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(⇒昨日の続き⇒)


私がチョウチョの夢を見たのか、

チョウチョが見ている夢が私なのか、

誰にも証明することなんて出来ない。


昨日、荘子の『胡蝶の夢』についてお話ししました。

いま、何者かが見ている夢が、「あなた」なのかもしれません。


「あなた」が、どれほど、「この目の前の現実が、リアルだ!」とわめこうが、

ソレが夢じゃないと証明してあげる事が出来ないので、すいません。


さて、チョウチョが夢なのか人間が夢なのかについてですが、

パラレルワールドという観点から見ると、もっと面白くなります。


今、あなたは、「あなた」ですが、

一秒前、「あなた」じゃ無かった可能性もあります。

一秒前、「マイケルジャクソン」で、今、「あなた」を体験しているのかもしれません。



「あなた」は、言うでしょう。

記憶がある。

何よりもの証拠に、『記憶』があるんだ。

俺は、さっきまでも、俺だったと。


でも、昨日の荘子の話しを思い出して下さい。

荘子が、チョウチョの夢を見ていた時、

荘子には、「生まれながらにチョウチョだった」と思える記憶がありました。


同じように、荘子という人間には、

「生まれながらに人間だった」と思える記憶があります。



でも、チョウチョの夢から覚めた瞬間に、

記憶も含めて全てが夢だったと気付きました。


であれば、人間の夢から覚めた瞬間にだけ、

記憶も含めて全てが夢だったと気付けるのでしょう。


パラレルワールドには、無限の世界が、今、並行して用意されています。

そのどれを体験しても、「今」だけがリアルです。

その一秒前なんて、「記憶」という創造物なんだから。



実際、あなたがこの世界で習って来た「記憶」というものも、

あなたの脳みそに「メモリー電子ビット」としてあるだけです。


新しいパソコンに昔のハードディスクを入れたら、

新しいパソコンでも、昔のメモリーが見れるのと同じく、

あなたが、一秒前までマイケルジャクソンだったとしても、

いまの「あなた」にハードディスクを用意して入れてあげれば、

あなたは、

「私は、昔から私だった、ムーンウォークなんて出来ないぜ、パォ!」

と言うことでしょう。


ということは、「あなた」は、

一秒前にはチョウチョで、二秒前にはイルカで、

三秒前にはアヒルで、四秒前にはジュゴンで、

五秒前には、広末凉子だった可能性があります。



いま、あなたは、

『マジで恋する五秒前』という広末凉子の曲を知っていたから笑えた、

ホラ、私は80年代生まれなのよ!


と言うかもしれませんが、

それも、ただの、記憶というメモリーです。


要するに、胡蝶の夢が伝えるもう一つの側面は、

あなたが、先程まで、「あなた」であったことは

証明できませんということです。



あなたが、五秒前まで広末凉子だったとしても、

あなたは、いま、「あなた」をみていますので、

『わたしこそ、「わたし」だ、生まれながらに』、としか思えないのです。



だから、荘子はきっと、

「チョウチョが私だったのか、私がチョウチョだったのか」には、

まるで興味は無かったことでしょう。



何故なら、原理的に解明できないから。

いま、なにかを、「わたし」だと思い込んでいても、

一秒後に目覚めたら、それすらも夢だった事になるし。


だから荘子は、私がチョウなのか?なんてことよりも、

たった一つだけわかる事を楽しんで生きていたと思います。



「いま」が私だと。



どこまで行っても、永遠に、「ソイツがさらに目覚める可能性」があるなら、

どこまで行っても、永遠に、最後の夢を見ているヤツに辿り着かない事になります。

どこまで行っても、真の原因者に辿り着かない。

ということは、『どこまでも行ってはいけない』ということです。

どこにも行ってはいけない。

いま、ここを、ただ楽しむ。



ちょっと前にブログで言いましたね。

「わたし」とは偽者で、DVD鑑賞室に真のわたしが居ると。

ソイツが、ハッと目をさまして、「俺こそが私である」と言ったとしましょう。

でも、その真の私が、最後の目覚めであるなんて、誰が証明できるのでしょう?



ある覚者は言うかもしれません。

「真理を体感すると、圧倒的にリアルな世界だし、

物凄い至福感に包まれるから、間違いない。

DVD鑑賞室のソイツこそ、私だ」って。



でも、この現実世界がリアルにしか思えないのと同じ原理で、

DVD鑑賞室が最後だとは限りません。

その覚者が、まだ目覚めきれてないモノが無いとは言えません。


そこらへんを、完全覚醒者の上江洲先生は、明快に語っていました。

「全てを超えると、そこには、一点の波動すら無い」と。

いいですか、

「いま」をもっと細かく見つめると、

目の前に今起こってるソレは今ではありません。


なぜなら、目の前の現実が、あなたの目に届くまでに、

0.0001秒くらいかかるでしょう。


目の前の音があなたに届くまでに、0.1秒くらいかかるでしょ。


あなたが、「今」だと思ってる、その目の前にあるモノも全て、過去なんです。

あなたが今、「いま」と思っているソレは、今じゃ無い。

ソレは、過去と言うか、「記憶」と言うか、そんなモン。



だから、究極のイマ、唯一のリアル、

これ以上、目覚めるモノが居ない場所とは、

「完全なる無」、「完全なる今」の事です。


般若心経は言ってるでしょ?

目も無い、鼻も無い、見る人も無い、聞く人も無い。

「悟りなんて無い」、「悟らないも無い」って。

無い無い無い、何にも無い♪って。




究極の、イマには、完全に何も無いんです。

そして、真のわたしはそこに、完全なる無として、実在しています。





ということで、話しが物凄く長くなりましたが、

あなたが、一瞬前まで、「あなた」だったとは限りませんし、

あなたが、一瞬後に、「あなた」を見続けるとは限りません。


唯一言える事は、あなたは、いま、ここにいます。

そして、究極のいまには、何もありません。


↓何かと何かを比べた時に、「っは!こっちの方がリアル!」と思えます。

その「こっちのほうが」と思ったソレも、ソレより上で目覚めたら、フェイクです。

どこまでも大元を辿っても良いのですが、

どこまでも辿らない、どこにも行かないという方法が楽チンです。

そこには、完全なる無という真のわたしがいます。


↓今日は下の二つのボタンを押す際、

「マジで恋する5秒前なんて、シらないんですけどっ」と言いながらポチ↓ポチ↓

実はみつろうも、タイトルしか知らない歌です。

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