民家も少なく、

子どもたちも少なくて、

一人遊びが多く、

弟たちと遊んだという記憶はほとんどありません。

叔父(母の兄)が我が家に大きな箱を届けてくれましたが、

その中に入っていたのは青色の三輪車でした。

よほど気に入っていたのでしょうね、

ボロボロになるまで乗りこなしたのは記憶にあります。

当時、開拓地に住んでいたのは、

我が家の他に祖母の家、

C先輩の家にY先輩の家、

そして大変お世話になったK先輩の祖父の別荘?
のような家に、

少し離れた開拓地の入り口の所に住んでいたTさんの家くらいでした。

遊びと言えば日頃は、

畑仕事などをしていた両親の側で、

一人遊びが多かったですね。

僕がまだ幼い頃は、

祖母の家にいた母の妹のおばさんがまだ中学生でしたから、

僕はそのおばさんのことを、「姉ちゃん」と呼んでいました。

そして僕は、

姉ちゃんは勿論、親戚や皆からは「みっちゃん」と呼ばれていました。

それは今でも変わりません。
(男なんだけどね(笑))

そのおばさんの中学の同級生の家へ一緒に連れていってもらった日の事も忘れません。

姉ちゃんに連れられて山道を道路まで下りて行き、

道路を川上に向かってしばらく歩くと、

丸木を渡した橋を渡って山道を上り、

辿り着いた大きな家へ入っていきました。

そこには、

おばさんの友だちの女性が数名待っていました。

皆に可愛がられて、

一緒に遊んでもらったのを忘れません。

またある日、

おばあちゃんに連れられて、

姉ちゃんの中学校の運動会に行きました。

そこで記憶に残っているのは、

天気がよくて少し暑かったので、

おばあちゃんがかき氷を買ってくれました。

するとそのかき氷の皿も、

そのまま食べられるというので食べてみると、

乾いているところはパリパリとして、

濡れているところは柔らかく初めて食べる食感に驚いたのも忘れません。

この皿は、

今ではソフトクリームの握り手につかわれていますが、

当時ではまだ珍しかったように思います。

やがて姉ちゃんは中学校を卒業すると、

どこか遠くへ行ってしまいました。

※⬇この写真は、開拓者の皆さんが、開墾している姿かな?


手元に残る数少ない写真の一枚です。

この頃の開拓地にはまだ、

電気も無いのでランプ生活、

道路もないので全ての物を運ぶのは人の力でした。

そして唯一の楽しみといえば、

電池式の携帯用のラジオでした。

舟木一夫さん、三田明さん、橋幸夫さん、美空ひばりさん、畠山みどりさん、島倉千代子さんはじめ、

皆さんの歌や音楽を聴きながら遊んでいましたので、

音楽を聴くのだけはずっと好きでした。

因みに大きくなってから母に聞いたのですが、

僕がだ3歳の頃の冬、

祖母の家に遊びに行った僕の帰りが余りにも遅いので見に行くと、

途中の道沿いで雪の中に頭を突っ込んで眠っていたこともあったそうです。

流石にこの事は、

全く記憶にはありません。

このように僕の幼児期は、

電気も無い山奥で、

大自然に見守られながら育ったものでした。

でも、

いま振り返ると、

その大自然の恵みが僕を育ててくれたような気もします。

次回は幼児期の後編です。

お楽しみに\(^^)/