2010年に社長に就任して以来、長年「万年4位」と言われてきた伊藤忠を、純利益や株価で業界トップを争う「最強の商社」へと変貌させた立役者として知られています。
岡藤正広氏のプロフィール・経歴
生年月日: 1949年12月1日(大阪府出身)
学歴: 東京大学経済学部 卒業(1974年)
略歴:
1974年:伊藤忠商事入社。主に繊維部門でキャリアを積む。
2004年:執行役員 繊維カンパニープレジデント。
2010年:代表取締役社長に就任。
2018年:代表取締役会長 CEOに就任(現職)。
役職: 2024年より日本貿易会の会長にも就任しています。
伊藤忠商事株式会社
伊藤忠商事株式会社
驚異的な報酬: 2025年3月期の報酬総額が18億2400万円であったことが公表され、商社トップの額として注目を集めました。
後継者問題: 2026年現在、岡藤氏の後継者候補として5人の名前が挙がっており、次期CEOレースの動向が経済界で話題となっています。
経営手法: 「利は川下にあり」という信念のもと、ファミリーマートなどの消費者事業を強化し、利益を社長就任時の約7倍にまで拡大させました。また、2026年4月には「カンブリア宮殿」のスペシャル番組に出演し、その経営哲学が改めて紹介されました。
山崎豊子「不毛地帯」架空の近畿商事のモデルは伊藤忠、財閥系商社との戦いに元大本営参謀壱岐正、これも瀬島龍三をオマージュ。非財閥で4大商社にのし上がった。財閥系の重厚長大が衰退し今、伊藤忠の時代がやって来た。あまりメディアに出ない謎の経営者岡藤氏だったが、言っている事は孫子「兵の形は水にかたどる」孔子「正しい事を積み重ねる事だけ」そしてルーツの近江商人「自分良し客良し世間良しの三方良し」一攫千金ブラック企業の新自由主義者とはまるで違う

【後藤又兵衛誕生】1560年4月10日
後藤又兵衛基次が後藤基国の次男として播磨姫路南山田に生まれる。
若いころから黒田官兵衛・黒田長政に仕え、戦場での武勇で名を上げた武将です。
のちに黒田家を離れ浪人となりますが、1614年からの大坂の陣で豊臣方に属し、大坂城五人衆の一人として道明寺の戦いなどで奮戦し、1615年に討ち死にしました。
黒田官兵衛は側室を持たず子供が少なかったので、家臣などの次男以下を育て側近にしました。その代表が又兵衛でした。長政よりも年長で武勇に優れ兄の様な存在だった。官兵衛後年「長政がわしより優れた点は、子が多い、主君から嫌われない、大領を受領した。わしが優れた点は、人使いが上手い、博打打ちが上手い」官兵衛死後、又兵衛は出奔し牢人となる。長政は諸国大名家に又兵衛仕官をさせない様に書状を送った。ゆえに大坂の陣では豊臣方に身を投じ、徳川方を苦しめた

【長久手の戦い】1584年4月9日
徳川家康が尾張長久手で羽柴秀次軍を撃破。池田恒興・森長可らが戦死、秀吉は本陣を楽田より小松寺に移す。
1584年4月9日、現在の愛知県長久手市周辺で、徳川家康軍と羽柴(豊臣)秀吉方の先鋒軍が激突しました。小牧・長久手の戦いの中でも、実際に大きな損害が出た主戦闘の日です。
秀吉方では、先鋒として池田恒興・その子ら、そして森長可などが出陣しました。彼らは秀吉本隊より先行して長久手方面へ進軍しますが、そこを家康方の軍勢が機動力を活かして突き、挟撃する形になりました。
徳川方は家康自らが全体を指揮し、榊原康政らが前線で池田隊を攻撃したとされています。
この戦いで、秀吉方の中核武将であった池田恒興、その子たち、そして猛将として知られる森長可が討ち死にしました。彼らの戦死は、秀吉方にとって大きな痛手でした。
また、同日には岩崎城攻防など周辺でも戦闘があり、織田方の丹羽氏重や徳川方に属する武将たちも各地で奮戦・戦死しています。
長久手での戦闘は、戦術的には徳川家康側の明確な勝利となりました。秀吉方先鋒軍が大打撃を受けたことで、秀吉は全軍の態勢を立て直す必要に迫られ、本陣を楽田から小松寺へと移したと伝えられています。これは家康軍とのにらみ合いの中で、陣形を組み替えつつ持久戦に転じる動きと理解されています。
この日の勝利によって、家康は「秀吉と真正面から戦っても渡り合える武将」であることを示しました。一方で、戦全体としては決定的な勝敗がつかず、秀吉は後に外交と婚姻政策で家康を懐柔し、全国統一を進めていきます。小牧・長久手の戦いは、力と外交の駆け引きが交差した重要な転機といえます。
2年前の武田家滅亡にて最強軍団を吸収し今までとは全く違う強さを手に入れた家康。永年の信玄との抗争で武田軍団の恐ろしさを知っていただけに、その強さを生かしての勝利だった。これにて秀吉の征夷大将軍就任は消え、関白就任へ進む。