こう考えてみるひらめき電球

全てのパラレルワールドの、全ての「自分」の視点を、ハイヤーセルフが持ってるなら、

僕のいる世界の視点と、僕以外の世界の僕の視点、それら全てを有している事になる


そして、僕の経験は、パラレルな世界に無限にあるはずだから、全てが打ち消しあって、結局、ハイヤーセルフは何も知らないんじゃねぇ?


無限ということは、量は同じで正負の符号だけが異なるエネルギー(出来事)が、無限に存在するということだから。全部が打ち消しあって、何にも残らないでしょ?


だから、何も知らないし、全てを知ってる存在がそこにいる神ことになる。


「ハイヤーセルフで生きることより、自分の人生を生きてください」、とは、このことか。


右という自分がいて、左という自分がいる。

上であり、下である。

得ていて失っている。

女であり、男で、そらであり大地だ。


ヒュヒュー、無知だけど、ハイヤーセルフって、やっぱかっけーな、文字に起こすと。


そう考えると、やはり、何もないところから対生成で生じた二つの素粒子が、お互いを発見して、対消滅するまでの期間が、僕らの人生だ。


反物質と、物質の数を、わずかに違えたのは、素敵な神様の、宇宙で一番素敵なイタズラだったんだな。


さらーに、パラレルな僕の集合体が、ハイヤーセルフなんだから、


僕も何かの集合体だと考えてみる



上にだけ無限に続いてるるわけじゃ無いから。下にも無限に続いているはずだから。


僕の意識という結合力(物理学の強い力)で、僕の身体の細胞はくっついている。


とりあえず、外と私を分離させているのは、細胞の集合体、身体だから。




↓バシャールは「ハイヤーセルフ」エイブラハムは「内なる存在」って言います↓

↑みつろうは「冷やし中華」と呼んでます↑




そして、身体の事を考えてみると、ここで、ハイヤーセルフとの決定的な違いにぶつかる。


だって、僕は、僕の身体の細胞の気持ちを知らないから。


右ふくらはぎとしての視点も、左大腿骨の視点も、僕には無い。


ハイヤーセルフは、全てのパラレルな僕の映像を、今、見れるのに、僕は、右腕の気持ちがわからない。


ひらめき電球ってことは、経験には最小単位があるのかも。


「僕」というのがそれ。

経験の最小値。


マジかぁ。なんだか無力感だなぁ。


いつも頑張って、「右つちふまず」の気持ちに、耳を傾ける人生にしとくべきだったなー。


ハイヤーセルフ、やっぱすげーなー。




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