前回の記事で書いた通り、キリスト教徒であると主張する人は世界中の3分の1にすぎず、その中でも信仰は大きく異なっています。

 

しかしなぜ、これほどまでに聖書理解が異なっており、混乱があるのでしょうか。

 

[大多数の人々は永遠に失われるのか?]で、イエス様がほとんどの人から真の意味を隠すために、たとえ話をされたという事を記載しました。

 

たとえ話をする事についてイエス様は弟子たちに、

「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。」(マタイ13:11)からであるという事を言われました。

 

それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。(13節)

これは、神がイザヤに与えた預言の成就でした。(14-17節)

 

さらにイエス様は、なぜある者はイエス様のメッセージを理解する事が出来、ある者は理解出来ないのかという事を説明する為に、

「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。」(ヨハネ6:44)と言われました。

 

神が人々を特別に招かなければならない理由の一つは、悪魔とかサタンと呼ばれる悪霊が全世界を欺いているからです。(黙示録12:9)

 

パウロはこの惑わしを、人々の心を見えなくするベールに例えています。(2コリント3:14;4:3-4)※口語訳聖書等では、「覆い」と訳されています。

 

神がこの霊的な盲目のベール(覆い)を取り除かない限り、イエス様のメッセージは完全に理解されないという事を認識した上で、イエス様の教えについて大多数の人々が何を理解していないのか考えてみましょう。

 

まずは悔い改めと信仰についてです。

御国に関する「良い知らせ」に応答する為に、イエス様は人々が二つの事をしなければならないと言われました。

 

「悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)

 

 

残念な事に、この重要な教えはほとんど無視されるか、せいぜい部分的に説明されるだけのようです。

 

ある人は、「イエスを信じる」だけで良いと言います。

実際に私自身も、聖書を学び始めて間もない頃はそのような教えを信じていました。

しかしそのような教えに欠けているのは、「イエスを信じる」という事は何を意味するのか、悔い改めるとは何を意味するのか、という事です。

 

聖書によると、悔い改めには二つの重要な部分があります。

第一に、悔い改めは神からの贈り物であるという事。神は人の心を開き、その人をご自身のもとに引き寄せなければならないので、悔い改めは神から与えられるものでなければなりません。

神は人々を悔い改めに導かれます。(ローマ2:4)

神の関与なしには、真の聖書的悔い改めは不可能です。

 

第二に、悔い改めには、自分の好き勝手な生き方から、神に従う生き方に変えるという、その人の持続的な決意も含まれます。

神が憐み深く霊的な盲目のベールを取り除き、その結果、その人が理解出来るようになったので、神はその人が罪を犯すこと、すなわち神の律法を破る事を止め、神に従って生き始める事を期待されているのです。

 

バプテスマのヨハネは、当時の宗教指導者たちに「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」必要があると言いました。(マタイ3:8)

 

彼らが結ぶべき実とは、人生が変わったこと、つまり神に向かうようになった事を示す目に見える証拠の事です。パウロは、これと同じ原理で、信仰と行動は一体であると説いています。

真の悔い改めとは、神の恵みを受け、「信仰に従うこと」(ローマ1:5)です。

 

イエス様は、御国に入るつもりならこのようにしなければならないと言われました。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)

 

本物の心からの悔い改めに加えて、イエス様はご自身に従う者に「福音を信じなさい」と命じておられます。(マルコ1:15)

 

本当に信じるとは、自分の罪を悔やむだけではなく、生き方を変える事です。(2コリント7:10)

 

パウロが述べているように、「律法を聞く人」ではなく、「律法を行う人」が義とされ、神の目に正しいとみなされるのです。(ローマ2:13)

 

イエス様は、永遠の命を受けるためには何をしなければならないのかという質問に対して、繰り返し戒めに従いなさいと言われています。(マタイ19:16-20、マルコ10:17-23、ルカ10:25-27;18:18-24)

 

またイエス様は、神の御国について教える中で、収穫の時まで同じ畑でともに育つ麦と毒麦の譬えを話されました。(マタイ13:24-30)

その後弟子たちに、この収穫は「世の終り」(39節)を表し、天使たちが御国の為に人々を刈り取る事を告げました。

続けて、この収穫の時に天使たちが「つまずきとなるものと不法を行う者を御国から集め、炉の火に投げ入れる」と説明されました。そしてその時、「泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」とも言われました。(マタイ13:41-42)

 

この「炉の火」とは、聖書では「火の池」(黙示録20:15)とも呼ばれ、「いのちの書」に名前が記されていない人々が投げ込まれる場所です。悪人、つまり自分の罪を悔い改めない者の罰は、焼き尽くされる事なのです。

 

マラキが説明したように、

「万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。」(マラキ4:1)

続けて、神は正しい者たちに

「また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる。」(3節)

と述べています。

 

人間には不死の魂があると誤解している為、多くの人が、悪人は燃え盛る炎の中で永遠の苦しみを受けると誤解しています。

しかし聖書の教えはそうではありません。悔い改めない人間は、慈悲深く滅ぼされるのです。

 

【ここで魂に関してこの記事では簡単に説明しておきます。

「魂」と訳されているヘブライ語の単語は「ネフェシュ」であり、これは、生きていて、息をしている存在や生き物を意味し、アダムが「不滅の魂」を持っていた或いは与えられたという事を意味しているのではありません。

 

創世記2:7によると、アダムは「土のちり」から創られ、神がアダムの鼻から「命の息」を吹き込むまでは命はありませんでしたが、この「命の息」は不滅の魂ではありません。

なぜなら、息がなければ人間は死んでしまうからです。

「あなたが彼らの息を取り去られると、彼らは死んでちりに帰る。」(詩編104:29)

罪を犯した魂は永遠に生きるのではなく、死んでしまいます。(エゼキエル18:4,20)

そして罪を犯していない人間(魂)は存在していません。(ローマ3:23)

 

それからサタンの惑わしがあるという事も忘れてはいけません。

創世記3:4を確認してみて下さい。

「へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。」」

サタンは、善悪を知る木から食べると死に至る(創世記2:17)という神の宣告を公然と否定することで、「不滅の魂」といった教義の基礎を築き、罪を犯せば永遠に苦しめられるという教えを広めたのでしょう。

 

※今後詳しく「不滅の魂」に関しての記事を書いていく予定です。】

 

イエス様がご自分の再臨と世の終わりについて弟子たちの質問に答えられた時のことについて話を戻しますが、イエス様は選民、つまり罪を悔い改めてバプテスマを受け、神の律法に従って神を信じることを示した人が、いつ神の御国に入れるのかを説明しました。

 

その教えはこうです。

「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。」(マタイ25:31-34)

 

人々が神の御国に入る時というのは、イエス様が「栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき」なのです。

 

多くの人が信じている事とは逆に、人間はイエス様の再臨前に御国に入る事はないのです。

つまり、善良な人は死んでも天国には行かないのです。

 

聖書は、人は死ぬと体が地に戻り、思考が停止する事を教えています。(伝道の書9:5、詩編146:4)

 

神に忠実であり死んでいった人々は天国に行ったのではなく、墓の中で眠って、キリストの再臨、そして復活する事を待っているのです。(復活に関して①復活に関して②をご覧ください。)

 

ヨハネ3:13が示している通り、「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、誰も天に上った者はいない」のです。

 

では、死んだら天国に行くという考えはどこからきたのでしょうか?

歴史的にみると人間は長い間、死後の世界、つまり人間としての人生の他にもう一つの人生があると信じてきました。

例えば古代エジプトでは、亡くなった人の遺体を保存し、宝物を一緒に埋葬しました。彼らは、人間には死んでしまう肉体と、死後も生き続ける霊魂があると信じていたのです。

その後、ギリシャやローマでは、エジプトの考えを発展させ、死後、善人の魂は報われ、悪人の魂は罰を受けると考えた。そして本当に悪い人は、地獄で永遠に続く罰を受けると信じられてきました。

 

そしてこれらの古代人が理解していなかったのは、永遠の命がいつ人間に与えられるかという事でした。

 

このような概念を理解しないまま、多くの人が人間には不滅の魂があると思い込んでいたのです。

 

もし人間に不滅の魂があるのなら、人が死んだら魂は肉体を離れ、どこかに行かなければならないのは明らかですが、聖書が明確に教えているのは、「永遠の死」です。

「罪を犯す魂は死ぬ。」(エゼキエル18:20)

悔い改めていない魂(「魂」とは生きているものを意味する)は存在しなくなり、他の状態で生き続けることはありません。(ローマ6:23)

 

聖書は物事を前向きにとらえています。「世の終わり」とは、人類の滅亡を意味しているようなものではありません。不幸と苦しみに満ちたこの悪の時代が、イエス様の再臨によって終わり、私達の完璧な救い主が支配する素晴らしい世界、すなわち地上において神の国が始まる事なのです。(福音とは何なのかをご覧ください。)

 

その時には、世界はこのように変わります。

 

●戦争の時代は、平和の時代に変わります。

「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、

多くの民のために仲裁に立たれる。

こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、

そのやりを打ちかえて、かまとし、

国は国にむかって、つるぎをあげず、

彼らはもはや戦いのことを学ばない。

」(イザヤ2:4)

●欠乏の時代は、豊穣の時代に変わります。

主は言われる、

「見よ、このような時が来る。

その時には、耕す者は刈る者に相継ぎ、

ぶどうを踏む者は種まく者に相継ぐ。

もろもろの山にはうまい酒がしたたり、

もろもろの丘は溶けて流れる。(アモス9:13)

 

そして憎しみの時代は、愛の時代に変わり(1コリント13:4-13)、無益で腐敗の時代が自由と栄光の時代に変わるのです。(ローマ8:18-21)

 

使徒3:20では、来るべき時代を「恵みの時」(JCB)や「慰めの時」(口語訳)と呼んでいます。今のこの世が、恵み或いは慰めを切実に必要としている事を誰が否定出来るでしょうか。

 

そして聖書は他にも、このユートピアの時代が来ることを示唆しています。

ミカ書4章をご覧ください。

 

「末の日になって、

主の家の山はもろもろの山のかしらとして

堅く立てられ、

もろもろの峰よりも高くあげられ、

もろもろの民はこれに流れくる。

多くの国民は来て言う、

「さあ、われわれは主の山に登り、

ヤコブの神の家に行こう。

彼はその道をわれわれに教え、

われわれはその道に歩もう」と。

律法はシオンから出、

主の言葉はエルサレムから出るからである。

彼は多くの民の間をさばき、

遠い所まで強い国々のために仲裁される。

そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、

そのやりを打ちかえて、かまとし、

国は国にむかってつるぎをあげず、

再び戦いのことを学ばない。

彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、

そのいちじくの木の下にいる。

彼らを恐れさせる者はない。

これは万軍の主がその口で語られたことである。」(1-4節)

今のこの人間の時代が終わり、神の時代が始まる事を説明する為に、聖書が示すもう一つの例えは、妊娠、そして出産です。終末の世界は、陣痛を経験しながら(マタイ24:8)、神の御国という新しい時代を待ち望んでいるのです。

 

「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:22)

 

これらの聖句と今日の世界を見て、時代の終わりと、この地上に神の国を建てる為、イエス・キリストが再臨する事が、この世界で聞くことの出来る最高のニュースである事を確信して頂きたいと思います。

その日がいつなのかを私たちは正確に知る事は出来ません(マタイ24:36)が、私たちはこの良い知らせを広め、神の国の完全な律法によって生活をしていくという仕事を続けていれば、その日がいつ来るのか正確には分からなくても、準備が出来るのです。

 

良いニュースは、それが本当の終わりではないという事です。より良い世界の始まりなのです。