吉田みつひろです。


いつも皆様には大変お世話になっております。


本当にありがとうございます。


「大田・絵堂の戦い」をご存知でしょうか?


幕末の長州藩は幕府に従順な俗論派と、


尊王攘夷を唱え幕府を倒そうという


いわゆる正義派が毛利の殿様を入れ替わり立ち代わり


支え合っている状況であった。


その藩が率いる俗論派と高杉晋作率いる正義派


の争いの一つが、この「大田・絵堂の戦い」であり、


まさに、この一戦により、


明治維新、そして近代日本へとつながっていった。


大田町の皆様は、言い伝えや歴史背景を理解しているが、


全国的には、あまり知られておらず、


今回の「大田・絵堂の戦い」を顕彰しよう会で、


歴史を正確にとらえ、その正しい歴史を


後世にきちんと伝えていく作業は地道であるが大切であろう。


特に、本日の鈴木旭先生のご講演


「村田清風に学ぶ為政者の決断基準」と題し、


大変参考になり、また改めて勉強になった。


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なお、この講演会に先立ち、


大田・絵堂の戦いの殉難者の方と長登銅山の殉難者の方への


供養会が行われたことも触れておく。


ちなみに、長登銅山とは、奈良の大仏建立にあたり、


美東からの銅が運ばれていたとの歴史がある。


吉田みつひろの一歩ずつ

その一部をご紹介。


伝統ある長州藩の改革を任された村田清風は、


当時18歳の藩主:毛利敬親公の命により


武士と民間人が豊かになれるような施策をとり、


藩の専売であった紙蝋米塩の四白政策を行い、


殖産興業をした。


お蔭で、いわゆる「長州物」


といわれる特産物が大阪や東京など全国の市場を


出回り、民も豊かになり、藩も税収で豊かになった。


そのた越荷方事業、軍制改革、天保の大演習、


そして人材育成に積極的に取り組んだ。


いわゆる天保大改革と言われる。


しかし、清風は当時の長州藩の中で、


積極的な活動をできたわけではなく、


清風の考え方に反対の武士もいた中で、


捨て身の覚悟、口惜しながら実行したと言われている。


その当時、やはり身分の違いや伝統は


大きな壁があったのであろうが、


それを乗り越えて行ったという訳である。


最後に触れた


人材育成について、


清風は、


「人材は必ずあるものだ。ただ人材がないというのは


発掘していないこと、育てていないこと、その向き向きに


活用されていないだけのことである」と述べており、


「人あり米ありても教えざるの民は用い難し、古人も申し置き候へえば、


学校教塾を建てて五倫の道を幼少より教え込む候こと」


と述べ、藩校である明倫館再建とともに、幼少教育の大切さを訴え。


そして、藩の外へ出て、常に新たなる創造をせよ!と訴えた。


興味深いことに、


当時若かりし藩主:敬親公は


「少年教育の盛衰は壮年者の奨励如何に因ること多きを以て


少年の者進んで出で来たり、共に先導して文武の稽古を励むべし」


大人が手本を示せと、人材を育てる環境についても触れている


ということが非常に興味深かった。


村田清風という人物の一端に触れることで、


当時の長州藩の流れを把握するとともに、


現在の未曾有の状況も、


当時幕末においても、火山の噴火や藩の膨大な支出・赤字と


重なり、危機的状況であったことを思えば、


同じ状況にあり、


今何をすべきかを、その時代のリーダーが


指し示していくことの重要性を改めて知った。


何につけても「そうせい」と述べたといわれる


「そうせい公」こと藩主毛利敬親公も、


未来の国のかたちを創ることを


必死に示されていたのかもしれないとすれば、


感慨深いものがあった。


常に歴史のページを拓く人物は、


その時代に、異人に映ったことは否定できないかもしれない。


その後、


せっかく大田に来たので、


昨日開通した、大田絵堂間の高規格道路


小郡萩道路を走ってみた。


秋吉台ICから絵堂ICがつながり、


美祢から萩までが、さらに近づいた。


吉田みつひろの一歩ずつ

「大田絵堂の戦い」が繰り広げられた


この場所で、小郡山口から萩に向かうこの道が


できるとは、まったく創造もできなかったと思うが、


今回の講演会と


この道路の竣工が


妙に自分に親しみを覚えさせてくれた気がします。


そして


夕方より、地元天神通町内会の総会に顔出し。


地元の皆様方のお支えあって


今の自分があることを改めて誓い


ごあいさつをさせていただきました。


感謝申し上げます。


今日一日ありがとうございます。


明日もよろしくお願いいたします。


吉田みつひろでした。