【家康、毛利輝元に本領安堵状】1600年9月19日
徳川家康が、大坂退去を条件に本領を安堵する旨の本多忠勝・井伊直政連署の書状を、黒田長政らに持たせ大坂城の毛利側に伝える。西軍の総大将を務め1600年7月19日には大坂城に入城し、豊臣秀頼を庇護する立場を明確にしています。で西軍が敗北した後、輝元は大坂城を退去し、いったんは本領安堵の約束を取り付けました。しかし、家康は輝元が西軍総大将として行動していたことを理由にこの密約を反故にし、毛利家の所領は大きく減封され、周防国と長門国の2カ国のみとなりました。土豪で人質から天下人になった家康と、毛利元就の孫で苦労知らずの輝元ではまるで役者が違かった。関ケ原後30000の軍勢と大坂城、秀頼を手中にしていながら、家康にあっさり懐柔された。この時点では家康は完全に不利であり輝元が立花宗茂などを糾合し戦えば十分に勝機有りだった。戦国有数の凡将と言われる由縁 #大河ドラマ #べらぼう