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「わたし」を本気で探しまくったあなたが、


「究極のわたしの素」を発見したとしよう。




もちろん、発見した「わたし」がいるんだから、


発見されたソレ究極なわたしなわけが無いんだけど、


だけど、究極のわたしが居たと仮定しよう。




その究極のわたし(ハナマルキ)こそが、


全てを認識する主体であり、


そいつが、「わたしは居るぞ~、わたし~、わたし~」


と強力に、わたしの電波を出しているとしよう。




ハナマルキは全ての認識主体。


全てを見るモノ。


全てを認識するモノ。


究極の、わたしの素、ハナマルキ。




でも、

「わたしは、ハナマルキです。」


とソイツが言った瞬間に、ハナマルキさえも認識してしまう、


超究極のわたしハナマルキ・マルキが現れて、全てが台無しになるから、



そーっと、そーっと、


「わたしは、ハナマルキに非ず」


と、そのハナマルキに言わせてみよう。





さぁ、究極のわたしの素、


「これぞわたし!」のハナマルキが、


「わたしは、ハナマルキじゃ無い」と言った。




ハナマルキは全ての認識の源なので、


ハナマルキを絶対に認識することは出来ないが、


ハナマルキ以外の部分は、容易に想像がつく。




ハナマルキ以外とは、認識できるモノの全てである。


だって、ハナマルキは全てを認識する存在なのだから、


ハナマルキ以外とは、認識できるモノの全てになる。




認識出来るモノの全てとは、この世のことだ。



この世にある、全ては、認識出来る。



花は見えるし、音は聞こえるし、ニュートリノは検出される。




日常において、


「あれ、なんだかアレは認識できないぞ」


というモノは無い。




見えるし、嗅げるし、さわれるし、反応を検出できるのだから。




なにより、認識できないモノがあるのなら、


「認識できてないぞ」とすら思えないんだから。




まぁ、とにかく、この世にある全てが、【ハナマルキ以外】になった。




ということで、


「わたしは、ハナマルキに非ず。」


という表現が表わしているのは、【ハナマルキ以外の全て】になる。






あれ?




いま、【ハナマルキ以外の全ての部分】を表現できたことになるんだから、


【ハナマルキ以外の部分】 以外の部分である、ハナマルキを表現するには、


「わたしは、ハナマルキに非ず、に非ず。」と言えば良いんじゃね?



これが、インドのカレー屋さんがナンを焼きながらある日思いついた、


「ネーティ・ネーティ」である。





「わたしは、インド人である」


とは、原理的に言えない。



だったら、


「わたしは、インド人に非ず、に非ずである」


と言えば、究極のわたしさえも表現できるのでは?




「インド人に非ず、に非ず」⇒「インド人以外、以外」




よっしゃ!!!





嬉しくなった、カレー屋店主は、広告を出した。



「わたしの店のカレーは、れっきとした「わたし」が作っています。


『インド人に非ずに非ず』の、究極のわたしが。



それなのに、あそこのカレー屋さんときたら、


『わたしはココ壱番屋の店主です』とまだ言っている。



おいおい、『店主』を認識出来てる時点で、ソレはわたしじゃ無いだろ?



なんて、あやふやな、「わたし」が作ってるんだ。



きっとカレーも、あやふやな味に決まっている。



お客さん、わたしの店に来てください!!



確固たる、究極のわたしが作っている、確かなカレー、


ヤージュニャヴァルキアカレーを!!」







来てくださいと言われたから、行ってみた。







みつろう
「カレー一つください。


なんか、究極のわたしが作ってるらしいですよね?」






カレー屋
「おうよ!!


いいかい、あんた、あまり頭良さそうに見えないから、教えてあげよう。



『わたしはインド人である』とは、原理的に言えない。


インド人を認識するモノが、「わたし」なんだから。


言えるとしたら、『わたしはインド人じゃないです』だけだ。



だけど、わたしは、


・・・ホラ、インド人でしょ?


どう見ても。



色も黒いし、ホラ、ターバン。




悔しかった!!!



真理は、「わたしはインド人じゃ無い」なのに、


「わたしはインド人である」としか思えない日常




でも、ある日、フト気がついたんだよ。



『わたしは、インド人じゃ無いモノ、じゃ無いモノである』と言えば、


わたしを表現できるってね!!!



ネーティー・ネーティ!!」







みつろう
「へー。


【インド人じゃ無いモノ、じゃ無いモノ】こそわたしなんですねー。



それって、なんなんですか?」





カレー屋
「それ?


いや、だから、インド人。」










無念!!






【インド人じゃ無いモノ、じゃ無いモノ】と表現したところで、


表現できる時点で、認識対象物!



「わたし」に認識されたモノ!!



インド人じゃ無いモノ、じゃ無いモノは、結局、インド人。



残念カレー!!







わたし。


ソレは、言葉遊びじゃないし、


ソレは論理的考察による遊びでも無い。




究極な私は、表現できないはずである。


究極な私は、認識の対象物には絶対にならないんだから。




対象物を認識するモノこそ、わたしなんだから。





じゃあ、わたしなんて、どこをどう探したって、見つかりっこないじゃないか!!!


「わたし」なんてどこにも居る訳が無いんだから!!





わたし。


それは存在するモノでは無い。


それなのに、「わたし」を感じてしまう。





もう「わたし」を感じられること以外に、


この世に奇跡なんか無い!!!







ふぃー。



もう一度、言おう。





「わたし」という現象こそ、


この宇宙で一番不思議な現象であるBy素粒子物理学者





(⇒明日に続く⇒)






↓がんばったんだよ、カレー屋さんは。


「わたしは○○である」と言えないなら、


「わたしは○○に非ずに非ず」と言えばいいじゃん!


カレー、売れる!ココ壱に勝てる!って。




でも、表現できちゃったモノは、対象物。


対象物がある限り、それを認識する「わたし」が現れる。



さぁ、明日は、「わたし」にもう少しだけ迫れる方法を、


過去の神さまの発言をもとに、一緒に見て行きましょう。



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