました。
未だに細々歌っていられるのは、この時の経験があってこそ、先生に教えていただいたメソッドは未だに私の拠り所であると同時に戒めにもなっています。
通い初めの頃に言われた一番衝撃的かつ納得した言葉は
「声を聴かせるな」
です
これはあくまでクラシックにおいてのことで、ポピュラーはむしろ、声を生かし育てて聞かせる発声と思います。
「意味わかんねーー」て思われますよね
クラシックも歌ですから当然声は使います。
(なんか日本語がヘン)
大きな空間でマイクなしに通る声で曲を歌い切るために、声自体のみならず空間に響かせる技術が必要です。
大声で一曲歌って声が嗄れて歌えなくなるようでは使い物になりませんので
つまり、声というよりはむしろ
響きを学ぶ
のです。
もちろん他にも学ぶことはたくさんありますが、他との一番の違いはココなのではないでしょうか。
これはクラシック音楽や、その捉え方に関係しています。
ざっくり言うと
クラシック歌手は、(基本的には)作曲家が遺した(残した)譜面を音にして空間に放つのが第一の使命であること。
そして、元々はヨーロッパの教会や宮廷をルーツとする高い芸術性を追求するもので、その精神も表現のうちであること。
使われる楽器やオーケストラ等と共演した時、調和しつつ突き抜ける音であること。
要は、数百年経っても失われないクラス(階級)音楽を表現するには、オレやアタシの自我にまみれた素の声はそもそもフィットしないし、技術的にも厳しいというワケです
気取っているとかではなく、そういうモノだということです
恥ずかしながら
それまで「声を聴かせない」なんて
考えたこともありませんでした
ていうか
何のためにこういう独特な発声を学んでいるかも
考えてなかった
先生に
「下品な"声"を聴かせないで」
と何度叱責されたことか
いや、でもクラシックって、オペラとかだよね?大声出すじゃん?マリア・カラスの声とか、すごく特徴あるよね?あれはダメなの?
て疑問もあるかと思います
ここで大切なのは、私たちは往年の名歌手の声は録音でしか聴いていないということ。
他の芸能と比べても声楽は特に、声だけでなく空間全体に響く音を体感するもので、ナマで聴かなければその価値は判りません。現在の録音再生技術がどんなに優れていても、人の声と空間の振動の周波数全ては網羅できないので、録音は実際の音とは別物ということが前提であることをお伝えしておきます。
歌ですから当然声帯をしっかり使うし、響きは声に付随するものなので、声はめちゃくちゃ出します。
が、声だけでなく声が纏う響きが大事なんです
楽器(身体)が個々に違うので声も響きもそれぞれですが、その人固有の最も良い響きを追求する技術と言っても良いかもしれません。
わかり易く言うと、マイクで増幅させる部分を、発声技術で空間に効率よく響かせて音を聴かせているわけです。マイク内蔵発声マシン的な
マイクにも甲乙丙丁とランクがある(ABCD?)ように、響きにもランクがあって、当然巨匠と言われる名歌手様は、声のみならず声に着せられた響きも素晴らしいのです
お金を積んでも買えない自前マイク、ですね
誤解して欲しくないのは、「良い響き」とは、その楽器を一番自然に効率よく鳴らした時の響きのことで、何かをお手本に真似して作れるようなものではありません。
血と汗と涙で身に付けるのです〜
なので当然、楽器(身体)それぞれの特性が出てきます。
残念ながら、元々出来の良い楽器とそうでない楽器も当然あるんですよね
それがその人の「声」として聴こえるのです。
なのでやっぱり「声」なんですけどね
文章が下手くそで矛盾してるみたいだけど
少しは伝わったでしょうか
ともあれ
私が今後どんな歌をどうやって歌うにしろ
曲がりなりにもクラシックを勉強した私がクラシック歌手として歌う限り
「声を聴かせない」
という原則は
矜持として持っていたいと思うのです
今日も
最後までお付き合いくださり
ありがとうございました
声帯の粘りには牛肉!と言われていて
一生懸命食べていたけど
made in Japanスズキの今の食養生は
4本足の肉は良くないんだよね