「混ぜたり切ったり伸ばしたり。

何をしてるんだ、さっきから?」

 

 



「料理よ。」

 



「料理?


なんだ?リョウリって?」

 



「愛を込める、作業よ。」

 

 

 


もしも、いま、

 

宇宙人に、「この作業はなにか?」と聴かれたら、

 

間違いなくこう答えるとか、妄想中。





「そのまま。たべればいいではないか。
 

素材は、そのもので味を持っている。
 

なにより、混ぜずとも、最後には胃のなかで、まざる。」

 



「そうね。
 

刻まなくても、混ぜなくても。

 

煮なくても、いいのかもしれない。


ただ、愛を込めてるだけなの。
 

それだけよ。」

 



妻が出産のために入院した2週間前から、

 

さとう家の料理を担当させて頂いております、

 

みつろうです。

 

 

 

ひっさしぶりに料理して、

 

「この作業は、マジなんなんだ???」

 

と考え始め。

 

 

哲学とは、本質まで考え抜く作業です。

 

「根源」に肉薄するまで思考するのが、

 

哲学的思考。

 

 

「そもそも」を考えるのが、

 

哲学。

 

 

そもそも、どうして料理するのか。

 

焼かずとも、煮なくても、切り刻まなくても、

 

「ホントウは」良いはずです。

 

では、なぜ。

 

でも、なぜ。

 

それらの「複雑な工程」を、

 

わざと、経るのか。

 

 

 

 

 

リョウリって、

 

愛を込める作業だと、マジで思いました。

 

はー、疲れた。

 

 

 

  

 

↓共働きの頃は、よく料理もしましたが、

 

4年前から、ほぼお任せで。

 

久しぶりに「そぼろ」とか作ってると、

 

めんどくさがり8段(日本1位です)のみつろうさんは、

 

「なんで、切り刻まなあかんねん!!」

 

とイライラし始め、

 

「てか、ブタのおしりにかじりついて、その後、小松菜をむしり喰いやがれ!!」

 

と、ピークに。

 

 

こうして、「そもそも料理とは?」を考え始めて。

 

「おいしくするため」とか「火を通すため」とかは、

 

表面的な理由です。

 

哲学的思考ではありません。

 

「なぜ、火を通すのか?」

 

「なぜ、美味しくするのか?」

 

「なぜ?」

 

「なぜ?」

 

と、

 

「根源」まで、ずっと疑問し続ける姿勢。

 

それが、哲学。

 

 

 

しないでも良いはずの工程を、

 

「わざと」、

 

「出来る限り複雑に」入れてるのは、

 

なぜなのか。

 

 

「どうして、料理をするのか?」

 

 

その哲学的な回答は、

 

間違いなく、「愛を込めるための作業」だと言えます。

 

 

今日は、10月のミソカモウデの日。

 

切り刻まないでも良いひと手間は、

 

誰かのために。

 

 

焼かないでも変わらないはずのひと手間は、

 

誰かのために。

 

 

全ての「やらないでいい」はずの手間を、

 

あなたが「かけたい」と思える「誰か」が居ることに、

 

感謝してみては?

 

 

↓今日は、下の2つのランキングボタンを、

 

「これは、リョウリ。愛を込める作業なの。」と言いながらポチ↓ポチ↓

 

 

応援人気ブログランキングへ ガラケー用  にほんブログ村 哲学・思想ブログへ感謝

↑いつもボタンクリ応援・口コミ応援ありがとうございます↑

 

フォローしてね

 

◆さとうみつろうの他のページ◆  

↓ブログには無い情報もあるよフォローしてね↓

   

      

 

このブログ笑えるピリチュアルの目次(⇒初めてお越しの方へ

★Pickup過去記事★

・メディアの洗脳から目覚める→ここ ・伊勢神宮旅行記→ここ

 

 

 

 

↓いいねボタンを押すと、このブログの更新情報をフェイスブックにお届け↓