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(わたし探しシリーズを読破後に来てね♪)
一昨日まで開催していた、「わたし探しシリーズ」。
その中で、インドのカレー屋さんを二人、紹介しました。
1人目のカレー屋さん、ヤージュニャヴァルキアさん。
2人目のカレー屋さん、ラマナ・マハルシさん。
この二人のカレー屋さんは、別に「わたしを探す」のが趣味では無くて、
わたしなんて居ないのに、居るかのようにマーヤ(虚像世界)の中で戯れる、
そこのあなたに、説教をしたかったのです。
目を使って、花がそこにあると認識する。
花がそこにあると認識したのは、「わたし」である。
耳を使って、鳥がそこにいると認識する。
鳥がそこにいると認識したのは、「わたし」である。
思考を使って、考え事をする。
考えついたものを認識したのは、「わたし」である。
言葉を使って、まだ見ぬ何かを説明する。
概念化されたソレを認識したのは、「わたし」である。
見たのはわたしで、
聞いたのはわたしで、
考えたのはわたしで、
納得したのはわたし。
全ての認識の先に、認識主体である「わたし」が確固として存在する。
全てを認識するモノこそ、わたしである。
一方、ベクトルを逆に向けて、「わたし」を探すと、絶対に見つからない。
目で見たのが誰なのか?
耳で聞いたのは誰なのか?
考えたのは、納得したのは、誰なのか?
その先には、いったい誰が居るのか?
確固たる誰かを、そこに探し出すことは出来ない。
それなのに、日常生活で僕たちは、全ての起点に「そんな誰か」を据えている。
「わたし」が悩むし、「わたし」が悲しむし、
「わたし」を損させないように努力するし、
「わたし」が傷つかないように必死に守る。
なんてあやふやな起点なんだろう。
そこに、全ての勘違いの始まりがあるんだよと、カレー屋さんは説く。
必死に守ったところで、そこには、「わたし」なんていないのだと。
何を守ってるのだ?と。それより、俺のカレー食いに来いよと。
よく、日本の平和団体がこう言う。
「日本の敵なんて本当はいないのに、
自衛隊は何をそんなに必死に守ってるの?」
そんな日本の自衛隊へのイヤミな質問なんて、可愛いモンだ。
自衛隊とは違って、「わたし」には、敵はいるかもしれない。
【敵】は認識出来る対象物なのだから、居るのかもしれない。
だけど、敵から守っているところに、「わたし」が居ないのだ。
誰を必死に守っているのかがわからないのだ。
「わたし」が悲しまないように、いろいろと努力するだろう。
でも、悲しみの先に、「わたし」なんて居ないのだ。
既に撮られたDVDの中にあるマシンガンは、
絶対にDVD鑑賞室で見ている真のわたしを撃ち抜くことは出来ない。
流れ弾が当たれない場所に、真のわたしは居るのだ。
究極に安全な場所で、勝手にDVDの中のナニカを、
「わたしは、○○である」と自己と同一化し始めて、
マシンガンに怯えているのだ。
自己は、本来、ナニとも同一化してはいけないのだ。
というか、同一化出来ないのだ。
それなのに、すぐに「わたしは、○○である」と、ナニカとくっ付きたがる。
それを辞めろと、カレー屋さんは言っている。
ナニともくっ付かず、ただただ、それらを見つめる本来の場所に戻れと。
目を覚ませ!と。
ただ、その、真のわたしの場所に戻ることは、
非常に難しくて非常に簡単である。
例えば、現実に、目の前にマシンガンを持った変質者が現れたとしよう。
そいつは、いますぐにでも撃って来そうな勢い。
真のわたしについて深く学んだあなたは、
「っふ。真のわたしはそのマシンガンでは傷つけられない。」
と言って、そのまま撃たれるべきだろうか?
怯えず、逃げす、ただ見つめる場所こそが、真のわたしの場所だろうか?
違う!ぜんっぜん違う!
真のわたしは、全ての全てをただ認識する場所に居るのだから、
ガタガタと恐怖が湧いて来て、必死こいて逃げ出す、が起こるなら、
それを見つめればいいのだ。
何度も言うが、真のわたしは、撃たれようとしているソイツじゃないのだ!!
ソイツは、ただの、認識された対象物(登場人物)だ。
ソイツが、何を演じようと、真のわたしには無関係なのだ。
ソイツが、ガタガタ怯え出すなら、それを見てればいいし、
ソイツが、怯えないフリを始めたなら、それを見てればいい。
ソイツの考えから、感情から、おこないに至るまでの全てを究極に見つめる。
そこに、本来のわたしが居るのだ。
だから、究極の、究極に全てを見つめる場所に戻るということは、
これまでと、何一つ変わらないことになる。
これまでも、ソイツとはまったく関係の無い、絶対に安全な場所で、
ソイツを見つめていたのだから。
これまでと何一つ、変わらない。
だから、難しく考えれば難しいだろうし、簡単だと思えば簡単だろう。
でも、これまでと何も変わらないのかもしれないけど、
全てをただ認識する場所に、
真のわたしが居るという事だけは覚えていて欲しい。
そして、認識出来たモノ全ては、絶対に真のわたしじゃ無いということも。
あなたは、あなたが見る事の出来る全てでは無い。
あなたは、あなたが聞ける全てでは無い。
あなたは、あなたが感じる全ての感情では無い。
あなたは、あなたが説明できる全ての概念では無い。
あなたは、それら、全ての全てを、認識する側にいる。
だから、「わたしは○○である」とすぐにナニカとくっ付くのを辞めればいい。
「わたし」は、絶対に説明できないのだから。
あなたは、説明できたその全てでは無い、決して。
ということは、あなたは、「そのままで良い」のだ。
これは、月9のドラマでキムタクが言うセリフより、深い、気付きである。
そのままで良い、というより、「そのままで良い」以外に選択肢が無い。
その、見ているDVDの内容を、「そのままじゃなくする」ことは、
DVD鑑賞室のあなたには出来ないのだから。
だから、あなたは、そのままで良いのだ。
努力しても、努力しなくても、何をしても、何もしなくても、
「そのままのあなたで良い。」
2人目のカレー屋さんは、この状態になることを勧めている。
「明け渡し」という技法だ。
神さま(又は目に見えない存在)に全てをゆだねること。
「わたし」の全てを明け渡すという方法。
そもそも、「わたし」は、究極の鑑賞者であって、
何一つとして、為せない存在だから、
明け渡しとは、本来の自分の態度を思い出す行為である。
ソイツはただの登場人物なんだから、
ソイツを操縦しようという一切を、明け渡す。
ソイツの行動から感情に至るまで、全てを、目に見えない存在に明け渡す。
全ては、そのままで大丈夫。
あなたは、あなたのままで大丈夫。
今後、あなたが、何をしようと、何もしまいと、絶対に大丈夫。
「あなたは、そのままで大丈夫なんですよ」という事を、
わざわざ誰かに教えてもらう必要もないくらい、
あなたは、そのままで大丈夫です。
カレー屋さんが伝えたかったのは、この一点。
あなたは、そのままで、もう、ソレである。
あなたは、すでに、もう、ソレである。
これまでも、今も、これからも、そのままのあなたで、大丈夫。
何をしても、何もしなくて、あなたが在るだけで、大丈夫。
明け渡し=開け私
あなたが、完全に、「あなた」を明け渡したトキ、
真のわたしへの道が開かれます。
っらっしゃいませー。
おいしいカレー、食べていきませんか~?
↓何をしても、何もしなくても、あなたはそのままで大丈夫。
だって、DVDの中の「あなた」には何もできないわけだし、
DVDを見ている真のわたしは、誰にも破壊できない存在。
もう、これ以上無いってくらい、そのままで大丈夫。
今後、何が起ころうと、未来永劫、その起こるままで大丈夫。
「我、既に、ソレなり。」
明け渡しの状態になるために、「わたし」に出来ることがあるとすれば、
「このままで大丈夫」と何度も何度も、語りかけること。
どう頑張っても、「大丈夫じゃ無い」状態にはなれない、わたしたち。
しつこいくらい、言うけど、「あなたは、そのままで、大丈夫。」
そのままじゃ大丈夫じゃ無いかもと明日、思っちゃっても、
そのまま、思っちゃったままで大丈夫。
絶対的なる、大丈夫。
↓今日は下の二つのボタンを押す際、
「これまでも、今も、これからも、何が起きても、そのままで大丈夫」
↓ポチポチ↓
言いながら、安心しながら、ボタンを押してね。