今日は2月のミソカモウデ。

 

今月の出来事を「ありがたい」という視点からとらえ直すことで、

 

ものの見方が変わり(視座が柔軟になり)、

 

神社を出た後の日常が「ありがたく」見え始めるという、観測者効果を上手く活用した幸せに成る方法。

 

 

 

 

いつもなら神社で「ありがとう」と言うのですが、

 

Mろう氏は今日はひたすら、「ごめんなさい」を唱えてきました。

 

 

 

対極に位置する「わたし」への『ありがとう』は、

 

『ごめんなさい』だから。

 

 

 

デラックス「??」

 

 

 

 

この世界は、二極。二元。二項対立。

 

「好き」があれば、「嫌い」がある。

 

「右」があれば、「左」がある。

 

でも、「右の右は、ただ左へ行くだけ」(過去記事参照

 

 

要するに、本来は、「好き」と「嫌い」がワンセットになっている。

 

概念上、「好き」だけで存在し得る可能性はゼロ%。

 

何かを「好き」と言っている行為は、反極を「嫌い」と言っているだけ。

 

「平和が好き」と言ってるだけで、「戦争が嫌い」と言ってるだけ。

 

「ロン毛が好き」と言っているようで、「ショートは嫌い」と言っているだけ。

 

 

「ロン毛」と「ショート」はワンセットで、【長さ】という概念を形成しており、

 

ロン毛だけでは、絶対に『存在』出来ないのがこの世界。

 

 

 

 

デラックス「どうでもいいけど、太字にするポイント、考えなさいよ。」

 

 

 

 

 

「右」と「左」がセットで、【方向】という概念が生まれる。

 

「右」だけでは、【方向】は生まれない。あり得ない。

 

 

「好き」と「嫌い」は観測の位置が違うだけで、どちらも【感情】である。

 

「好き」だけが存在することは不可能。

 

 

さぁそれでは、あなたの「善」を「善」と呼ぶためには、

 

絶対に「悪」がワンセットで必要となる。

 

 

 

「善」と「悪」は絶対に絶対に、ワンセット。

 

「善」と「悪」で【正しさ】という概念を生んでいるだけ。

 

 

 

「ここまで、オーケー??」

 

 

 

デラックス「ロン毛の太字以外は。」

 

 

 

 

さぁ、そんな二項対立で【概念】がワンセットでアラワレルこの世界。

 

もちろん二項対立(相対性)なので、

 

観ている位置によって、「善」と呼ばれたり、「悪」と呼ばれたりする。

 

 

ただ、それだけなんです師匠。

 

 

 

 

『好き』と『嫌い』は観測の位置が違うだけで、どちらも【感情】という概念を形成するワンセット。

 

「右」と「左」は観測の位置が違うだけで、どちらも【方向性】と言う概念を形成するワンセット。

 

 

 

「善」と「悪」は観る位置が違っただけで、どちらも【正義】。

 

だから戦争とは、「善」と「悪」の戦いではなく、

 

「正義」と「正義」の戦い。

 

どちらから、観たかの違いがあるだけ。

 

 

 

(↓サノバロックの『世界がウソ』の歌詞に、

ここから観たら、きれいなこの景色も、向こうから、違う誰かが「悪」と呼ぶでしょう♪

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だから。

 

180度違う対極側に居る「ライバル」とは、「わたし」と概念形成のためにワンセットで踊ってくれているだけの相手になる。

 

あちらも私で、こちらも私で、「あちら」と「こちら」で【存在】というワンセット。

 

あちらも居ないと、こちらも【存在】出来ず、こちらが居ないと「あちら」は生まれない。

 

 

 

そう、対極に居るのも「わたし」で、こちら側に居るのも「わたし」。

 

 

だから、だから。

 

 

180度対極側に居る「わたし」(別名:てき)への『ありがとう』は、

 

『ごめんなさい』になるのである。

 

 

 

デラックス「ちょっと、ここが???よ。」

 

 

 

「わたし」の位置から見ると、私の主張が「正解」に見えるけど、

 

「あなた」の位置から観ると、私の主張は「不正解」となる。

 

ということは、「あなた」の位置に身を置くと、

 

「わたしの主張=わたしにイイコト=ありがとう」

 

が、

 

「あなたの主張=私にワルイコト=私の主張が正しくない」側に身を置くのだから、

 

「ごめんなさい」である。

 

私の、主張が間違っていた「ごめんなさい」。

 

 

私という小さな自我の主張である

 

 

「俺の方が正しいんだ、えっへん!!」

 

は、

 

「そっちから観ると、あなたの方が正しいのか、ごめんなさい

 

になる。

 

 

 

 

「電車で老人に席を譲る行為こそ正しいのだ!!!」

 

という「わたし」の正義感からの主張は、

 

「電車で席を譲らないあなた」に対しては、ガッデムファッキュー死んでくれ。

 

 

ところが、この「正しさ」は向こう側の「間違っている」のお陰で、概念を形成し得るので、

 

向こう側の、

 

「席に譲らない方が正しいんだよ!!」を正と身を置いたときに、

 

こちら側は、「ごめんなさい」になる。

 

 

で、冒頭の大文字。

 

対極に位置する「わたし」への『ありがとう』は、

 

『ごめんなさい』である。

 

 

 

 

「こっちの方が正しい」を、ひたすら脇に置いておいて、

 

「ごめんなさい」を繰り返す、荒行(アラギョウ)

 

 

 

 

 

僕の祖先は、琉球第2王統の金丸さん。

 

第1王統から、政権を受け継いだ人。

 

ところが、第1王統側からすると、クーデターで政権を奪った相手。

 

もちろん、こちら側(第二尚王統)にも腐るほど「正義」と「主張」はあるのだけれど。

 

 

そのすべてを、脇に置いて、

 

今日は、第一尚巴志の本拠地である、佐敷の月代宮で、

 

ひたすら「ごめんなさい」を唱えてきました。

 

 

 

卑怯な自分で、ごめんなさい。

 

ちっちゃな自分で、ごめんなさい。

 

ごめんなさいと言いに来るのが遅くて、ごめんなさい。

 

ごめんなさいと言いながらも、やっぱり自我の方向性のために「良く」なる行為だからと腹にイチモツを抱えていてごめんなさい。

 

 

とにかく、ありとあらゆる「ごめんなさい」を唱えてきました。

 

ハワイ伝統・ホオポノポノの「ごめんなさい」「許してください」を軽く超えるくらいに。

 

 

 

あー気持ち良かった、スッキリした。

 

自分の「小ささ」を把握できて、本当に大きくなれた。

 

 

 

普通は祈る際は、祈る相手に向いて祈るのが作法。

 

でも、「ごめんなさい」アラギョウは(笑)、このブロックに腰かけて(笑)、

 

思いっきりウガンジュ(拝所)に背を向けて唱えろと(byアイツ)。

 

 

 

 

神棚に座って、背を向けて「ごめんなさい」と言ってるわけですから、

 

まぁ、敵陣の本拠地で謝っている者の態度なのかとはなはだ疑問ではありましたが、

 

 

「相手」の視点に寄り添うために、こうしろと。

 

で、確かにいい景色が見えました。

 

↓こんな景色。

 

 

 

 

 

 

相手→ ←こちら

 

を、

 

相手に向かず、

 

相手→

わたし→

 

と、同じ方向を見てきました。

 

 

 

なんか、長くなりましたが、

 

今日は2月のミソカモウデ。

 

こちら側にとって「起こってほしいこと=ありがたい」をひたすら「ありがとう」と唱えるのも、もちろんイイコトなのですが、

 

相手側のイイコト=こちら側の「ごめんなさい」を言い続けるのも、スッキリするよ(^^)/

 

 

良かったら、どーぞ(^^)/

 

 

対極に位置する「わたし」への『ありがとう』は、

 

『ごめんなさい』である。

 

 

「ライバル」が居て初めて。

 

「嫌いな人」が居て初めて、摩擦エネルギーが発生し、この世界を楽しめています。

 

ビバ、二項対立!

 

 

―断食2日目なので、意識がクリア過ぎて、 ブログなんぞ更新しちゃったみっちゃんより。

 

 

 

【二項対立】の概念がハっとワカってしまった人は、シェアしてね(^^)/

 

 

 

 

 

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