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※一度、最後まで通して全て読んだ後に、各補足リンクをお読みください。



■プロローグ~真我とエゴが出会ったら~

本日は、大変お忙しい中、このような機会を作っていただきありがとうございます。
僕は最近ブログで、「わたしとは誰なのか?」について書かせて頂き、その中で上江洲先生の存在を知りました。


こちらこそ、ありがとうございます。
私の目的はね、ただ一つです。
ひとりびとりがね、「わたし」というものを探し切れれば、(世界は)平和なんですよ。
いつも私は、「自分とは何者なのかを自分自身が見出した時」には、争いなんか起こらないと説いている。
自分が自分を知らないもんだから、みんな争っている。で、傷つけあっている、戦争がある。だから、わたしが、「わたし」を見つけた時、真の平和がこの現象世界に訪れ来る。
「わたし」と「あなた」がいる、「あなた」と「わたし」とは違うと無知という分離で生きている限り、平和なんてあり得ない。
そのために私は、朝に昼に晩に、365日、全世界を説いて回っている。
だから、さとうさんが言われた、「わたしとは誰なのか?」、これは大切なことです。


先生、今日は目の前に最強のエゴが来ていると思ってください。トコトン、聞きまくります。そして、「与えるものが受け取るもの」という宇宙の法則を、自分を通して生きるために、今日の対談では、僕からも先生に何かを与えることが出来ればなと思っています。


素晴らしい、その通りです。
私が、あの会場で、即さとうさんとの対談を引き受けたのは、あなたの肉体から溢れ出る、引き付ける波動、そして、礼儀正しさがあったからです。


(割り込むように)
礼儀正しいと言って頂いてる中、こんな恰好で来てしまって、本当にすいません。
海パンにビーチサンダル、Tシャツなんて、どう見ても泳ぎに来た者にしか見えないはずです。(会場、笑い)ラフで自由な格好をモットーにしてまして。


良いんですよ。
私も、講演会にスーツで来ている人から「先生、先生」と呼ばれるけど、ジーンズ姿です。気にしないでください。


ありがとうございます。
さて先生、言うなれば僕は今日この日を、一億年前から楽しみにしてきました。
僕は「知への渇き」が非常に大きく、「知りたい、知りたい」で生きてきました。
上江洲先生という存在との出合いを、この今生に宿っている魂は、幾転生も前からずっと待ちわびていたことでしょう。


「知りたい、知りたい」という渇望、わたしは、2歳からそうでしたよ。



2才とは早いですね。今、ブログを書いていて感じるのは、圧倒的に良い時代に居るということです。
果たしてこれが、10年前に、「わたしを探そう」なんて、誰が着いて来たでしょうか。全てが良かったんだと思います。
戦争があったのもよかった。そのあとに平和があったのものよかった。
飢えがあった後に、満たされ過ぎたのも良かったでしょう。
今日この時代に及ぶまでの道筋に、何一つとして、無駄はなかった。


そうですね。それを、聖人が説いた言葉にすればね、
「悩める者よ、苦しきものよ、幸いなり」と言います。



今日は、
1わたしとは誰なのか
2悟りについて
3悟りへ導く有効な手法について
4現象世界の仕組みと引き寄せの法則について
5自由意思と決定論について
6アセンションと2012年について
7超能力や宇宙人について
8パラレルワールドについて
9読者からの疑問
この順序に沿って、お話しを伺わせて頂きます。
じゃあ、まずは「わたし探し」について、僕たちがどのようにアプローチしてきたのかお話します。





■「わたし」とは世界で一番不思議な現象である

そもそも、「わたし」とは、どういうトキに起こるのか。
花を見た時、そこには、花(見られるモノ)と「わたし」(見るモノ)が顕れます。
同じように、音を聞いたら「聞かれるモノ」と「聞くモノ」、匂いを嗅いだら「嗅がれるモノ」と「嗅ぐモノ」、何かを考えたら「考えられるモノ」と「考えるモノ」、何かを感じたら「感じられるモノ」と「感じるモノ」のように、認識が起こる場所には全て、主体と客体が発生します。
で、僕たちはこの主体側を「わたし」だと思い込んで生きています。


二元の世界ではそうなりますね。主体と客体の分離。本当は全ては一元ですが、この現象の世界では、そう見えます。


えぇ。「わたし」が発生する場所には、宇宙のどこであっても、「主体」と「客体」が存在します。これは、絶対的な原理・前提となります。「わたし」が起こる場所には、絶対に例外無く、「認識主体」と「認識対象」の二元が発生しています。そして、見る側・嗅ぐ側・考える側・感じる側を、要するに認識主体をこちら側とし、「わたし」と名付けているんです。
だから結局、「わたし」とは、認識するモノであると言えます。


えぇ、認識するモノが「わたし」である。二元の世界ではね。こちら側を「わたし」として生きていますね。


さてここで、先程から「わたし」を探しているのですが、探すという行為においては、「探されるモノ」と「探すモノ」が発生します。ボールを探していたのなら、「探されるモノ(ボール)」と「探すモノ(わたし)」と、両者を簡単に定義できますね。
でも、いま探しているモノが、いかんせん、「わたし」と来ている。
「わたし」は絶対にいつでも、認識主体側ですので、「わたし(認識主体)」が「(認識対象として)わたし」を探すことは、原理的に不可能です。絶対にこちら側にあるはずの「わたし」を、あちら側には持っていけない。
仮に、「わたしを見つけたぞ!」とナニカを発見した時、「見つけたぞ!」と言っているソレをまだ発見できていません。じゃあ、ソイツをさらに「見つけたぞ!」と発見したとしても、そこにもまた、「見つけたぞ!」と言った「わたし」が発生することになる。


永遠に、「わたし」が「わたし」を発見できませんね。


そうなんです。「わたし」に「わたし」を探し出すことは、原理的に不可能なんです。「ついに探し出したぞ!」と思った場所に、「ついに探し出したぞと思っているわたし」が発生しちゃいますから。
永遠に見つけることが出来ないモノ、要するに存在を実証出来ないモノのことを、科学では、「存在しない」と言います。
だから先生、科学的にどのように検証しても、「わたし」なんて、絶対に説明できないし、存在して居ないはずなんです。
それなのに、僕たちは普段、「わたし」をビンビンに感じて生きている。
「わたし」こそ、この宇宙で一番不思議な現象であると言われているゆえんです。






■認識出来るモノは全て、絶対にわたしでは無い


そもそも、「わたしは○○である」という定義自体、破綻しています。
【わたし】が、【○○】でないからこそ、【わたし】は【○○】を認識出来るのですから。
「わたしは、さとうである」と言ったとしましょう。
そんなバカな。
「わたし」が、「さとう」じゃないからこそ、「わたし」は、「さとう」を認識できる。「わたし」が「さとう」ならば、「わたしは、さとうである」なんて思えるわけが無い。
ということは、「さとう」や「肉体」などの認識出来るモノ(対象物)は、全て、絶対に「わたし」では無いんです。それを認識する側に「わたし」が発生するのですから。認識出来るモノは、絶対に「わたし」ではありません。
さて、先生、【認識出来るモノ】とは、この世の全てのことです。
花は見えるし、音は聞こえるし、匂いは嗅げるし、物体は触れるし、概念は説明できる。この世に在るモノは全て、何らかの方法で認識出来ます。
ということは、この世にある全てが「わたし」じゃ無いことになる。
要するに、「わたし」とは、見えないし、嗅げないし、聞こえないし、触れれないし、説明できないし、思えないし、感じられないことになります。


それらの全てを認識する側を「わたし」としているのだからね。


これは、大変な事実ですよ先生。
見えない、聞こえない、嗅げないならまだ良いのですが、説明出来ないし、感じられないと来ている。「わたし」は言葉に出来ない事になる。言葉にする事、又は説明するという行為は、ナニカを認識対象物にする行為ですから。
頭の中で、赤くてぼんやりしてフニャフニャなモノを想像したとしましょう。それを、「赤い」と言うことは、頭の中にあったそれを、【認識対象物にした】という事になります。要するに言葉にすることで、対象化出来るんです。
ソレに名前を付けた時点で、ソレは「対象物」になります。

老子が、「無の名は天地の始まり」と言っています。無に名前を付けてしまった時点で、この世が出来あがる(分離する)んです。
こうして「わたし」は言葉にしてもいけない存在になっちゃいました。


それは、本来は、語れるものでは無いんですよね。ただ我々は、どうしてもそれを伝えなければならないからね、方便としてね、それを説明したりはするけど、本来は、言葉になんて出来ませんよ。



■わたしが居る場所は、この世とは次元が違う

それでも「わたし」を感じているからには、どこかにソレが居るはずです。だって、認識主体が居ない限り、「認識する」という現象は起こりません。だから、絶対に、どこかに、「真のわたし」は居る。
で、僕たちは、ソレが居る場所を、『DVD鑑賞室』と例えました。
この世とは、【既に撮られたDVD】です。そして、真のわたしはソレを、DVD鑑賞室で見ている。

既に撮られたDVD】の役者が、DVDの撮影中に、「完成したDVDを画面の外で見る人は誰だろう?」と思っても、当てようがない。それでも、DVDを見ている人は、画面の中の人を見ることが出来る。
要するに、一方的に見つめる事が出来る次元の存在を比喩してみたんです。


この現象世界で起こることが、テレビの外には、絶対に影響を及ぼしませんね。


えぇ、双方向性じゃない、一方的な次元をDVDで表現したんです。で、真のわたしはそこで、この【既に撮られたDVDを】見ています。鑑賞室では、無数のタイトルのDVDを見ることが出来ます。そしてDVDを見ていると、そのうち、DVDの主人公が、自分じゃないかと錯覚し始めます。いわゆる、『自己同一化』ですね。
僕たちも普段DVDを見ていて、「このDVDの木村拓哉は、私じゃないか」と自己同一化しちゃうことがあります。キムタクがフラレタら、悲しくなるし、キムタクがモテだしたら、何故か浮かれます。
でも、本来、そのDVDの内容と、私にはまったく関係性は無いはずです。鏡を見ればすぐにわかる。どう頑張ってみても、その顔はキムタクでは無い。
それなのに、【既に撮られたDVD】の内容に、自己同一化してしまう。
僕はキムタクである、と。


どうしてもね、この現象世界においては、何かを自分である。と思い込みますね。錯覚しちゃう。先程言われた、「わたしはなになにである」とね。


■見えたら、聞こえたら、説明出来たら、嘘である

でも、DVDの中のマシンガンの弾が、画面を突き抜けて、鑑賞室に居た人を打ち抜いた事例はこれまで一例もありません。それは、「原理的にあり得ない事象」なんです。どれだけ、鑑賞室でDVDの内容に怯えようが、そのDVDと「真のわたし」には関連性は無い。
で、「真のわたし」は認識出来る全てのモノでは絶対に無いと先程結論付けましたね。「わたし」は絶対にこの世には探せないですよ、と。
だから、本当はこの世で起こる全ての現象と、「わたし」には何の関連も無いはずです。
それなのに、僕たちはこの世のモノに怯えるし、この世で起こることに一喜一憂するし、この世にあるナニカかを自分だと思い込んでしまいます。
絶対にあり得ないんです。この世のモノが、見えるモノが、聞こえるモノが、触れるモノが、説明できるモノが、名前のあるモノが、「真のわたし」であるはずがないんです。


この現象の世界は、結果の世界です。結果とは、虚像とも言えますからね。


だから、見えたら嘘である。聞こえたら嘘である。誰かが説明したとしたら、それはなんです。目・耳・手・舌・鼻などの五感には、真のわたしは絶対にひっかかりません。反応を返さないんです。

反応を返すということは、認識対象物ですよということになるから。だから、「真のわたし」は絶対に検出反応を示しません。だけど、絶対に居る。
そこで、僕は、こう言いました。
「目に見えない存在を、どれほど全力で信じることが出来るかが全てである」と。
だって、「真のわたし」が居ることは間違いない。認識が起こっているのだから。居るけど、絶対に居る証拠(検出反応)を示さない存在が、「真のわたし」となります。


そうですね、だから私は講演で「それ、そのものである」とよく言いますね。


そのものと一体であることを、シるということですね。それは認識する方法が「信心」という手法に変わっただけなんです。「見る」と一緒です。ただ、「見る」とは違って、「見える」などの証拠は絶対に返さないけど、そこにそれを全力で信じる。心で信じる。それが、「信心」です。
最近の科学も、それを解明しつつあります。この宇宙にある物質は、たったの3%で、残りの97%は、ダークマターやダークエネルギーとして、一切の検出反応を示しません。
要するに、「あるだろう」としか言えない。何度計算してみても、絶対に捉える事が出来ない異次元のモノが97%存在している。
さぁ、ここで、先端の科学も、おばあちゃんの言い伝えも、同一の答えに帰結しました。
「目には見えないけど、そこに確実にあるものを、信じましょう。」って。


素晴らしい。


いや、素晴らしいというか、僕が初めて先生を知ったのはネットで先生の光話「この世は無常」というお話しを読んだ時です。その中で先生はこうおっしゃってます。
『偽物は皆さんの目に映し見ることもできる。しかし本物は見ることはできない。仮想世界(この世)は見ることもできる、実相世界(真のわたし)は見ることができない。ゆえに人間は、見えるから信じられる、見えないものは信じられない、見えるから在るんだ、見えないものは無いと言う。そのように錯覚をしているがゆえに、私はこういう表現をします。
本物は偽物のように見え、偽物が本物のように見える、この現象の世界で悟りいこうとすることの難しさ。だからこそ明想をとおして、見えないものを見よと、見えないものが真実だよと、常にそう説きます。見えているものなんて、常に常に在るものではありません。
この世は無常なり。この世は無常世界。』と。
僕はこのお話しを通して、先生を知りました。


ありがとうございます。


■真のわたしへの「理解」に意味はあるのか

ということで、「真のわたし」この世の全てから一切の干渉を受けないはずです。次元が違うんです。だから、聖人はこう言います。

何を怯えているんだ?誰が真のあなたを傷つけることが出来る?安心しなさい。目を覚ましさい」と。
でも先生、僕たちはこの事実を絶対的な安心感に繋げることが難しいんです。
どうやれば、「真のわたし」として全ての恐怖という闇を払拭出来るでしょうか?


例えば、みつろうさんのブログの読者に、「瞑想している私」や、「仕事している私」を、ここらへんの上の方から目撃した人はいますか?



います。
自分自身を、観賞できた人は何名もいます。


そういう状態ならばね、そういう人ならばね、理解しやすいと思うの。なぜならば、ブログでは言葉のみでしか相手は吸収できません。
でもその人が、「働いている自分」や「瞑想している自分」上の方から目撃できたのなら、
この肉我を見つめる存在として、これ(肉体)を、見つめることができたのなら、理解しやすい。
これ(先生は肉体を指差して)はね、私でも、叩かれれば痛いですよ。切りつけられたら、血も出ますよ。この肉体という科学で説明できるもので立ち上がっている限りね。
でも、真のわたしとして、「わたし」を目撃できたならばね、まぁ私はそれを、「無形無双・原因無き原因」と呼んだりするけどね、どうしてもソレをこの世で説明するためには、そこに何か名前を置かなければ言えないものだからね。様々な例えや方便で名前を置いてね。
で、瞑想をゆっくり深めていって、真のわたしとして、「働いているわたし」や「瞑想しているわたし」を目撃した者は、体験として、さとうさんの説明がよく分るでしょう。
そして、それを目撃した人は全員が絶対に言いますよ。
私は肉体ではなかった。
私は心でもなかった。
感情や五感やね、理性さえでも無かったってね。
で、ここで上から見ている、ソレのことをね、「色でもない、香りでもない、音色でもない。」と、そういう風に、わたしは、説明を加えていくけどね、今の若い人は、みつろうさんのような科学などを加えた角度からの説き方の方が、理解に到達しやすいと思いますね。
そして、ここから、何に導くかというとね、後はね、明想という手段の中に入れば、それだけ理解力を持っている人は、入りやすいんですよ、明想の中に。


「理解力を持っている人は入り易い」と今おっしゃってましたが、理解はこの世に起こっていることであって、理解が深いから「真のわたし」に近づいているわけではないと僕は認識しているのですが…。近づいていることになるのですか?


なります。
なぜならばね、「わかっている」ということはね、「そのものである」という状態なの。
「そのものである」ことを、わたしはね、「しっている」「理解している」と言っている。
コアの中で、もうそのものである。その状態にあるということなのだから。



理解している、その瞬間はということですか?


そう。で、それを維持し切れればね、OKなの。で、そのためにはどうすればいいかというと、やはり明想の積み重ねなんですよ。
もう、どうしても、もうここまで完璧な状態で説いて教えてね、そこに至ったとする。
そこから上はというならばね、やっぱり、お釈迦さまや、イエスや、もうその状態で、そのもの。
言葉で語る限りは、言葉ではないし。
文字や色じゃなければ、音色でも香りでも無いですからね。
もう、そこで言えるのはね、「語れないもの、説き得ざるもの、悟るしかないよ」と言うのは、自分で「あぁ、そうであった」と知り、理解し、で、そのもので在ること。最初はそれしかない。
ただ、そこまで導いて欲しいと言うから、私は、あの手この手で導いている。
結局、言葉で説明しても意味ないというものを、ほんとに、そのものであるのなら、語りたがらないです。


■ソレを言葉にする意味

そうですね。インドにラマナマハルシという聖人がいて、「沈黙の聖人」と呼ばれていました。言葉よりも、沈黙の方が語ると。老子も言っている通り、ソレに名を付けたら、天地(この世)が始まってしまう。だから、沈黙は語る。沈黙のまま、マハルシの目を見るだけで、弟子たちは至福感を受けたそうです。


えぇ、本当は、私もそうしたいの。
その聖人たちはね、ココ(真我)をシってるんですよね。もう、ココなんですよ。
だから、ほんとは私もしゃべりたくない。


さっきからずっと話しまくっていて、沈黙から一番遠いこの僕の、この活動(ブログ)には、意味があるんですかね?(笑)


今の世の中ね、大事なことですよ。私がスタートした時は、セミナー会場に、4~5名さえいれば、多いほうだった。
しかし、今となるとね、やっぱり、みつろうさんが言われるように、「わたしを知りたい」「悟りたい」という時代に来たということは、はっきり見える。
今では、世界中から求める者がいる。
しかし、言葉ではないものを、でまた、色や、香りや、音色や、姿かたちでも、心でも、感情でも、五感でも無い、全てを超えたものですからね。
それを、どのようにして説明するかってことでね、色々な角度から、色々な方法でやっていますよ。
でも本当は、なぜこの無常世界がね、どうして語れるのと?


もちろん、僕は、僕がやっている行動を「無駄」だとは思いたくないし、実際、無駄では無い。何故なら起こったことは全て、神の計画へと帰って行くとシっているので。僕が、自我で、「無駄だとは思いたくない」と思っていることも、大きな力の中にあると思っています。


そうです、無駄なことなんて無いです。
全てを用意しているのは、ココ(頭の後ろを指さす)のものであって、無常の世界のものが為すすべは何もないですよ。


全ては他力の中に用意されている。僕がいくら、自力でやったんだぞと思ったところで、それは他力の中の一つの現象。人の目の前に神さまが用意した全ての現象の中から、何故だか「これは自分が為した」と誤解してしまう部分を、「自力」と呼びます。だからこれらの活動も、どうあがいても、全てのプログラムからは逸脱できない。よって、全ては神の計画に帰すと表現しています。
補足リンク



その通り。例えばね、今起こっている、天変地異、戦争、それそのものでね、絶対に、絶対に、この本質から離れてのことではありませんよ。すべて、この(真なるわたし)中ですよ。
ただ、この肉体を、この道具をね、どのように使い活かしているかというだけであってね、どんなに戦争や人殺しであろうと、じゃあ、それはそこから離れたところでやってるのか?ではなく、全て、この中で起こっている



■全ては一つだから、気付く以外に方法は無い



全ては、一つの中で起こっている。ということは、いま、全ては一つである。
だから僕はよく、「明日金持ちになる」は不可能ですよと言っています。「なる」というのは、一つなるものの中ではできませんよと言っている。
「なる」というのは、これであるものと、これでないものが必要となる。
だから、一つなるものしかないのであれば、「キヅク」ことしかできない。
「わたしは戦争である」「わたしは金持ちである」と気付くことしかできない。
何かになるためには、二つが必要ですからね。
補足リンク



えぇ。「なりたい」「なろう」または祈るのもね、それらは全て、相対するものを見ているからの「なろう」であり、「健康になろう」もね、「病気」という相手を認めているからこそ、「なろう」であってね、絶対にあり得ないと私は言うの。
だから、第一番に理解すべきことはね、「一つであること」。
だからわたしはよくね、光話で中国の「一元」というお金の話をするんですよ。一元は、「元は、一つ」と書きますよね?「私は一元が好きだよ」と言って中国の人たちを笑わすの。
で、自分のテーブルにも一元を飾ってあるの。
本当は一元なんですよ。
だから、絶対に、あいたいするモノを見ている限りはね、あり得ない。
「ひとつ、そのものである、」なんですよ。
この、コレ(あたまの後ろのあたりをグルグル指さす)ね。
コレは、また、「見えるもの」でも無いですよ、わたしが言ってることはね。


じゃあやはり、僕の行動もある程度正しいのでしょう。今の時代が要請しているとすら思う。数年前にこんなことをやっても、誰も興味なかったことでしょう。
震災前に「わたしとは、認識出来る全てのモノでは無い」なんて言っても、誰も見向きもしなかったことでしょう。
全ては、計画通りだったであろうし、そこから外れることはできません。何一つ、要らないものは無かった。



当然です。要らない計画なんてない。
もし、あるのなら、「あなたは、神さまよりも偉いんだね」と僕は言います。
神が思っていないことをやれるのであればね、もう、あなたがたは、神さまよりも偉いんだねと私はよく言っている。
全ての全てがね、それこそ針先一点のことすらね、ソレ(神)が知りえない予測があると言うなら、もう我々は、ソレ(神)を求める必要なんてないですよ。
補足リンク


(⇒明日に続きます)




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