吉田みつひろです。
いつも皆様には大変お世話になっております。
本当にありがとうございます。
本日は、大内まちづくり協議会 史跡マップ編集委員の
松前了嗣(りょうじ)氏のお話を聞くチャンスに恵まれました。
七卿落ちのお話をしてくださったのですが、
山口市にも、あらゆる歴史の足跡を残して
くれているんだなあと改めて思った次第です。
文久3年(1863)8月18日の政変によって、京都から
追放された尊王攘夷派の7名の公家たちは、兵庫から長州へと
船で下向したことが、いわゆる七卿落ちと言われる事変です。
7名の公家とは、
三条 実美(27)、三条西 季知(52)、東久世 通禧(31)
壬生 基修(29)、四条 隆謌(36)、錦小路 頼徳(29)、
沢 宣嘉(29)です。
平均年齢は33歳ということで、とても若い方たちだったんですね。
現在、湯田の井上公園に、七卿落ちの記念碑がたっていますが、
山口市の各所に、七卿落ちにちなんだ史跡が残っているようです。
先日の春風亭正朝師匠の「愛宕山」ではないですが、
御公家さんたちは、京都で山登りをして、山の自然の中で
お酒を酌み交わし、談に花を咲かせることが好きだったようで、
(習慣なのかも?)、仁保の丸山や大内の霊山、
大内宮島町の象頭山、赤妻山、鳳翩山など、
山口のあらゆる山に登ったという記録も残っているようです。
また、山口市のまちの中を、家や寺院、神社などに
移り住み(これは撹乱させるためでしょうか?)、
いろんな方とご縁があるようです。
文久4年の11月に、長府に移動される前に、
約1年の間に、いろんな場所に行かれているという
ことになりますね。
特に、当時の長州藩は、正直申し上げて、
尊王攘夷の先導国であったような要素が
強かったものですから、この文久3年の政変や
馬関戦争、長州征伐など、時代の流れを
大いに受け、蠢いているような帰来があり、
そんな中の七卿落ちの出来事は、
非常に危険を極めたものであったとも想像に
固くない。彼らには、ずっと護衛や秘書も
随行していたようですし。
よく考えれば、長州に三条氏がいたころは、
27,8歳ということですから、
後々、太政大臣や内大臣など、
伊藤博文や井上馨などとしっかりと
協力して、近代日本の礎を築いていったと
考えれば、この期間の出来事も、
毛利敬親公の思いも感じさせるような
ところも、想像してしまう。
いずれにしても、この歴史を紐解くことは
非常に興味深い。皇政復古70年記念で
山口市が作られた「山口史蹟図」をもとに
もう一度山口を歩いてみよう!!
感謝、吉田みつひろでした。