【家康、正妻を殺害】1579年8月29日
徳川家康が正妻築山殿を、武田氏内通の嫌疑により遠江富塚で野中重政に命じて殺害する。#大河ドラマ などでは、武田内通の讒言で信長が家康に命じた処刑となっている、が事実は違う。桶狭間以来今川を裏切った家康と今川連枝の築山は不仲となり、徳川家は三河の築山信康、浜松の家康の2頭体制となる。実際信康以降築山との子は無く、浜松で側室腹の秀康など誕生している。近年の信長の書状研究では「三河殿の存分に」と言う記述も発見されている。 #どうする家康 #光る君へ