東京湾上、戦艦ミズーリの甲板で行われた「日本降伏文書調印式」です。当然ですが、軍人達は刀を吊っていません。
又、同艦の停泊位置は1854年ペリーが再訪した際の旗艦ポーハタン号の位置と同じで、当時の星条旗も掲揚されました。
よく間違われますが、前年の1853年に、ポーハタン号は随伴していません。その時の旗艦はサスケハナ号で、星条旗はそうですが、江戸湾には侵入していません。
再訪の目的は「日米和親条約」締結ですが、この時は陸上で調印しました。ポーハタン号上で調印したのは、1858年の「日米通商修好条約」の方です。
ミズーリの調印式には、政府を代表し重光葵(まもる)外相が、陸軍から梅津美治郎(よしじろう)参謀総長が出席しましたが、海軍の豊田副武(そえむ)軍令部総長は欠席しました。誰だって嫌でしょう。大西瀧治郎次長も自決しており、序列第3位の富岡定俊第一部長が代行しました。阿南(あなみ)惟幾陸相も「一死、大罪を謝す。」と遺し自決。
重光、梅津、豊田、阿南は全員、大分県出身です。他、写真に写っている11人の中に薩長出身者はいません。
太平洋戦争開戦時の首相は東条英機(岩手県)次が小磯国昭(山形県)終戦時が、鈴木貫太郎ですが、鈴木は、高齢の為同じ海軍で首相経験者の米内光政(岩手県)が代行、やはり海軍出身で入閣していた、八角(やすみ)三郎(岩手県)や左近司(さこんじ)政三(山形県)と共に終戦に導きました。「ポツダム宣言」受諾後の東久邇宮稔彦王首相に実権はなく緒方竹虎(山形県)が代行しています。
尚、石原莞爾(山形県)は、東條英機と烈しく対立した点で戦犯に問われていませんが「満州事変」は、彼の専横の結果です。
どう考えても、昭和の陸海軍と薩長に接点はありません。
石原莞爾が、連合軍の審問で「俺が、A級戦犯だ。東條は上等兵程度の脳味噌!」と喚(わめ)いたのは、「俺を殺して、東條を赦してやれ!」との、二人しか分からないメッセージでしょう。
これにて日本は正式に主権を失い連合軍GHQの下に入る。有史以来の占領、日本国が無くなりました。アメリカはあんなに抵抗し「1億総火の玉、鬼畜米英」は一夜にしてGIVE ME CHOCOKATEになった。この成功体験は今もアメリカを縛る。しかし東京大空襲も原爆投下も天皇皇室、政治や軍の中枢を避け意思決定に決定的打撃は与えなかった事が「見事な負け」と演出した。イランもイラク、アフガンも何も学んだなかったのか
