「あなた」が見ることが出来る範囲の向こう側には、
何が拡がっているのだろう?
」見えないモノ「
「あなた」が聴くことの出来る範囲の向こう側には、
何が拡がっているのだろう?
」聴こえないモノ「
「あなた」が感じる事が出来る範囲の向こう側には、
何が拡がっているのだろう?
」感じられないモノ「
「あなた」が信じていることの向こう側には、
何が拡がっているのだろう?
」信じられないこと「
「あなた」が理解していることの向こう側には、
何が拡がっているのだろう?
」理解できないこと「
「あなた」に説明できることの外側には、
何が拡がっているのだろう?
」説明できないこと「
「あなた」には、
見えず、聴こえず、感じられず、説明さえできず、
よって理解できずに、信じられない領域なのに、
やはり、ナニカが有るのだ。
「認識(=あると確認すること)」することが絶対に出来ない場所なのに、
そこにさえ、ナニカがちゃんとあるという事実。
無いはずの場所に、有るモノ。
それが、可能性ではないだろうか?
それが、希望ではないだろうか?
見えず、聴こえず、感じられず、
説明できず、理解もできず、
信じることさえも出来ない領域に、繋がる行為。
それが、『祈り』。
「わたし」とは、「限定化」するエネルギーのことなので、
「わたし」から「こだわり」こだわりを取ったら、
無限が、ただ顕われる。
祈ろう。
「わたし」を超えるために。
祈ろう。
「わたし」の外側の人たち、
」だれか「 のことを。
↓小さい頃は、誰もが宇宙の外側に何があるのかを考えたはずで。
答え無き場所に、答えが有るのを信じて。
無いはずの場所に、有るモノたち。
そこは、「何かが有るんだろうな」という予測さえ、届かない領域。
でも予測を超えて、確かにナニカが揺れている。
無い場所に有るモノへ繋がる行為が『祈り』なら、
それは、宇宙の外側を想うという壮大なことじゃなくても。
日常で、「不満」や「足りていない」と思っていた事柄に、
あるを観る。
「ない」の中に、「ある」を探す習慣。
それも、『祈り』なのかもしれない。
電気と共に復活した、
どさんこわらわ~さんたちからLINEやコメントに、
電気が来て、30分以内に当ブログを読んでくれてありがとう(笑)。
もっと他に、やることいっぱいあるはずなのに。
電気って、そんな使い方だっけ?
この2日間で、電気の正しい使い方とか優先順位とか、完全に忘れとる(笑)。
他にも、多くのどさんこわらわ~さんたちからのLINEやコメントを読んでいると。
やはり、
「無い」の中に「有る」をいっぱい見つけ続けていたようで。
教師が良いから!!
「ない」の中に、「ある」を探す達人だらけ。
例えば、
自分の家も大変なのに、コンビニや、ガソリンスタンドを開けてくれた店員さんたちに、
感謝の念が絶えない、だとか。
店に物資は「無い」けど、人の優しさが「有った」。
または、遠くの暴走車の音にさえ、安心感が湧いた、と。
いつもなら、好きじゃ「無い」相手にさえも、
居てくれるというだけで、安心感が「有った」。
大好きなどさんこわらわ~さんたちは、
電気が無くて、幸せなんて「無い」はずの生活の中に、
多くの幸福が「有る」のを痛感したようです。
不幸という暗闇の中だからこそ、
余計に「有る」幸せが目立ったのかな。
「ない」の中に「ある」をいっぱい見つけ続けた、
たくましき、どさんこわらわ~さんたちの手前、
この「有る」だらけの眼前の日常に、
不満など「ある」わけが「無い」と、
目頭が熱くなった。
多くの、「復活したぞ!」コメント、
ありがとう。
そうなんだろうなと、なんまら、信じてたけど心配したべや。
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