ケイマン諸島の歴史 その1 | 世界をまたにかける

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中国で3年。マレーシアで3年生活。イギリスでフランス人の旦那との間に娘を出産。現在ケイマン諸島で暮らしています。

The Residentとケイマン政府のweb site よりざっくり訳しています。(とっても雑な訳です、ショック!あしからず)


島1503-1670麦わら海賊団

クリストファーコロンブスが島の発見者といわれている。4度目の航海中の1503年5月10日、船がケイマンブラクとリトルケイマンを通過。岩と間違えるほどたくさんのウミガメがいたことから、この島をスペイン語でウミガメを意味するラス・トルトゥガス(Las Tortugas)と呼んだ。
1523年の地図で3島合わせてLas Tortugas記載されているが、1530年の地図ではCaymanasと記載されている。
コロンブスのこの航海の頃には、100万人ほどのカリブ、タイノ、アラワクインディアンが近隣の島に暮らしており、カリブインディアンの言葉でワニを意味するCaymanasが語源になっていると考えられている。



カリブ、タイノインディアンは航行の上手な民族で、最大約24mのカヌーで海を航行していたことが知られている。ジャマイカには数千のタイノインディアンが風と海流にのって生活していたので、彼らが最も最初のケイマンへの訪問者であるとも考えられる。

1586年フランシスドレイクと23の船団が2日間グランドケイマンに停泊。そこに人間は暮らしておらず、たくさんのワニとイグアナ、亀がいたことが記録されている。

島には十分な亀がいたが、このことが島にたくさんのカリブの船を呼び寄せ、船乗りたちに必要な肉を供給することとなった。
やがて、このことが亀たちの住む場所を奪うこととなり、地元の亀漁師たちが遠くのキューバや、カヨスミスキトス(ニカラグア)へ漁場を求めていかざるを得ない状況となる。


1655年、ウィリアムペン総督とロバートべナブルがイギリスのオリバークロムウェルにより、スペインからイスパニョ-ラ島(ハイチ・ドミニカのある島)を獲得するために送られる。イギリスはスペインの砦を獲得することはできなかったが、ジャマイカを手に入れることができた。その後、ケイマンは1670年のマドリッド条約によって、ジャマイカとともにイギリス領となった。(条約以前はジャマイカがケイマンを含む近隣の島々を統括していた。)

最も古い入植についての記録は、1661年~1671年間のリトルケイマンと、ケイマンブラクにおけるものだった。
グランドケイマンにおける最初の入植者は1658年に解隊されたクロムウェル軍の兵士や、マホガニーなどの材木を求めた樵たち、小規模農業の農民たち、ジャマイカを経由してきた奴隷たちがいた。



島1700-1900black

1700年代、グランドケイマンへの永住者の移住は、数家族、ボーデンズから始まった。(Boddens)
1734年から1742年にはグランドケイマンの5つの地域がジャマイカの統治者から譲渡される。これが奴隷使用を含む入植者の増加につながる。この頃、マホガニーとロッグウッドがジャマイカに輸出されていた。

1773年には遭難した船の船乗りや、冒険家などで人口がおよそ500人に達していた。
同年のジョージ・ガウルドのグランドケイマンにおける記録によれば、莫大な綿が亀と並ぶ主要輸出品として生産されていた。さらに島では、とうもろこし、ヤムいも、かぼちゃ、さつまいも、プランテン、めろん、ライム、オレンジ、さらにたくさんの果物や野菜が、寄港する船向けや自らのために生産されいた。
ロープ作りも、造船業とならんで重要な産業となっていた。


1780年には、船乗りでイギリス初期移住者のウィリアム・エデンが綿とマホガニーのプランテーションをサバナのペドロブラフにつくり、ビルをセント・ジェームス(現在ペドロセントジェームスキャッスルで知られる)に建てた。このビルは当時には抜きんでた建物であり、1784年の破壊的ハリケーンの被害の中、唯一壊れなった建物だった。


1794年、2月8日、10の遭難船事件がおこり、ケイマンにおける最大の伝説(なぜケイマンがタックスフリーになったのか)が生まれた。(ジャマイカからの10の遭難船をケイマン人が助けたことを聞いた英国王がケイマン人への恩賞として、徴兵免除とタックスフリーにしたという伝説)


1800年代には最初の国勢調査が見られる。(1802年)
グランドケイマンの人口は933人で、うち奴隷が545人だったことを示している。
1834年に奴隷が廃止される前には、116家族によって、950を超える奴隷が所有されていた。
他の多くのカリブの島々では、自由民の数より奴隷数が圧倒的に多かったが、ケイマン諸島では他の島々のように、多くプランテーションをもつことができなかったので、結果多くの奴隷が輸入されることがなかった。

1831年の12月5日、セント・ジェームズが5つの地区の代表を決める島民の歴史的な話し合いの場所となった。
その話し合いでは、より良い統治を行うために現地の法を施行することが認められた。
5日後、ケイマンで最初の選挙が行われ、31日には最初の立法議会がジョージタウンで開かれる。その頃のおおよその人口は、2千人。
(ケイマンはジャマイカの属国とみなされていたが、その植民地への統制はゆるやかで、自治の伝統が築かれた。)


1830年から1840年の間に最初の英国国教会とウェズレー派の宣教師が到着し、最初の学校が建てられた。(ミコ・チャリティーと、ウェズレースクール)

1835年にジャマイカの統治者であるスリゴがケイマンにて、1833年の奴隷解放宣言に従って、すべての奴隷の解放を宣言した。奴隷たちは国を去る選択が認められたが、いくつかは永住するために島に残った。


1846年レブ・ジェームズ・エルムスリによって長老教会がたてられる。

1863年にイギリス議会がケイマン諸島をジャマイカの属国と公式に指定するまでは構造的な従属国関係はあいまいに続いていた。

1891年までに人口がグランドケイマンで3,725人、ケイマンブラクで528人、リトルケイマンで69人にまで達していた。

1898年イギリス国籍のフレデリック・サングイネッティがジャマイカの統治者よりケイマン諸島の理事に任命される。

1800年代後半までに、ほとんどのケイマン男性は漁か亀漁の船乗り、またパナマ運河、キューバにおける様々な労働力として生計をたてていた。女性は家に残り、家族を養っていた。
リゾートのわら製品やコテージ産業における手作りわら製品は1960年代まで経済的需要産業として発展しつづけた。