1620年1月23日(元和5年12月19日)は直江兼続の命日です。
「愛」でお馴染み、かつその部分ばかり注目されてしまう戦国武将。
上杉景勝の腹心として徳川家康に鮮烈な果たし状【直江状】を突きつけたことでも知られます。
しかしその反面、あまり史実が注目されない方ではないでしょうか。
坂戸衆は長尾晴景の配下で謙信の姉の嫁ぎ先。幼いころから雲洞庵でその子景勝と学んだ。謙信に見いだされ景勝小姓となる。前半生はほとんど一次資料が無い出自は謎の人。史実に登場するのは謙信死後、越後内乱本能寺の変秀吉臣従など上杉家の重要事項に関わり景勝を豊臣政権の重鎮に押し上げ、本人も上杉家執政でありながら米沢30万石を与えられる破格の厚遇を受け、その行政手腕は秀吉に「天下の仕置きも出来る陪臣」と激賞された。関ケ原で敗軍となり1/4に減俸された上杉。兼続も30万石から6000石へ。江戸時代は厳しい状況になったが、家臣の解雇はせず新田開発や特産品開発で乗り切った。2代秀忠からも重用され、戦を知らない若い幕臣達に戦国を語る役目を任された。直江家は嫡男の早逝と、関ケ原の責任を感じ兼続自ら断絶を申し出た。 #べらぼう #大河ドラマ