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全ての全てを認識する、真のわたしは究極の認識者だから、


どれだけ頑張っても、認識できません。



目でも、耳でも、思考でも、概念でも、認識できないモノ、それが、わたし。




だから、何の見返り(検出反応)も求めずに


「全力で、目に見えないモノを信じることが出来るか」、この一点がキモです。



この、「信心」という手法を使って、真のわたしは感得できます。








あなた
「ここにいるよ、ここに真のわたしが。」


どなた(友人)
「どこに?目に見えないじゃないか?」


あなた
「見えないからなんだっていうの?居るもんンは居るんだよ。」


どなた
「はぁ?ついにイカレちゃったんだね、可哀そうに。」





あなた
「そうだね、イカレたのかもしれない。


ソレは、ソレが存在するという証拠(検出反応)を絶対に示さないから、


どうやっても、その存在を証明できないんだ。


だけど、居ることは間違いないんだよ。」




どなた
「その、信じる心で真のわたしになれたとして、その証拠は?


いま、あなたが本当に、真のわたしになってるのなら、


大いなる光を見たり、


絶頂の幸福感を感じたりといった、証拠は?」




あなた
「いや、だから、真のわたしであるという証拠なんて出るわけがない


認識するモノは、認識できないのだから。



ただ、誰が何と言おうと、わたしは、もう、真のわたしなのだ。


これまでも、ずーっと、真のわたしだった。


「わたし」には検出されないからと言って、なんなんだい?」




どなた
「そ、そっか。


じゃあ、とにかく、頑張れよ!


たぶん、もうこっちからは連絡しないけど、頑張れよ!」









何らかの証拠をいつでも必要として生きてきた僕らには、


目に見えないモノを信じるのは難しいかもしれない。





古来の日本人なら、荒れ狂う大自然の中に、


「目には見えないモノ」を信じることが出来たかもしれない。




でも、全てをコントロール出来た気になっている科学全盛の現代で、


やはり「目には見えないモノ」を全力で信じるのは難しいだろう。





だからこそ、真のわたしを感得するための「信心」は、


それをあなたに求める。


「全力で、目には見えないモノを信じろ!」と。





まぁ、真のバカが言ってる事なんだから、そんなに難しい話しじゃ無いと思う。



ただ「わたし」にバレナイだけであって、


常に真のわたしは居続けてるのだから。






寝ているトキ、「わたし」は消える。


ということは、真のわたしに戻っているのだ。



生まれる前、「わたし」は居なかった。


ということは、真のわたしだったのだ。



死んだら、「わたし」は消える。


真のわたしに戻るだけだ。




「わたし」とは違って、生まれることも無く、死ぬことも無いのだから、


真のわたしは、読売巨人軍以上に、永遠に不滅なのだ。




そして、生きている、今この瞬間も、


本当は、真のわたしで在り続けている。


「わたし」のすぐそばに、真のわたしとして、今も。




「わたし」に感知できないだけ、ただ、それだけ。




「あぁ、「わたし」にはバレナイだけなんだなぁ~」と軽く信じればいい。





他にも、「わたし」が真のわたしに、戻っている瞬間がある。


「はっと我に返った」という表現が日本語にはある。


ということは、我じゃ無かった時があるのだ。





「我を忘れて夢中になる」瞬間がそうだろう。


夢中でスポーツをしたら分かるが、自分なんて消える瞬間がある。


バンドやったらわかる。盆栽でも良い。



なんでもいい。



我を忘れるほど、好きで好きでたまらないことを夢中でやればいい。


そのトキ、「我(わたし)」は消えるのだから。





もちろん、「はっと我に戻って来た」後も、


真のわたしのままなんだけど、


ただ、そのときは「わたし」には見えないだけ。




見えないからと言って、なんなんざんしょ?




「こっちからはもう連絡はしないからな」と友達に軽蔑されたからって、


なんざんしょ?



そんな友達には、こう言えばいい。




あなた
「お、その表現、ナイス!!


そっか、【こちらからはもう連絡しない。】


まさに、真のわたしの姿勢じゃないか。


こちらからは連絡しないけど、元気であり続けている。


お前、良いこと言うなー!!」






なんなんざんしょ?






さぁ、13日間にもわたって探し続けてきた、「わたし」。


皆さんは、この13日間で非常に大きな進化を果たしました。




2人目のインドのカレー屋さん、として紹介した、ラマナ・マハルシ師。


まぁ、彼はカレー屋さんでは無く、超有名な聖者なんですが、


彼いわく、


「わたしは誰か?」と問いかけることが、唯一「わたし」に出来る、


真のわたしを悟るための行為であると説いている。





「わたし」を当たり前の現象であると思わず、


「わたしは誰か?」と疑問を抱ける段階に至ったということは、


もうそれだけで、あなたの魂は新たなステージに入っていると。




「わたし」に出来ることは、

「わたし」を疑うことだけである、と。





皆さんは、13日間も「わたしは誰か?」を探求し続けてきたのだから、


13日間、このブログと共にあったというだけで、大きな成長である。




「わたしとは誰か?」という企画を開催中のこのブログに辿り着けただけで、


あなたは、進化の新たなステージにいたことになる。





ひょっとすると、あなたの友人が、「とにかく、このブログを読んでくれ!」


と言ってくれたのかもしれない。


だから、読んだだけだと。




でも、それを、断ることもできたし、


そもそも、その友人と友達にならないことも出来たはず。



だけど、あなたは、なんだかんだで結局、このブログを読んでいるし、


「わたしとは誰か?」を探求することになった。








それは、始めから決まっていたのだ。









あなたが、「わたしとは誰か?」を探求する時期が。




実際、このブログに辿り着いていない人が沢山いる。


(全力でもっとこのブログ紹介してね)




その人たちは、「わたしとは誰か?」なんて興味すらないだろう。



「わたしとは、○○じゃない」と言うあなたを、軽蔑するかもしれない。





それでも、あなたは、「わたしとは誰か?」の段階に辿り着いた。




もぉ、あとは、流れるままに流れるのみ。




この世(DVD)には、起こることが起きているだけなのだ。


認識主体である真のわたしは、


それを、それらの全てをただ見つめるだけである。






あなたは、新たな段階に来て、変わった。



例えば、日常の生活で誰もが口にする、


「わたしは○○である。」


もう、あなたは、この表現に違和感を感じることが出来る立場に居る。


わたしが、○○で無いからこそ、わたしは○○を認識出来る、と。




わたしはこの身体じゃないし、この名前じゃないし、この存在じゃないし、


これら全ての認識されたものでは無い。


わたしは、この世で見る事が出来る全てのモノでは無く


この世で説明が出来た全ての概念では無いと。


わたしは、目に見えず、説明できず、検出されないモノだと。





14日前のあなたに、考えられただろうか。


14日前のあなたが、「わたしは全てでは無い!」などと、


深い理解の下発言しただろうか。





あなたは、わたしを探し出した。




「目に見えないモノを信じること」の意義を、


おばあちゃんの知恵としてではなく、


あなたの深い理解として、歩み出した。






認識するモノ(主体)と、認識されるモノ(対象)





これは、二元性のこの世の大前提だ。



一方が、もう一方を見つめ、


一方が、もう一方を感じるのだ。




ただ、二元性はこの世の前提であり、


真なる世界は、一つなるもの(非二元性)である。




一方が、もう一方を見つめるのではなく、


見つめるモノが見られるモノとなる。


(バシャールの言うパーティカルリミット)




認識しながら認識されるその世界では、


あなたは、ナニカになることが出来ない。



「なる」ためには、「それじゃないもの」と「それであるもの」が必要だから。



真のわたしは、もう既に、それ(全て)だ。




それなら、簡単。



あなたが、それを悟るためには、


わたしは、もう既に、真のわたしであると信じればいい。



何の証拠もなしに、「わたしは、もう既に、真のわたしである」と。





そのトキ、「わたし」のまま、真のわたしを感じることが出来るだろう。








「わたしとは、誰か?」


これからも、わたしを忘れそうになる度、問い続けてください。








空海
「長い連載も、今日で終わり。


もう夕方だし、一日の終わりに、でも鳴らしましょうか。」




夕暮れのお寺で、和尚さんが鐘を鳴らした。


その鐘の音を聞いているのが「わたし」で、


その鐘を鳴らしたのも「わたし」なら、


真のわたしとは、その鐘の音そのものである。




そこには、認識する者も、されるものも無く、


ただただ、鐘の音として、鐘の音が存在している。



聞かれることも無く、聞くことも無く、


ただただ、鐘の音として、鐘の音が存在している。



ボーン♪








↓本当のわたしなんて、探すまでもない。


あなたは、既に、本当のわたしなのだから。



あなたは、既に、全てだ。



なにかに、「なる」必要なんてない。ナニカを目指す必要もない。


あなたは、もう、ソレなのだ。


「わたしは、ソレである。」信じて唱えればいい。




「目に見えるモノは全てニセモノで、目に見えないモノは全て本物。」


誰が言ってると思う?


ノーベル物理学賞をとった人が言ってるの。


この世は、ただの、エネルギーの場だって。



そこに、実相は無い。本物は、目に見えないところにある。



目に見えないところで、本物が振動したら、


それが、場となって、この世界に、あたかも実物があるかのように伝わる。


だから本当は、この世界は虚像だって。



そのうち、LHCかILCが明らかにしてくれるよ。


それまでは、友達にバカにされるかもね。


「わたしは、○○じゃない」って言ったら。



てか、その友達、このブログに連れて来て。


このブログに、あなたの周囲の全員を全力で連れて来て下さいって


言ったじゃん?



あなたが、そうやって辿り着いたのなら、


あなたも、全力で宣伝してねこのブログ。



広めれば、広めるほど、あなたが真の場所に戻り易くなります。


大勢の人が真のわたしに気付いたトキ、残りの全員も強制的に気付きます。



椅子取りゲームの原理です。


だから、この、「わたし探しシリーズ」を、全力で宣伝してちょ。


すると、みつろうの13日間のこの苦労、報われます。



↓今日は、もう笑スピファンなら、余裕で分かっていると思うけど、


「みつろうさん、お疲れさんでした」と言いながら、ポチ↓ポチ↓


地球人、みんながみんな、「わたしとは誰か?」と疑う日が来て欲しいね。




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