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ワラスピ小学校に、新たな生徒がやって来た。
みつろう先生
「はーい、今日は皆さんに、新しい転校生を紹介しまーす。
上戸さん、自己紹介して。」
上戸
「はじめまして、上戸彩です。
わたしは、芸能人です。
だから、わたしは、可愛い顔しています♪
なーんてねっ☆」
生徒いのうえ
「ププププ!!
あの子、『わたしは、○○です』って言ってやがる!!
○○を認識できた時点で、あいつは、○○では無いのに!!
っプププ!!わかってねーなー!!」
生徒マツコ
「おいおい、あれを正しい自己紹介にすると、
「本当のわたしは、上戸彩ではありません。」
「本当のわたしは、芸能人ではありません。」
そして・・・、
「本当のわたしは、可愛い顔ではありません」って言ってる!!
ッププププ!!!」
みつろう先生
「おい、そこのまあるいの!!
何がおかしい?
おまえ、ひょっとして、
「わたしは、ブスです」って自己紹介こそ正しいと思ってないか?」
「思ってるに決まってるじゃない。
ってか、おめーが、昨日教えた話しじゃねーか。
「わたしは○○である」ってのは、おかしな表現だって!
ソイツ、「わたしは、可愛い顔である。」って言ってる。
【可愛い顔】を認識出来ている、「わたし」が居るんだから、
「本当のわたしは、可愛い顔では無い。」が正しいだろ?
ホラ、「私は、ブスである。」って言ってんじゃねーか!!」
みつろう先生
「目をこらせ、目を!!!
どこから、どうみても、可愛い顔じゃないか!!
お前の顔と比べてみろ!!
「わたしは、可愛い顔である」という表現はおかしいと先生は言った。
「可愛い顔」を「わたし」が認識出来ている時点で、
それは、「わたし」なわけがないのだから。
だから、「本当の私は、可愛い顔では無い」が正しい自己紹介になる。
でも、それを聞いて、間違った解釈を始める。
「可愛い顔では無いのだから、ブスな顔だ」って。
自分の顔をカガミで見たことないから、そんなこと言っちゃう。
第一、「可愛い顔じゃない」から「ブスだ」にあてはめたうえで、
この自己紹介を、マツコは、
「わたしは、ブスである」と言った。
ばかなのか?
目が悪い上に、ばかなのか?
先生は、「わたしは、○○である」という表現はおかしいと、
さんざん、昨日、言ったのに、
また、「わたしは、ブスである」という表現で、
わたしを捉えようとする。
わたしなんて、永遠に捕らえられないのに。
「本当のわたしは、○○では無い」を勝手に、解釈するな、勝手に!!」
ねー。ホント。
見たことあるのかよ、上戸彩って話しですよねー。
「わたしは、○○である」という文章は、物凄くおかしい。
昨日、たしかにそう言いました。
【○○】を「わたし」が認識出来ているかぎり、
わたしは、【○○】ではないから。
「わたしは、美人である。」と普段思っていたとしたなら、それは間違いである。
そこに、【美人】を認識出来ている、「わたし」がいるのだから、
本当の「わたし」は【美人】ではない。
すると、「わたしは美人ではない」と聞いただけで、
じゃあ、ブスなんでしょって言う。
「わたしは、ブスである」でしょ?って。
すぐに、「わたしは、○○だ」という形式に持って行こうとする!
「わたし」とは、永遠に捕らえられないんだから、
「わたしは、○○だ」と、決定的なわたしの素を探すことなんてできない。
どれだけ頑張っても、「わたしは、○○である」とは言えない。
じゃあ、何が出来るのか?
「わたしは、○○じゃない」
この表現なら、論理的には破綻しない。
【○○】を認識出来ている、「わたし」が居るから、
『 「わたし」は【○○】じゃない。 』
古代インドのカレー屋さん、ヤージュニャヴァルキヤが唱えた理論だ。
「ネーティ・ネーティ」ってやつである。
「なんだよ、ネーティ・ネーティって?
パーティー・パーティのことか?」
ネーティー・ネーティーとは、じゃない、じゃないという意味である。
「~に非ず、に非ず」という意味。
わたしは○○を認識するモノなので、
「わたしは○○だ」とは絶対に言えない。
だったら、
「わたしは○○じゃない」と言うのは、OKだよね?ってインド人が言ってるの。
「おぉ、なるほど。さすが、カレーを開発したインド人。
スパイス効いてるねぇ~。
わたしは、マツコである、太っている、オカマである、
は全て、「わたし」に認識された対象物に過ぎないから、
それらが、認識主体の「わたし」なわけがない。
だから、
わたしは、マツコに非ず。
わたしは、デブに非ず。
わたしは、オカマに非ず。
わー!!
一気に、痩せた気分よ!!!」
みつろう
「だーから、
『わたしはデブに非ず』を、
『わたしはヤセである』に持ってくなっつーの!!
カガミを見ろ、何度もカガミを。」
確かに、「わたしは~に非ず、に非ず」という表現で、
「わたし」を表わすことは出来ます。
でも、だからと言って、普段の日常の生活で、
転校生がやって来て、
上戸彩
「はじめまして。
わたしは、上戸彩じゃありません。
わたしは、芸能人じゃありません。
わたしは、可愛い顔じゃありません。」
などと、正しい自己紹介をしてしまった場合、
本当に、彼女のことを理解できるだろうか?
あんなに可愛い顔して、「わたしは可愛くありません」
と言ってしまうようなイヤミな初対面の人と、仲良くなれるだろうか。
ここに、この世の違和感がある。
「わたしは上戸彩じゃない」
の方が正しいはずなのに、
「わたしは上戸彩です」
としか、日常では思えない。
上戸彩という認識対象物と、わたし(認識主体)が同化してしまっているのだ。
絶対に、わたしじゃないはずの「上戸彩」、
絶対に、わたしじゃないはずの「悲しい感情」
この世にあるモノ全ては、絶対にわたしではないのに、
それでも、それらを「わたし」だと思っちゃう。
それらを集めると「わたし」が出来る気になっちゃう。
「わたし」という現象が、この世で一番不思議な現象ですよと、
物理学者が言っているゆえんである。
(⇒ちょっとこの違和感を感じ続けたまま、明日へ続く⇒)
↓「わたしは、デブである」は確かに、物凄く間違っている。
デブを認識出来ているわたしが、デブなはずが無いから。
でも、「わたしは、デブじゃない」と聞いて、すぐに、
だったら、「わたしはヤセである」にもって行かないでね。
「わたしは○○である」はおかしいよって何度も言ってるんだから。
明日は、インドカレーの店主が発明した、「ネーティネーティ」を、
ちょっと、脱線気味で、熱く語りたい。
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