私はシモーヌ・ヴェイユの熱心な読者でもなく、キリスト教徒でもないのだが、ヴェイユの『重力と恩寵』は、ときおりパラパラとめくってみたりもする。
 ヴェイユの言う「恩寵」とは、いったい何を指しているのだろうか? 
 おそらく、重力の弱くなった状態を言っているのではないだろうか? すなわち、「フワッとした感覚――浮遊感」のことなのではないか。まるで、地球の6分の1の重力である、月面世界を歩いているかのような。
 私にも時折、「恩寵」らしきもの――つまり「フワッとした感覚」が感ぜられるときがある。一方で、「重力」らしきものも――
 これらの感覚を捉えるには、ある種の客観性が必要になってくるのだろう。フィルターをかけずに、その感覚を得るというか――。つまり、神経症的な状態や、離人症的な状態から、ある程度、脱却していなくてはならないのだろう。
 イマイチ、法則が掴めないのだが、どうも「善いこと」をしたときに、その恩寵が訪れるようなのだ。そして、「悪いこと」をしたときに、重力がやってくる(あるいは、より強いそれが――)。おそらく恩寵とは「ご褒美」で、重力とは「罰」なのではないだろうか? 言うまでもなく神による。
 人類は、地球上で常に物理的な重力にさらされているが、あるいは、精神的な意味においてもそうなのかもしれない。だからキリスト教やユダヤ教には、「原罪」という概念が生じたのかもしれない。
 その善悪というのは、人間の倫理に当てはまるときもあるが、そうではないときもあるようなのだ。つまり、「あちら側」の基準でジャッジされているようなのだ。人間の倫理に当てはまったときには、あちらのそれと、たまたま合致したということなのだろう。
 以前、落ちていたサイフを拾い、交番に届けた翌朝、とても身体が軽かったときがあった。心もなんだか瑞々しかった。
 ユーミンの「やさしさに包まれたなら」の歌詞のようだと思った。子供時代に、おそらく誰もが感じるであろう、あの感覚だ。それは気の持ちようというレベルではなかった。
 そのユーミン的感覚――恩寵は、自分の内からというよりも、外部からやってきたもののように思えた。天から降りてきたように――
 昔、人を傷つけるような発言をし、そのあとで建物から外へと出たとき、身体がズシッと重たくなったような感覚がした。何か、外の空気が、その建物に入る数十分前とは明らかに異なっていた。何か冷ややかなものに変わっていた。
 その感覚は、やはり外部からやってきたもののように思えた。天高くからもたらされたもののように。
 そのようなとき、私は神の存在を強く感じるのだった。あるいは、神の造った、何らかのシステムのようなものを。
 前述したように、その法則がわからないことがある。人間の善悪の基準に従えば、明らかに善いことをしたなと思えるようなときに、「重力」がやってくることがある。あちらの基準では、私は「悪い行い」をしたのかもしれない。
 あるいはそれは、長期的な視点で見れば、理解できることなのかもしれない。そのためには「神の視点」が必要になってくるのだろう。遙か未来を見通せる、千里眼のような目が。あるいは、膨大な知識と、豊かな想像力とが。