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あなたは、だあれ?


昨日、「わたし」とはいったい何なのかという、


まさにどうでもいい難問に付き合わされるハメになった、笑スピ一行。




このような回答をいただきました。



咲いたチーズさん
「決定的な「わたし」はみつかりませんでしたが、


脳みその中に「わたし」があると思います。」




『脳みそこそ、「わたし」である。』




味噌屋の息子が多い、笑スピ読者から多く寄せられた感想でした。




先日、阿部敏郎さんの講演会に参加した際、


このようなお話しをシェアしていました。





阿部氏
「友人が脳梗塞で倒れて、『脳死』状態になったので、


彼の居る病院に寄って来ました。



病室で身体中をチューブや電極で繋がれた彼に、わたしはただ、


『大丈夫だからね。』と告げました。



すると、彼は涙を流した。



例え脳は死んでいても、彼は、わたしがやって来たことを知っていました。


わたしが言っていることを、感じていました。



存在として、そこに彼が居ることは、揺らぎようのない事実です。


脳死が全ての終わりでは無いとわたしは経験を通してもシっています。」





最先端の西洋医学が、


「彼の脳は機能していません。もうただのタンパク質の塊りです。」と判断してもなお、


そこに、「わたし」が存在する。




どうやら、「わたしとは、この脳みそである」も間違いらしい。



そもそも、昨日も言った通り、


脳みそと全く同じ構造体を創り出すことは、現代科学では十分に可能。




今、実験室で、ニューロンのようなモノや、それが伝える神経物質を創り、


それらのセットを、何十億個と並べてみましょう。



さぁ、脳みそと全く同じモノが出来あがりました。




この、脳みそと全く同じ機能をする物体を「ハナマルキ」という名前にしてみましょう。



さて、ハナマルキは、「わたし」を感じるのでしょうか?


脳みそと全く同じ機能をする、ハナマルキは、「わたし」を感じてるのでしょうか?



実験室でハナマルキが急に、「わたしは、マルコメになりたかった。」


などと、「わたし」を感じているであろう発言をするのでしょうか。



仮に、そのような発言が機械的な計算の下にアウトプットされたとしても、


本当にそこに「わたし」を感じているのでしょうか?



そんなことはないでしょう。



脳みそとまったく同じように物質をくっつけたところで、


「わたし」なんて起こるわけがない。




例え、ハナマルキに「わたし」が起こっていたとしても、


それが起こっていることを僕らは知る事はできない。



そんなこんなで、ハナマルキいわく、


「わたし」は脳みそでも無い。 らしい。






デラックス

「脳みそにさえも、「わたし」を発見できないなら、


もうどこにも「わたし」なんか居ないじゃないか。」






そう、「わたし」なんて、どこを探しても見つからない。


決定的な、これぞ「わたし」なんてどこにも無い。



「わたし」の基となる物質なんて、身体の中にも外にも、どこにも無い。





名前は「わたし」じゃない。


身体も「わたし」じゃない。


脳みそも「わたし」じゃない。


それら全ての要素を集めても、「わたし」という現象なんて起きない。




だけど、日常では「わたし」を感じて生きている。





じゃあ、「わたし」とは一体なんなんだろうか?


「わたし」を見つけることは出来ないけど、説明することは出来ます。





デラックス「お、なんなんだよ?


こんなに探しても見つからなかった「わたし」が説明できるのか?」




あなたが普段、「わたし」が存在すると思っている場面を想像すればいい。




デラックス「わたしを感じた場面?


全ての瞬間、「わたし」を感じているわよ!



「わたし」が花を見た。


「わたし」が悲しみを感じた。


「わたし」が美味しい料理を味わった。


「わたし」は生きていると思っている。


ホラ。」





そう、『「わたし」とは、○○を感じるもの。』



「わたし」とは、観測するもの。


「わたし」とは、感じるもの。


「わたし」とは、認識するもの。




ナニカを感じている、そのトキ、ソコには、


「感じているもの」「感じさせているもの」がある。



「わたし」が起きている宇宙の全ての場所の、全ての瞬間には、


この両者がある。



「認識するモノ(認識主体)」「認識されるモノ(認識対象物)」



要するに、「わたし」が起こっているトキにはいつでも、ソコに、


「認識するモノ」がいるはずである。


だから、「認識するモノ」こそが、「わたし」である。





デラックス「ほぉ、なるほど。


「わたし」とは、認識するモノのことなんだな。


認識するモノ、感じるモノ、見つめるモノ、嗅ぐモノ、思うモノ。


この認識主体こそ、「わたし」なんだな?」




ここに、「わたし」をどれだけ探しても見つからなかった理由があります。




「何かを探す」という行為には、


【探している人】【探されているモノ】が必要です。




【探している人】とは、「探しているぞ!」とビシバシ感じているわけですから、


【探している人】が認識主体です。



だから、【探している人(認識主体)】「わたし(認識主体)」を発見することは、


永遠に無いわけです。





探す存在こそが、「わたし」だから、


「わたし」は「わたし」を永遠に探せないわけです。




万が一、


「みつけたぞ、これぞ「わたし」の素、ハナマルキ!」と思ったとしても、


「みつけたぞ」と思っている人が、まだそこに居る訳だから、


その「みつけたぞ」と思っている人(わたし)をみつけきれていないわけです。


永遠に、「わたし」は「わたし」を探せません。



ということは、


「わたし」というモノがある(存在)ということを、


「わたし」永遠に確認(探せない)出来ないわけですから、



「わたし」なんて、この世に居ないことになります。




(⇒明日に続く⇒)





↓「わたし」が本当に存在するかどうかを、


「わたし」は確認することは出来ません。



「これぞ、究極のわたしの素、ハナマルキだ!」を見つけても、


「ハナマルキこそわたしだ!」と思っている、「わたし」がまだ居るので、


「わたし」を見つけ切れていません。



ハナマルキの法則と呼ばれているやつです。(どこで?)



とにかく、「わたし」なんてどこにも居ないのに、


「わたし」はここに居る気がビンビンしている。



今日も、宇宙で一番不思議な現象である「わたし」が起こっているのです。



「あなた」がこの世に存在するということを、


「あなた」が確かめることは永遠に出来ません。


確かめている存在が、「あなた」だから。



↓今日は、下の二つのボタンを押す際、


それでも究極の「わたし」の素を見つけた気になって、


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