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昨日、禅の公案について書きました。

隻手の拍手する音、聞こえましたか?


ここで、残念なお知らせがあります。

皆さんには、公案は効きません。


デラックス「はぁ??!!!


じゃあ、なんで、わざわざ公案なんかさせやがったんだ!


こっちゃ、暇じゃねーんだよ!」








さて、そもそも、禅とはなんざんしょ?

2000年くらい前に、インドでゴータマさんという人が大きな木の下で悟りました。

このゴータマさんの悟った方法を、研究しようと弟子たちが集まって来ました。



ゴータマさんは、弟子たちにブッダと呼ばれるようになりました。




ところが、ゴータマさんが、食中毒で死んじゃったので、

弟子たちは、ゴータマさんが生きていたころに話していた内容を思い出し、

その教えを研究し始めました。

仏教の始まりです。



ゴータマさんが死んだ後に、

あーでもない、こーでもないと、生前の教えを振り返ったので、

もちろん、意見が衝突します。


弟子A
「師匠は、AKBの番組ならTVを見ても良いと言っていたはずだ!」

弟子B
「いいや師匠は、モーニング娘。までがOKと言っていたはずだ!





マジでこのくらいのレベルのささいな行き違いで、

仏教は複数の宗派に分かれます。



禅は、その中の、大乗仏教という宗派の流れを汲みます。


ブッダから数えること28代目の弟子に当たる、達磨(ダルマ)さんが、

インドから中国に渡り、禅を開いたとされています。


最初に言った通り、宗教とは、「悟り」を開いた師匠の所に、

「あんたの悟った方法を教えてくれー」と人間が集まると生まれます。


だから師匠から見ると、悟りを弟子に体験させてあげることが目的でしょう。


禅は、その目的第一主義です。

「とにかく、悟りを伝授したい!」

いや、むしろ、

「悟りさえ受け継がせることが出来れば、他のことはどうでも良い。」



こうして、禅は、「悟りの伝授」のみに照準を合わせたので、

なかなか独特な手法を取る訳です。




例えば、座禅(ザ・ZEN)。

一心不乱に、座り続け、沈黙のその先を目指せと、弟子は伝えられます。

必死に座り、弟子がシーンと静まり返ったころ、和尚さんが、

「かーっつ!!!」と木の棒でぶったたいてきます。


弟子
「はぁ??

いま、確実に、無に入れた瞬間だったのに!!

お前が沈黙せいと言っときながら、お前が一番うるさいわい!!

ぜんっぜん、理解できん!!」



もちろんです。

和尚さんは、とにかく、弟子の、「理解」を超えようとします。



急に猫を日本刀で切りつける、和尚さん。

スリッパを頭に載せて歩きだす和尚さん。



何もかもが、理解のその先を目指しています。

思考や理論を超えるのです



弟子に、「とにかく思考を止めろ!」と言うと、

弟子は、「どうやれば思考を止めれるかな」と思考します。


思考するという癖がある僕たち凡人は、

思考以外の方法で物事をシることが出来るとは思えません。



だから、和尚さんは、その全てを超えて行くために、奇抜な行動に出ます。


昨日お伝えした、公案もその一つです。

ただ、みなさんがインターネットで公案を探し出しても、

その公案には、もう意味がありません。



なぜなら、皆さんは、「公案」というモノを、

思考で理解してしまったからです。

「公案とは理解を飛び越えるための問題でしょ」って。

もう、ハナからそう思考で決め付けた後に取り組む公案に、

なんの効果もありません。


だから、公案は、初めての人にしか効かないんです。

「公案とは、こういうものである」という事前アナウンス無しに、

いきなり公案を出し、

「この問題を、真剣に考え抜くぞ」となる人にしか、効果はありません。




理解してはいけないんです。




こう言われるとあなたは、

「理解してはいけないんだな」という理解をすることでしょう。



違うんです。


理解しては、いけないんです。



「そうか、公案とは、一度目しか効かないんだな。」

とあなたが理解したなら、

それさえも超えた場所に真理は移り変わりますので、

二度目でも公案が効き出すかも知れません。



人間は、傲慢です。

「自分は理解したぞ」と思いたがります。

でも、たった数十年しか生きていない人間が理解できるものなんて、

この宇宙のどこにもあるはずがありません。



それでも、人間は、目の前のソレを、自分の思考で理解しようとします。

そして、「理解出来た」と勘違いして生きています。


全てのソレを超えたところにしか、「悟り」が無いのだから、

和尚さんたちは、大変な苦労をされた事でしょう。




でも、その甲斐あって、悟りを確実に受け継いできたのは、のみです。

ブッダの弟子に悟りを開いた者は居ませんでした。

キリストの弟子にも居ませんでした。

それなのに、禅では、師匠から弟子に確実に「悟り」が受け継がれています


悟りの伝授がそもそもの宗教の目的なので、

世界で一番、宗教としての役割を果たしているのは禅なのでしょう。

禅こそ、ザ宗教なのでしょう。




とうことで、どこかの禅寺のマワシものかと思えば、

みつろうが禅のことをシったのは、つい先週で、

アップルのジョブズ氏が禅に傾倒していたとの情報をキャッチし、

「俺も禅を極めれば、億万長者になれるんじゃねーか」

と、これまた、「ナニカを理解出来るはずだ」と凡人の極みのような、

浅い考えのもと、動き出しているだけです。




では、そろそろ、座禅を、

自分の理解の範囲内で理解し、

始める時間なので、

さようなら、さようなら、さようなら。



誰か、ぶったたきに来て下さい。





↓残念だけど、あなたにはもう、公案は効きません。

で、公案は効きませんと言われたあなたには、公案が効き出します。

ね?

理屈を、理解を、思考を超えるって、並大抵なことじゃないでしょ?

どうする?一緒に、禅寺に座禅でもしに行く?

でも、和尚さんが突然、「かーっつ」って言っても、

もう日本人には効かないけどね。

↓今日は下の二つのボタンを押す際、

「理解してはいけません」と言いながら、ポツポツと押してね↓





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