2010年のある日 文通友達から突然五千円が送られてきた。それである本を買うようにとの指示だった!それはマヤ暦のオラクルカードで副題に「星へ還る道」とあった。わたしは本屋でその本を注文した。


わたし達は宇宙の呼びかけに応じて今回地球に集結したボランティア仲間であり やることをやったらそれぞれ自分自身の星へ還るその途中でもあり 星へ還る道を日々辿っている。


その内容がわたしにはとてもしっくり来た。毎日そのオラクルカードを引くことがルーティーンになった。


星へ還る道というからにはある時点を境にこの人生にも折り返し点があるはずだ。 その折り返し点がいつだったかはっきりしないがわたしはこの人生のスタート地点までもう既に戻ってきてしまったと感じている。


ここしばらくすっかり蛹か胎児のような感覚で自分の輪郭さえ分からなくなっている。家とこの肉体以外持っていない。人間関係も所属するグループも家族親戚…ほぼ無くなった。食べる物も何を食べたらよいのか何が食べたいのかも皆目わからなくなった。固定概念は悉く崩壊した。2014年以降のことを書こうとしてもうまく纏まらず 書きたい衝動も失ってしまった。


2年前にアガスティアの葉に再び縁することになってインドに2回行き祈りその後カルマ解消しまくったら 30年前に開いた時の前世のインド人女性の残した思いが消滅したのか…人々が集えて癒される場所を作らなければ! 誰かの為に何かしなければ!…という感覚が消えた。好きで五回行ったインドに全く興味が無くなった。今は寧ろ嫌いなくらいだ。そして2027年からインドに住むと書いてあった予言も今は全く信じてもいないしワクワクもしない。


ツインレイに長年出逢いたかったが葉の予言で来年ソウルメイトに出会うというのももうどうでもいいかと思うようになった。素晴らしすぎて信じられなかった予言の数々にももう心を動かされることもない。自ら予言に寄せていくようなこともしない。本当にそれが真実ならどこでどうしていようがそのようになるだろう。5000年前の聖者とその生まれ変わりの言うことだとしても…今は自分の感覚にはしっくり来なくなった。


2015年に小さな家を建てた。誰も訪ねても来れない小さな家だ。ずっとわが家には誰かが来ていて駆け込み寺のようで夜中に人の話し声や泣き声で目が覚めるなんてことは一度や二度ではなかった。母には申し訳なかったがわたしはいつもいつも「誰も来るな光線」を発していた。わたしの求めていたのは賑やかさや家の経済的安定より静けさと母との時間だった。


81歳で長女を失い仕事をやめた母とわたし、 もう誰も訪ねて来ない小さな家で 母の星へ還る道の伴走をした氣がする。


目の手術をしたり 腰痛治療に行ったり 文字が書きづらくなってきたとかよく転ぶようになったとか歯が抜けたとか 赤ちゃんが子どもになる過程のその逆のことが七年かけて日々母に起きていると感じていた。


痩せて小さく薄くなっていく。小学生ほどの細い太腿、顔も可愛らしくなってきて 厳しさは微塵も無くなった。勝手に飛び込んでくるような大きくて通る響きのある声はくぐもって響いてこなくなった。頭はしっかりしていたが次第に外出したがらなくなった。この小さな家でわたしは母を独占した。母は自分のことは自分で出来たからわたしがしばらく旅に出ても大丈夫だった。留守番して待ってくれている家族がいるのは本当に心強いものだった。


コロナの時期がやって来た。そう変わらない生活が続いたが 2022年になって二人とも寝込んだ。同じ症状だった。とにかく身体が重くて息苦しい。全身が痛い。コロナではないと思った。具合が悪くても決してそう言わない母が調子が良くないと苦しそうな声で言った。食欲もなくなった。わたしは毎日寝たまま小さなスマホの画面で「日本昔ばなし」を見続け涙を流した。母はただ静かに寝ていた。風呂にも当然入れない。このまま二人とも息絶えて白◯◯体で発見されるのか!?なんて思った。病院に行こうとか救急車を呼ぼうなんて思いもしなかった。そうすればコロナ死の数値+2として片付けられるだけだと思っていた。決して病院に近づいてはいけないと。


3週間たった朝、母は一口山葡萄ジュースを口にした。長い細いグラスだったせいで倒れてこぼしてしまった。そんなものに入れたわたしが悪いのだが…そんなことさえきっと必然で最適なことだったんだろう。


夕方母はトイレに立った。用を済ませ戻ろうとして転んでしまった。起きられない。さすがにこれはいけないと思って本人に救急車を呼ぶか聞いてみた。母は力なく首を横に振り 呼ばなくていいと言った。


まだ母が若い頃 わたしはお母さんの最期は恐ろしくて看取れないから一人で何とかしてと言ったことがある。わかった、大丈夫、そうすると母はあっけらかんとして答えた。それから先に逝ったらあちらから通信してきて向こうの様子を知らせて!よっしゃ、わかった!と本氣で話した。

いよいよというギリギリの時まで救急車は呼ばないという約束もお互いにしていた。


さすがにいけない状況だと思い 往診してくれる医者を遅ればせながら探したがその日はもう無理らしく こうなったら明朝タクシーで医者に行こうと決めた。


遅すぎる決断だがわたし自身も具合が悪く何もできなかった。 今思えば 元氣だったらあれこれ心配しすぎたり世話を焼いたり余計なことをして 母の星への帰還スケジュールを乱してしまったかもしれない。


わたしは必死になって紙パンツを買いに走った。これから使うかもしれないと思ったから。大袋を買ってひとつ履かせた。


痛みは無さそうだが 息遣いの荒い母にわたしが「いったい何してるんだろうね?わたし達神様なのにね…」と笑いながら言った時 母は満面の笑みを浮かべた。今だかつて見たこともないほどの渾身の笑み。人生最高の最期の笑顔。✨✨午後9時だったらしい。後でわかったことだがそれが母の最期の瞬間だった。あまりにも静かで幸せな時間だったのでわたしは氣づかないまま その後1時間以上話しかけたり毛布をかけたりしていた。


母の目尻から少し涙が流れ 静かすぎるのにも氣づいて救急車を呼んだ時はもう深夜だった。5、6人来られたが死亡確定ということで帰っていかれ 続いて6、7人程の警察の方々が来られた。


即刻わたしは犯人という扱いらしかった。ほとんど取り調べだ。故人そっちのけで所持金はいくらあるかとか… そんな話ばかりだった。全く個人的な感情や感傷なんて考慮されない。何だか悲しかった。


翌日死因特定のため検死に回されたが 悪い所は無く死因は不明、 もちろんコロナでもなかった。コロナ死にされなかったのはせめての救いだった。


時節柄お葬式はなし。お坊さんも呼ばない。(本人はそういう抹香臭いのが一番嫌いだった!)葬儀社の安置所でも火葬場の待合場でも お經の代わりに母の好きな歌をたくさん歌って一人で母を送った。


母がお骨になったその日はわたしの60数回目の誕生日だった。人生で一番体験したくなかったことが誕生日プレゼントだったのだ。お母さん、最期にこんな誕生日プレゼントってある?と思ったがそれは究極の贈り物でもあった。この人生で一番恐れていたことが済んだらもう恐ろしいことは永遠に無くなるんだから。


家族の誰かの命の瀬戸際の時 いつもわたしも死にそうになる。

母の時は特に共に苦しんで伴走して三途の川の所まで送り届けて そこでお別れして母は渡り わたしは引き返したという実感がある。


共感力が高く 生きる力が弱くていつも生死の境目にいるようなわたしはそうなりがちでそういう役割で生まれてきたと思っていた。


奇しくも昔行動を共にした僧侶が言ったものだ。元氣な時は一緒にいなくてもいいけど自分が死ぬ時だけは絶対にそばにいて欲しいと…。

全然嬉しくないお言葉…。笑


まあ そんな役割ももう返上しよう!


9月に骨折してブログを始めて9ヶ月…わたしは生まれる時だって9ヶ月で大急ぎで生まれてきたからそれも符合しているようだ。本当に原点に戻れたようだ。骨折の痛みもやっとこの頃薄れてきた。


わたしは生きながらにまだ体験していない次の生を始めるのだから!!


あぁ やはり 歌は歌いたい!!そこだけは譲れない。十分歌ってこの世界の『普通』のことを樂しみ尽くしたら今度こそ本当に本当に星に還れる!!!!!!!!!!




今まで読んでくださってありがとうございました!!