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上級貴族なら事件を起こしても許されるのか?
道隆の息子伊周❨これちか❩と隆家が花山法皇が伊周の彼女にちょっかい出してると誤解してややこしいことになったけど、実は伊周の彼女の妹が花山法皇の彼女だったってことありましたね。長徳の変です。
この伊周の息子の道雅のはなし。
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暴力事件や殺人事件の主犯などで荒三位、悪三位などと呼ばれた人
その翌年の長徳2年(996年)内大臣の父・伊周が花山法皇に対し弓を射掛ける不敬事件を起こして大宰権帥に左遷され(長徳の変)、実家の中関白家が没落する。
🤔1年くらいで帰った伊周だが元々貴族に嫌がられていたので、同席もしたくない貴族が多かった。なので出世はできなかった。
🤔伊周は自分を客観視できず、左遷されたせいでとワタシの想像だが、息子に愚痴ったと思う。皇室への憎しみが育ってないだろうか?
道雅は17才で(1009年)従四位下と一条朝後期に武官を務めながら順調に昇進する。
1010年2月14日、伊周が36歳で亡くなる。糖尿病だったかもしれない。死因がつかめなかった。失意で酒に逃げたのかも。
道雅18くらい。寛弘8年(1011年)三条天皇の即位春宮権亮に任ぜられ、新春宮・敦成親王(のちの後一条天皇)に仕える。
しかし、長和2年(1013年)の4月21歳くらいのとき、三条天皇の敦明親王の従者だった小野為明が敦明の母である皇后・藤原娍子の住む弘徽殿に参上したところを、敦成親王の従者に拉致させ自邸へ連行させる。自邸において道雅は自ら為明の髪を掴んで周囲の者に打ち踏ませ、瀕死の重傷を負わせた。
その後、敦明親王から訴えがあり、道雅は謹慎処分に処された
🤔敦明親王の従者をつかまえてわざわざ道雅の屋敷に連れていき何人もで暴行したなんて!
一体何故か?
やはり父の失脚の原因である花山法皇たちをうらんで?
花山法王の弟である三条天皇の息子は敦明親王。その従者を痛めつけた。敦成の従者を使って拉致させたってのも…嫌な感じ
なぜこんなことを?
身分の低いものが被害者ならお咎めない平安だけど敦明親王が訴えでたので分かった。
敦明親王もかなりお怒りだったのでは?
従者はたまったもんじゃありません!中関白家の栄華について伊周が話していて、それを聞いて憎しみを募らせたのかな?だから親王の従者にひどい暴力をふるったのか?敦成親王の従者に拉致させたのは、春宮権亮のお仕事で敦成親王に仕えていたのでその従者は、言う事きかせやすかったということなのか🤔
長和5年(1016年)24歳の正月に、後一条天皇が、(天子の位をうけつぐ)に際して藤原資平と共に蔵人頭に任じられたが、間もなく春宮権亮の功労という名目で従三位に叙せられて、在任8日目で蔵人頭を更迭されてしまう。
更に同年9月に当子(まさこ)内親王が伊勢斎宮を退下し帰京した。
当子内親王と密通し、これを知った内親王の父三条院の怒りに触れて、天皇から出仕の差し止めをうける。
また、仲を裂かれた当子内親王は翌寛仁元年(1017年)道雅25歳くらい🩵内親王は病により出家してしまった。
引き裂かれた悲恋にも見える。
が、25なら妻がすでにいるのでは?
あと4年前の暴力事件を思うと。
愛はあったのかと疑う。
平安は恋愛を自分の出世に利用するところがあるし。多分そんな気持ちもあったのだろう。
今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな— 『小倉百人一首』第63番
道雅は中古三十六歌仙のひとりで歌がうまい。
あなたをあきらめなくてはとそれだけでも人づてでなくてあなたにつたえたい。そんな手段がほしい。
人づてでなくて別れを伝えるだけでも会いたいってことなのかな。
マイ訳。
斎宮を辞めてからの恋は自由なはず。
三条院は眼病を理由に道長に退くのを強要された。
道長が幼帝を擁立して摂政の地位に就きたいのだ。
後一条天皇に譲位した
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三条院にしてみれば眼病で退位を迫った道長憎しなのに道長の甥の息子が娘にちょっかいってぐぬぬ、めちゃ悔しいってところかな。
長すぎるので、つづきます
読んでくださってありがとうございます