自転車にのっていて

車と接触してしまいました🫠



すどん🚗


ガシャン🚲


アイタタタ…







ちょこっと怪我した程度で済んだのだけど

心がきゅっとしているのを

留めておこうとおもい。





自分の心は知っている

と言う話。






運転手は72歳のおばあさま。



同乗していたのは娘さんとお孫さん。


みなさんの動揺した様子といったらもう。





交通法的には車の方が強いので

加害者として処理されてしまうもので


軽い怪我程度と言えど


『事故を起こしてしまった』

『人にぶつかってしまった』


と言う経験は

運転手の方に少なからずの

心のダメージを与えるはずで


そんな経験をさせてしまったことが

とっても申し訳なくて🥲






そして

私は店舗出勤の日だったので

お休みの方に急遽出勤してもらい


ご予約だったお客様も

もしかしたらキャンセルになったかも…




方々に心配と迷惑をかけて

あーーーーやっちまった状態😱😱







こんなに申し訳なく思うのは


明らかに自分の過失であると

私はわかっているからなの。




車が来てるのを気づいていながら

止まるだろうと注意を怠ったのを

自分でわかっているから。








ちょっとズルしちゃう。とか

ま、誰も見てないし、いっか。とか


そんなの誰にだってあるし

大して気にしなくてもいいじゃん

全然、何にも害ないしってこと

あると思うのだけどさ



けど

なんと言うかな


自分の中にしこりみたいの

残るんだよね。



そういうのって

なんか消えないんだよね。ずっと。




忘れていても

何かのキッカケでぽこっと

また顔を出したりして。





ズルしてるってわかってるから


悪いことしたって自分で思ってるから




その瞬間は

咄嗟の反射だったかもしれないけど

やってしまった事実はなくならなくて

無かったことにはできないんだよね。





ズルした自分に

遠くからジトーっと嫌悪を向ける

自分がいるんだよね。




そう言うの繰り返すと

自分への不信感になっちゃう。





ちなみに、全肯定の概念と

IFSのパーツ的観点を踏まえると



やっちまった自分は責めない。

起きてしまったことはしょうがない、

次気をつけよう。





責めちゃってる自分がいるなら

責めたくなっちゃうんだよね。うんうん。



そして同時に

不信感を向ける自分にも

そっかそっか。

こんな自分は信用できなくなるよね。





といった感じになる。





おそらく

あとあと時間が経って

影響が出るとしたら


不信感を持つ存在が

何かの反応を起こすようになったとき

とかかな…





少し脱線したけど



なるべくなるべく


あ…って思うなら

やらないようにしようと

改めて思ったのでした。





一点の曇りもなく

自分に胸張っていたいもんな。やっぱ。



きゃ!わたしってかっこいい!


って思えるくらいになりたいもんな。