「重力」が、罪によって発生するのだとしたら、人間は罪を持っていなければ、地球上にはいられないことになるのだろう。
 ここでいう「重力」とは、物理的なそれではなく、精神的なそれである。
 地球から物理的な重力が消えれば、肉体は物質宇宙に放り出されるように、精神的な重力が消えれば、魂は精神宇宙へと向かわざるを得なくなるのだろう。
 宇宙には、物質宇宙と精神宇宙とがあるといわれているが、地球にも「物質地球」と「精神地球」とがあるのだろう。つまり宇宙は二重構造であるように、地球もそうなのだろう(そして人間自身も)。
 前者の地球は、現世と呼ばれ、後者の地球は、幽現界と呼ばれるのだろう。
 その罪(カルマ)が消えて、地球上にいられなくなった状態のことを、仏教では「解脱」と呼ぶのだろう。「浄土」とは、精神宇宙のことを指しているのだろう。
 幼くして亡くなってしまう子どもたちは、往々にして精神性が高いという。あるいは、彼らは、少しだけ残ったカルマを解消するために、こちらの世界へとやってきたのではないだろうか? カルマを残していると、あちらの世界には居続けることができないのだろう。つまり、重力があると――
 プラトンはこう言っている。「我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった」
 罪を背負っていなければ――つまり「重力」がなければ、人間が地球上にはいられないのだとすれば、人類は初めから、イノセントな存在ではなかったということになるだろう。いわゆる「原罪」が人類にはある(あった?)のだろう。つまり、人類誕生のときから、何かしらの「重り」があった。
 おそらく人間は、精神宇宙(エデン?)で、何かしらの罪を犯したのだろう。たとえば、神と同等の存在になろうとしたのではないだろうか? 『旧約聖書』の「失楽園」のエピソードは、そのメタファーなのかもしれない。
 その罰として、人間は精神的な存在から物質的な存在にされたのだろう。つまり獣にされた。追放された先が物質宇宙、つまり地球なのだろう。「産みの苦しみ」はそのままだし、「労働の苦しみ」は狩猟、つまり食わなくては生きていけなくなった。 
 「重力」を感じるためには、ある程度、神経症的な状態や、離人症的な状態から、脱却していなくてはならないのだろう。つまり、フィルターをかけずに、客観的に世界を認知することが必要なのだろう。
 そして「恩寵」と「重力」の両方を知らなくてはならないのだろう。重力のなかだけにいては、重力を知ることはできない。そして、その逆も然りなのだろう。それらは、相対化されなくてはならない。日本文化しか知らなければ、日本文化を捉えられないように。