(3行でまとめると)

1.. きっかけはFBで徳川さんに家紋を聞かれたこと

2.総持寺は五七の桐紋を寺紋に使っていて後醍醐天皇をお祀(まつ)りしています

3.. 後醍醐天皇は曹洞宗を利用して下級武士を味方につけて鎌倉幕府を倒そうとした?

 

(2016-11-12  輪島市総持寺祖院)

わたしは2019年に家紋を聞かれて調べるまで気にしていませんでした。

調べ始めた当時は、後醍醐天皇から勅願寺にしてもらったときに五七の桐紋を使ってもいいことになったという理解でした。

 

でも峨山道(がさんどう)トレイルランに参加するようになって、羽咋(はくい)の永光寺(ようこうじ)の方も後醍醐天皇から「曹洞宗出世道場」と賜って勅願寺にしてもらったことを知りました。

曹洞宗という名称を使い始めたのはこの頃からですが、ここで最初の疑問。

後醍醐天皇から勅願寺にしてもらったのは、どちらかひとつかそれとも両方か?

ウィキペディアの「勅願寺」には総持寺も永光寺もありませんでした。もちろん後醍醐天皇の項目にも禅宗はありますが、曹洞宗は出てきません。

それに総持寺と永光寺を解説しているサイトの記事を読んでみてもごちゃ混ぜ感があって返って混乱しました。

 

 

 

 

細かい専門的なことは別にして簡単に整理した方がよさように思えました。

 

まず鎌倉時代から現代までに2度仏教界全体が大きく変動する政策がありました。

一つは江戸幕府による宗教統制のための本山末寺制度と寺請制度。

この時に曹洞宗は大本山を永平寺と総持寺の2つにしました。それまでは奥州岩手県(正法寺)と九州熊本県(大慈寺にもありました。

二つ目が明治政府による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で寺院の徹底的な破壊と収蔵品の略奪と国外流出です。このときに曹洞宗以外にも多くの寺院が荒廃しました。

禅宗専用のウィキペディアだと、明治時代に永平寺と総持寺が別々の寺紋を使うことを決めたらしいです。「つらつら日暮らしWiki〈禅・仏教関連用語集〉の寺紋の項目」

https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bb%fb%cc%e6

 

そして「つらつら日暮らしWiki」によれば、江戸時代までは皇室の御紋の菊紋を使っていたようでした。

 

次に後醍醐天皇について軽くおさらいします。文科省認定の日本史の教科書では、後醍醐天皇といえば鎌倉幕府を倒して建武の新政を行って足利尊氏に負けて吉野に南朝を開いて南北朝時代を作った天皇となります。

歴史書では太平記が有名です。太平記では無能な君主として描かれています。けれどもどんなに失敗しても側近に裏切られても目的をやり遂げた行動力は現代においても十分参考になる生き方だと思います。人間味ある行動が天皇らしく見えないということで側近から軽蔑されたと思います。

 

でも曹洞宗のことは出てこないので、その時代の関係する寺院と人物を地図と表にしてみました。

 

 

 

曹洞宗の方は開祖道元禅師が亡くなって教団の方向性をめぐって分裂した時期でした。

後醍醐天皇が1318年に即位された頃に、当時は元の中国の天目山で禅宗の修業を終えて帰国してからも日本で禅の研鑽をしていた孤峰覚明(こほうかくみょう)という禅僧がいました。この人は1322年に出雲国で雲樹寺を開創しましたが、1333年船上山の戦いで勝った時には後醍醐天皇の行宮(あんぐう)に招かれました。後醍醐天皇側の禅僧でした。

 

 

 

そして孤峰覚明という人は、永光寺(ようこうじ)にいた曹洞宗4世の瑩山禅師に師事していた人で曹洞宗と交流がありました。瑩山禅師は曹洞宗3世の徹通義介(てっつう ぎかい)と共に永平寺を離れて大乗寺に行った人です。その後1312年に永光寺(ようこうじ)を開創しました。

1318年に後醍醐天皇が即位された頃は、瑩山禅師は永光寺の住職でしたが、名前は京都まで知れ渡っていたと思います。

それで孤峰覚明(こほうかくみょう)という臨済宗の禅僧が、後醍醐天皇の使者となって「十種の疑滞」(総持寺では「十種の勅問」)という話ができたらしいです。

 

曹洞宗の方は、ちょうど総持寺を1321年に開創したばかりで禅の様式の僧堂は1324年に開単(新たに僧堂を開創すること、つらつら日暮らしWikiより)しました。その頃京都では正中の変が起きていました。

 

瑩山禅師は総持寺僧堂が完成した1324年に総持寺の住職を曹洞宗5世の峨山禅師に任せました。そして翌年1325年に永光寺の住職を明峰素哲(めいほうそてつ)に任せた後に示寂(じじゃく、高僧などが亡くなること)されました。

 

後醍醐天皇が倒幕の気持ちが強いのは確かですが、1324年の正中の変以降は鎌倉幕府の監視の目が厳しくなりました。1327年に後醍醐天皇の第3皇子の護良親王(もりよししんのう)が第116世天台座主について比叡山延暦寺の僧兵3000人あまりを統率できるようになりました。第118世にもついています。後醍醐天皇とすれば禅宗をふくめた宗教界全部を味方につけて鎌倉幕府を倒す計画も立てていたかもしれません。

 

 

そういうこともあって1331年に側近の吉田定房(よしだ さだふさ)の密告と笠置山の戦いで始まる元弘の乱で後醍醐天皇が隠岐に配流になります。その前後から楠木正成などの悪党、そして関東各地でも倒幕の動きが起きて最終的に1333年に鎌倉幕府が滅亡します。

 

この頃曹洞宗は教義に男女平等があって下級武士や庶民を中心に布教がどんどん広がっていきました。その布教には皇室の御紋を寺紋に使うことによって全国各地に浸透していったと思います。そう考えればどうして後醍醐天皇が倒幕の詔(みことのり)を出したときに各地ですぐさま呼応する武将が多かったのか理解できます。

 

後醍醐天皇が曹洞宗を利用して下級武士を味方につけて鎌倉幕府を倒そうとした?というのは私の推論です。そういうことを言っている研究者は誰もいないので。

 

けれども現在でも曹洞宗総持寺では、後醍醐天皇をお祀りしています。

私は去年2020年3月に後醍醐天皇の御陵がある浄土宗如意輪寺に参拝に行きました。

曹洞宗の方が建立した記念碑がありました。

 

(2020-03-19 如意輪寺)