【秀忠が真田昌幸に降伏勧告】1600年9月2日
中山道経由で進軍中の徳川秀忠が小諸城に入り、真田信幸を上田城に派遣して真田昌幸の降伏を勧告させる。第2次上田城の戦いの前、ここでも昌幸の調略が冴えわたる。降伏勧告をあっさり承諾、城の片づけに数日掛かると返答、時間稼ぎをする。なかなか明け渡さない真田に苛立つ徳川、そこに降伏撤回の通知で激怒、総攻めとなる。充分な準備時間と怒りに任せた力攻めは昌幸の思う壺となる。様々な戦術に翻弄させられ秀忠を足止めさせる。歴史上の秀忠の評価である、関ヶ原合戦に遅参と言う結果になる #べらぼう #大河ドラマ
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【大内義隆自害】1551年9月1日
大内義隆が陶隆房の謀反により、長門大津郡深川大寧寺にて自害。享年45。また山口に滞在中の、公家で武田信玄夫人の父・三条公頼が殺害される。享年57。文化人を厚遇し、山口は「西の京」と呼ばれるほど栄えた。しかし次第に政務を軽視し、朝廷・文化事業への傾斜が強くなる一方で、家臣団の不満を招いてしまった。なぜここまで力が有ったのか?!それは足利義満が開いた日明貿易の勘合符。これを大内氏はいつの頃からか手に入れ幕府に代わって貿易の窓口となっていた。下関で明の船を迎え貿易で巨万の富と最新の文化を受け入れていた。応仁の乱で荒れ果てた京を脱出して貴族も大勢下向し、義隆は貴族化し、また官位の高い貴人が来る事で誰が主君なのか分からない様な状況に混乱をきたした。 #べらぼう #大河ドラマ
堀秀政が越前北ノ荘十八万石の主となった天正十三(1585)年のこと、城下に「左衛門督(秀政)の悪政の数、二十数余あり」と書かれた、彼の政治を誹謗する立て札が立てられた。家臣達はこれを秀政に報告、犯人を重罪に処すべきと進言したが、彼は何度も読み返した後に正装に着替え、口を塩ですすぎ、立て札を三度おしいただいて「まことにありがたい諫言、正に天からの下されものである。直ちに内容を吟味し、旧弊をすべて改めよ」と言い、それを実行させた。領民達は大いに喜び、彼のことを「品行(名人)左衛門督」と呼び慕ったという。当時の民衆にとっては危険な行為でもありました。普通の大名であれば「謀反の兆し」や「侮辱」として、犯人を厳罰に処すのが常でした。今のSNS規制がいかに危険か… #べらぼう #大河ドラマ