明治35年(1902年)1月30日は日英同盟が結ばれた日です。
明治維新においても日本はイギリスから数多の技術や文化を輸入しているためか。
かなり古い“対等”の付き合いのようにも見えますが、実際は違います。
明治新政府はイギリスから子供扱いされていました。
日英の関係は400年ほど前、家康とウイリアムアダムス(三浦按針)などの関係からスタートします。1500年代の宗教改革により生まれたプロテスタント、カトリックは危機感を持ち貿易と不況は1セット、しかしプロテスタントは貿易のみと言う違いに目を付け、家康はスペインとポルトガルを切ります。一見その後順調になりそうなイギリスとの関係ですが、産業革命とアメリカ、インドへの進出でオランダ貿易を260年続けます。そして幕末へアメリカやロシア、そして最大の敵フランスが日本進出の動きだが、イギリスは中国ほどのポテンシャルを日本に感じていませんが、乗り遅れる訳に行かず参戦します。生麦事件、薩英戦争を経て勝ち馬、薩長に乗る事が出来ます。この頃からイギリスの介入が始まり、江戸城無血開城は西郷隆盛と勝海舟の功績と言われますが、出来試合でイギリスから江戸壊滅は絶対NGと釘を刺されていました。イギリスの恫喝により日本はその後も良い様に使われます。日清、日露戦争も両者を戦わせ漁夫の利を得る、なんともアングロサクソン的手法で、大英帝国は更に発展するのです。『坂の上の雲』は、あとがきにおいてそのテーマがこう説明されます。

「のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それをのみ見つめて坂をのぼってゆくであろう――。」
しかしこれもイギリスが裏で後押ししていたとも見れます。#光る君へ #大河ドラマ