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※一度、最後まで通して全て読んだ後に、各補足リンクをお読みください。

■わたしとはわたし以外の全てである

先生、ここで少し話しを戻させて頂きます。僕はブログで、面白い実験をしました。読者に、「わたしとは、わたし以外の全てである」という視点で、わたし以外の全ての目として「わたし」を見てくださいと言いました。
人はある瞬間には一つのことしか考えられません。同時に二つを考えることは不可能です。そこで、ある瞬間について考察すると、何か特定の一つのモノを「わたし」だと思っています。例えば、肉体をわたしと思った瞬間があったとしましょう。そのトキ、宇宙を二つに分けると、「肉体」と「肉体以外の全て」に分類できます。
そして、「肉体こそわたしである」と思っているのですから、「肉体」を認識対象としているわけですね。じゃあ、認識主体(わたし)はどこにあるのかと言うと、「肉体以外の全て」になります。
何かを「わたし」だと思った瞬間、本当は「ソレ以外の全て」こそわたし(認識主体)なんです。だって、そのナニカは認識対象物なので。


「わたし」として見ればその通り。ただ、「わたし」と限定するとね、めくらになるの。
それを外さないといけないの。


そうですね、でこのカッコをはずすと、結局、わたしとは、全てになります。ある瞬間、何かをわたしだと思い込み、ソレを「 」でくくります。そうすると、まさに「わたし」が出来あがります。で、かっこをはずすと、全てになる。だから、この世界においては、「」をつけることで、「わたし」を生めるんです。カッコ(格好)つけなけりゃ、全てになります(笑)


■緑色は、緑色以外の全ての色から出来ている

で、この説明の補足として、太陽光についても書きました。太陽光には本来、全ての色の成分が入っています。そして、その光が葉っぱに当たった時に、特定の色を反射し、ソレ以外の全ての色を吸収します。だから、緑色に見えるモノがあるとしたら、その本質は、緑色以外の全てなんです。
僕ら人間には、葉っぱが緑色にしか見えませんが、葉っぱは本当は、緑色以外の全ての色で出来ているんです。緑色だけは吸収できなかったから、緑色に見えるだけ。
だから、「緑色は、緑色以外の全てである。」と言える。
補足リンク


先程の、「わたしとは、わたし以外の全てである」と同じですね。


そうなんです。
だから、「わたしとはわたし以外の全て」なんです。この世においては結局、特定の何かを「 」でくくり、分離させることで、「わたし」という現象が引き起こされます。認識するためには、「 」が必要なんです。他との分離が必要なんです。二元性が必要なんです。だって、一つなるものが、じぶんを「わたし」と思うことはできないはずです。思うためには、「思われるモノ」と「思うモノ」の二つが必要ですから。


■一つなるものは、分離以外の方法で何かを感じることは出来ない


そうですね。
ペンを固定すると、それ以外を失うしね、
「わたし」を固定すると、全てを失う。
で、今の話しで、さとうさんは太陽光と言うけどね、例えばね、今の科学では、ここで光を放ったとすると、ここから何キロ、何十キロ、何百キロ、何万キロ先に、「何秒で到達した」と言いますね。
しかしね、それは、科学で作った「光」という限定したものの話しであってね、さとうさんがね、「全てである」という状態ならばね、初めから、そこ(到着地点)に在るんですよ。。
ここまで何秒かかると、測る必要すらないんですよ。
だから、わたしは、「おかしいよ」というの。
なぜ、偏満して在るものならばね、なぜ、ソレに、「ここからここまで、何秒」と言えるのと。
初めから、在るもの、今もあるもの、未来永劫に在るものに、なぜ、「何秒」があるの、と。
生まれもしないし、死にもしないし、…(沈黙)… あるものなんですよ。


そうですよね。
先生、その、「在るもの」についてなんですが、まぁ、「一つなるもの」としましょう。
もちろん、絶対的にイチであるそれを「一つ」と呼ぶ必要も無いのですが、とりあえずこの世にいるので、「一つなるもの」としましょう。
で、この一つなるものは、一つであるが故、一つであることすら知らないのじゃないかと思うんです。
知るためには、「知るもの」と「知られるもの」が必要だから。
だから、僕たちは知るために、カッコつけて、「わたし」を生んだ
とすると、一つなるモノは、全ての中で一番シってない存在なのではないかと思う。何も見えないし、何も知らないし。
先生、一つなるものが、何かを感じることは出来るのですか?分離する以外の方法で。


分離以外の方法では、感じ得ない。


とうことは、真のわたしであるトキ、そこには何もない?


何もないです。


先生、この「何もない」のレベルなんですけど、
何もないものを、「何もないな」と認識している者もいないくらいの、何も無いですよね?


そうです。
だからね、この、無形無双の原因無き原因という境地を体験するとね、そこにはわずかな波動さえもないの。
で、ソコ(一つなるモノ)で、我々が、「何々をしたいよ」と思ったときにね、波動が生じるの。思考が最初の母なんですよ。


■「汝、ソレなり」

なるほど、究極の境地であるそこには、やはり何かを感じている者が居ないのですね。じゃあ、「何も無いな」と、感じている者すらいないのであれば、今の僕も、ソレと同じ状態ですね。「何も無いな」と感じていないので。
僕はもう、ソレそのものなんですよ。インドで言う、「汝、ソレなり」ですよね。
これは、絶対的な安心感に繋がります。だって、もう、僕は、それなんだから。
至福感を感じていないことを証拠に、ソレじゃないと言っているマスターたちに惑わされてはいけないと思うんです。どんな状態であれ、汝ソレなりです。誰かを目指してはいけません。「我、ソレなり」と気付くべきです。


そうですね、いつでも、何をしていようとも、ソレそのものです。
ただ、私が、それでも講演会という活動に立つ理由はね、理解する者からしたら、何をやっていたって、そのものですが、理解なき者に、そう言うとね、もうむちゃくちゃなことになる。だから、立つの。
言葉の世界に住む限りはね、言葉のお世話になるの。


そうですね、この現象世界に居る限りは、言葉は必要ですからね。昔、「何をしても良いですよ」と親鸞が説いたトキ、『本願ぼこり』という争乱が起きました。
でも、何でもしても良いと本当に思えたものは、何もしないんですけどね。だから、気付けてないだけですね。
先生が今言われた、『言葉の世界に住む限りは、言葉のお世話になる』、本当に良い「言葉」ですね。
補足リンク




しかし、言葉そのものがね、ソレそのものではないよとも、よく言うの。
あなたがたはね、言葉を「使う」べきなんだけど、言葉に使われて苦しんでいるのよと言うの。
感情という道具、五感という道具、思考という道具、肉体という道具、心という道具、それが主人を使っている。
だから、全部あなたがたは、逆転ですよと言っている。


悟り切ってしまえば、「思考」さえも、道具として使うことができるんですよね?


出来ます。
ソレそのもののトキ、姿かたち形態ではない、そこには、一点の波動すら動いていない。それが、何かを表現しようと思ったときに、波動が生まれる。波動がここに動いていればね、見えるし、聞こえるし、で、香るし、また指で触れたら感じられる。
でも、それを超えたところにはね、何も無いの。

 



■全てを見ている者は、たった一人

僕はこの目を通して何かを見ています。そして、見ている真のわたしは、DVD鑑賞室に居る。で、山田さんは山田さんの目を通して、何かを見ている。そしてソレを見ている人は、DVD鑑賞室にいる。
要するに、僕を通して見ている人も、山田さんを通して見ている人も、同じ人ですよね?たった、一人が、そこで何かを見ているのですよね?究極の場所にいる、真のわたしは一体ですね?


そうです。だからソレを私は、「一つにして多身(イツニシテタシン)」と表現している。
なぜならばね、この現象世界はね、やっぱり表現するために、さまざまに顕れていますよね?
実在ではないけども、やっぱり現れて表現しなければいけない世界ですよね?
花は美しさ、鉱物は親和力、動物は本性、人間は身口衣を通して、この神の大愛というものをね、示さねばならない。
このいつなるものがね、本来は波動すらも無い、何も無いものが、それそのものを表現するために、現れくる。
それを、「一つにして多身」と表現しているの。
元は一つ。ただ、顕れ方は違いますよとね。
本当は一つなのにね、顕れ方の違いで、我々はね、分離と見ているの。
まったく、同じモノなのにね。
でも、ほら、さとうさんとわたしでも、表現の仕方も違う。
だから、それを理解出来ない限りね、戦争は絶対に止まないよと言うの。
もちろん、そこに、一気には熟しないだろうけどね。でも、今の世の中は理解力がどんどん高まって来ている。私を追求しようとしている人間も、我々が始めた時代とは雲泥の差ですよ。


■悪い事さえも、悪いことではない

やはり、時代が本当に良いんですよね。もちろん、「良い」というのは、悪いこともいっぱい起こったから、いいんですよね。


そう。悪いことが起こった、その悪いことさえも、悪いことではないの。導くためになの。
「わたし」を探させるために、このようになっているの。世が安泰ならばね、探そうと思う人なんて居ないの。


■レントゲンが映せないモノさえも、見ることが出来る

先程のお話しにありました、「本当はたった一人しか居ない。」についてですが、ここは相対性の世の中です。
相対性の世の中には、座標が生まれます。高さがあって、横行きがあって、奥行きが…と。
で、個我を例えるなら、この何も無い世界に、スーット入った探知機です。
いま、この無の空間に、探知機を入れます。するとそこに座標が出来あがる訳です。
「いつの、どこの、どのたかさの、どの深さの、場所」というように。
先生の場所に探知機を入れると、上江洲先生という個我と視点が生まれるでしょう。
僕の場所に探知機を入れると、さとうみつろうという個我と視点が生まれます。
そして、その全ての探知機が感知した情報を見ている、真のわたしはたった一人です。
じゃあ、聞きます。
探知機が、他の探知機を見ることができるのですか?
「先生」が、「先生」として、「僕」という探知機になることは出来ますか?


瞑想が深まれば、その境地に到る。


ということは、先生は「上江洲先生」として「さとうみつろう」を経験していた記憶を、「上江洲先生」に持っていくことができる?
僕として、僕の視点を有したこの探知機の意識になれる?
探知機をすっと抜いて、その情報を、他の肉体に持ち込むことができるのですか、僕として、世界を見ることが。


出来る。
そして、肉体そのものを見ようと思えばね、レントゲンが映し得ないほどのものも見える。
毛細血管どころか、もっと前の、それを造るモノまで。
だって、私は、全てなんだからね。
毛細血管を作る前の、そのものを見れる。
で、また、肉体のどこにひずみがあるのか、そこまでも見える。

凄いですね、その能力で病気を癒していたんですね。
(※先生は沖縄に住まれていた時、訪れる人のガンや難病など、どんな病気でも一瞬で治していた。が、右の肺のガンを治した人が、数ヶ月経ったら、左にガンを作ってまたやって来る姿を見て、これでは意味が無いと、「病気の治療」は辞められたとのこと。それからは本物のヒーリングを追求し、現在のヒーリングがそれに当たる。)



私は、今生は小学校1年生から学校をさぼってね私の質問に答えられない先生に学ぶ必要があるのかと。私は、生まれながらに、私を追及していたからね。
この肉体を持って一番初めの記憶というならばね、「死んだらどうなるの?」だった。すると「死んで墓場へ行く」と大人は言った。
じゃあ墓場が終わりならね、何のためにこの肉体を持って生れて来たの?と。だから、この世の学校は必要無いとさぼりだしたの。
でも、もし学校の先生方が集まればね、私は世界一の授業ができるの。
でそれは、「わたし」ではなくて、全体なる私であるがゆえにね、即、そのものを見ようと思えばね、それがそこに在るの。
だから、私が、いまここに、肉体とする「わたし」であるならば、こんなことは絶対にできない。でも、これ(肉体)をわたしと思う前の、全体なるわたしを理解するから、こういう技が出来るの。


■分離の原因は誰にあるのか?真のわたしが真のバカ?

先生、「わたし」とは、認識出来る全てのモノではありません。肉体でも心でも感情でも、音でも光でも言葉でも無い。それなのに、認識出来るナニカと自己同一化して、コレを「わたし」であると錯覚する。
そしてこの自己同一化が、すべての過ちの元でもあります。
本来はこの現象世界の全てナニモノでもないのだから、この現象世界で何が起ころうが、関係無いはずですから。
『自己同一化』こそ、全ての苦しみの発端です。
では、この自己同一化している私というのは、どのわたしか。
僕が思うに、真のわたしだと思うのですが。


これ(真のわたし)、そのものです。
これが、個我なるものを表現するために、離れているんだけど、分離という錯覚をしているの。でも、本当は全てなんですよ。で、ここ(真のわたし)から、ここ(個我)に、表現するために「わたし」を作った。
で、これ(個我)を、私と錯覚しているもんだから、全ての苦しみはそこから始まる。


やっぱり。自己同一化しているのは、こいつ(真のわたし)なんですよね?


そうです。


じゃあ、こいつが、バカなんですよね?こいつが、「さとうみつろう」は私だと、自己同一化していますよね?
「わたし」は、自己同一化された後のものなんです。「上江洲である」とか、「さとうである」とかは。だからやっぱ、アイツが真のバカなんですね~。


(先生ちょっと苦笑い。
それもそのはず、今目の前に居る人は、真のわたしそのものなのだ。
それをバカと言いまくってしまった…。)


真のわたしが、真のバカなんですが、僕は、これ(個我)としてしか生きていません。僕はこの、真のわたしと個我との間のパイプが詰まっているので。
だから、ただのDVDの役者であるさとうを、「わたし」だと勝手に思い込んじゃったのはアイツであって、DVDの中に居る僕が、どうあがこうが、どう理論づけようが、どうしようもない。
要するに、自己同一化しているアイツが目を覚ましてくれない限り、こっちにはどうしようもない。


そうです、これはやまないの。


じゃあ、僕がどれほどココでもがこうが、アイツから恩寵を与えてくれない限り、どうしようもないんですよね?


その恩寵を得るために、瞑想をしているの。


それはわかるんですが、この個我がいくら頑張ったところで、何一つとして意味は無いのでは?だって、先程の話しの通り、個我の行いが、アイツに影響を与えることは出来ないんですから、DVDの中のマシンガンは、アイツには当たらない。だから、ここで何をもがこうが、アイツが目を覚まさない限り、自己同一化は解除されない。
「さとう」がバカなんではなくて、アイツが勝手に「わたしはさとうだ」と思っているだけであって、アイツが「もう良いよ」と、「もう帰っておいで」と言わない限り、どうしようもない。
それでもって、個我のこの世界には時間や空間があります。一つなるものには時間も空間も無い。分離して初めて、ここからあそことして距離と空間ができるから。
すると、この相対性の世界の僕からしたら、「平成24年12月22日に悟りますよ」と向こうで決まっているのであれば、僕は何を努力する必要があるのかと?


■アガスティアの葉を見ることも決まっている

そうなんです。
ただ、ここを上手く説明していかないと、大変なことになります。
二十数年前に、沖縄にこういう女性がいた。
彼女は、私の講演会にも何度も足を運んで、真剣にわたしが知りたくて、遂にインドのサイババに会いに行った。
そこまでは良かった。
でも、インドで時間が余ったからと言って、アガスティアの葉を見に行った。
私はね、このアガスティアの葉という存在は知らないんですが、
そこには、全てが書いてある。
いつ生まれて、いつ何が起こって、いつ死んでいくのか。
で、その女性は、その葉に、あなたは今生は悟れない。来世に男としてインドに生まれ、坊さんになり悟ると書いてあった。
すると、この女性はね、全てを捨ててしまった。
だから、私も説明には気をつけている。
でも、どんなにもがいたって、操ってるのが、ここ(真のわたし)ならばね、本当どうしようもないもの。


ただ、「個我が何をしようと、向こうからの影響しか無いのだから」と言って、全てを辞めるのはおかしいですね。何故なら、「全てを辞める」だろうが「いや、やっぱり頑張る!」だろうが、そのどちらを選択するのかすらも決まっているのだから。
だから、その人は「もうどうしようもない」と本当に気付けた人では無いわけです。まだ、どうにかできると思っている人こそ、「諦める(フリ)」に打って出るわけで、まだ巧妙なエゴの集中にあります。
なにより、僕らは個我として、「選択できないような雰囲気」を感じたことは無いはずです。「右に行くか左に行くかを選べる」と思って生きていますから。それが「右に行く」と決められていたとは思えないほど、リアルに出来たこの世に、自由意思があると思い込めているのだから。
だから、僕であれば、その女性に、こう言います。
「努力を辞めるも、やっぱ頑張るも、結局決まっているんですけどっ、何をまだ選択出来る気になっているのですか?それでもまだ、アガスティアの葉を超えている雰囲気になっているんですね~。」って。


■30年もの間眠らない、食べない

そう、だから、一人ひとりの意識のレベルを見てね、その人に会った説明を加えていかなければいけないの。
例えば私は、飲まない、食べない、寝ないが悟りだとは言っていないよ。
ただ、私が、たまに何カ月も食べない時期があるのはね、あなたがたは、このように、「朝に昼に晩に食べなければ生きられない」という概念を、ただの概念だけを捨てなさいという思いで説いている。
この概念を捨てなさいという思いで説いている。見せている。
でも、誤解するものは、すぐに、「30年も食べない者が居る、30年も寝ない者が居る」と言い出す。
だから、説明は大切。


そうですよね。だって、ここ(個我)で、何をしても向こうには影響が無いのであれば、肉を食べても、何を食べても良いはずですね。


えぇ、私は、肉も食べますよ。
ただ、この現象の世界で、どんなに嵐が吹き荒れようが、戦争になろうが、ここ(真のわたし)には影響は無いよと言っている。


真のわたしには、この世界からの影響は無い。とすると、今既に悟っていると言えば、悟っている。悟っていないと言えば、悟っていない。ただ単に、仏陀という意識をこの肉体へ持ちこめていないだけである。そう安心した方が良いのかもしれませんね。


えぇ。それでいいですね。


■右手が私なのか、左手が私なのか


だから、本当は簡単な話しであるはずなんです。僕は真のわたしであるし、他の人も真のわたしである。ただ、この座標に居る限り、この座標の視点しか認識できないだけであって、もう、ソレそのものなのだから。いつでも、どこでも、どれでも、もうソレそのもの以外の状態はあり得ないのだから。神の手のひらからこぼれることは不可能だから。
ただ、記憶が無いだけ。
ちなみに、先生は個我のまま、全体を認識することはできるのですか?


肉体を持っていながらも、全てと一体なんだと感じることは出来る。
しかし、今の人間のように、わたしは「さとうだ」と思っている限りは出来ない。


そうですよね、どうしても、「さとうだ」を限界範囲に据えますね。まぁ、それもおかしな話しなんですけどね。どうして、「さとう」が上限なのか?と。
だって、僕がいま、右手と左手をこう、スリスリしたトキ、右手が感じさせるモノなのか、左手が感じるモノなのか、二元的には見れない。僕は右手でもあるし、左手でもある、「さとうである」となるのだから。右手も左手も僕なのだから。
同じように、その意識レベルを肉体から一段階上げれば、僕を叩いた山田さんと、山田さんに叩かれた僕を、両方「わたしである」と感じられる、意識があるはずですしね。
でも、僕たちはなぜか、この肉体の壁を突破できない。
もう一段階、上へ意識を上げる事が出来ない。


えぇ、本当は、さらに上の段階で意識できるはずですね。だから、先程言った通り、「いつにして多身」と言っている。山田さんもさとうさんも多身の一部で、元は一つ。
インドのサイババはこれを、神の化身と説いた。


だから意識というのは、「どうくくるか」なんですよね。
それぞれのレベルに、その意識がある。上だけでは無く、下にも意識はある。僕は、肉体の一部である、「右手」の意識にはなれないんですが、先生は、地球であるという意識にもなれるし、指であるという意識までも行けるはずです。大きくどこまでも行けるのであれば、小さくどこまでも行ける。
最近の若い人は、この肉体を超えた意識を、ハイヤーセルフと呼んでいます。
そして、それと繋がっている人はもう結構沢山います。まぁ古くで言えば、幽体離脱に近いのかもしれません。
でも、どうして僕たちは、この肉体を限定して意識するのでしょうか。
いま、この部屋には5人のひとが居ますが、先生は、このグループ意識にもなれるんですか?5人のいう集合意識に。


なれる。上にも下にもなれる。細胞の意識にもなれる。ただ、どこに(意識を)合わせるかだけ。本来は全てが一つに根源しているのだから。だからこそ、遍満する意識そのもの、言い換えれば光そのものといってもいいそれをね、遍満しているのにね、「それ」と限定するのはおかしい。
遍満するならばね、初めからそこに在ったんじゃないのと言いたいの。

(⇒明日へ続く⇒)

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