G線上のアリア       | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

       G線上のアリア        

                                    
                                           
 気だるい夏の午後であった。
「もう僕は駄目だ」
 Kは涙声で繰り返すばかりだった。
 予期していた事とはいえ、私はKにはうんざりしていた。                
 離婚の痛手から立ち直るようにして育てて来たKの恋が、暗礁に乗り上げていたのだっ - 
た。                                       ⑭ 
「今、彼女を失ったら僕は絶望だ」                         - 
 数日前、私を訪ねた時の、Kの言葉だった。
 恋人はKより十歳ほど年下で、可愛相な境遇の娘なんだと言う。可愛相な者同士が引き   
合わされたようにして結び合った愛なのに、恋人の父親が、Kの離婚の前歴や、定職の無   
さを理由に妨害をはかっているのだと言った。
 私は、二人の意志がはっきりしてさえすれば家を出て来ればいい事だし、親の理解はそ   
の後の事で、先ず彼女の心をしっかりと捕らえることだ。と恋人の居るKの故郷へ送った   
のだった。
「しっかりしろよ、高校時代、あの、どんな事にも恐れずぶつかっていった、あの勢いで   
    」
 私はじれったさをこらえ、Kを励ました。
「もう駄目なんだ」
 Kは泣きながら繰り返すばかりだった。
「死ぬなら死ねよ    」
 私はKの意気地の無さに、遂には腹を立て電話を切っていた。
 どうしてやる事も出来なかったし、離婚してまだ間がないというのに、私にはKの神経   
が解らなかった。
「行ってあげたら」
電話の側に居た妻が言った。                            - 
「いいんだよ、Kみたいなやつ」                          ⑮ 
私は・ 離婚の子・ であったし、Kを悲しむ前にKの二人の子供を悲しんでいた。     - 
 その日、私は何も手につかなかった。
 考え込む度に、妻はKの所へ行くことを勧めた。
 夜、私はKの実家の方へ電話を入れた。「死ね」と言ったKとは口をききたくなかった   
し、Kの母に先づ様子を聞いて見ようとした。
「今、病院から帰ったところなの、今日私が帰って来なかったら、死んでいたところだっ   
た」
 Kの母の息堰切った声があった。
 Kは睡眠薬自殺を計っていた。
                                           
 翌朝、私はKの故郷であるY市へ向かった。
急行で行っても八時間、いつも不便なY市だと退屈した車中だったが、その時ほど時間の   
立つのが早いと思った事はなかった。
 私はKを死に追いやろうとした。そのKが助かった。何をしてやったら良いのか、Kの   
ために何が出来るのか、私は考えなければならなかった。
 Kは母と、駅へ私を迎えに来ていた。
青黒い死斑のような跡を、頬の落ちた顔に浮かべてKは立っていた。
「出歩いても大丈夫なのか」
 私はやつれ果てたKの肩を、ぎこちなく抱いていた。                - 
「ああ、大丈夫だよ」                               ⑯ 
 Kはボソッと呟くと私から逃れて後ろを向いた。                  - 
 Kの母は私とKを見守るように立っていた。
 私とKはKの母が手配しておいてくれた、Y市郊外のホテルへ車で直行した。
 Kの身体が見るからに痛々しかったから。
 胃の洗浄をして、栄養注射だけで食事を何も受け付けないとKの母が行っていた。
 私は車中彼女とのその後の経過、自殺未遂の事など、過去は聞きたくないし、Kも話さ   
ないで欲しいとたのんでいた。
「君のために僕はこうしてここに居る。君が元気になるまで僕は付き添う。これが僕に出   
来る唯一の事だと思うから」
 私は、Kにしてやれることは何より一緒に居てやることだと思った。
 だがホテルへ着いてからのKは、失敗した口惜しさ、彼女への憎悪、絶望など少しも無   
かったように、人の死など何んでもないことのように、矢つぎ早やに話すのだった。
「もういいから、解ったから」
 私はKに又してもうんざりしてしまった。Kは本当に死ぬ気だったのだろうか、未遂に   
至ることを計算していたのではないだろうか、私はKに愚弄されているような、たまらな   
い気分になった。
 Kは私のそんな気分を感じてか、押し黙った。が、気まずい雰囲気になってしまった。   
 私は、Kはまだ興奮から醒めていないのだ、間違うば死ぬところだったのだ、と思い直   
しKを気分転換に、川沿いにあるという喫茶店に連れ出した。             - 
                                         ⑰ 
 外は身体にまといついて来るような闇だった。蛙の啼き声と、私とKの鳴らす下駄の音 - 
が闇の中に響くばかりだった。
 私はKに何も話せなくなっていた。Kは絶望の淵にあり、私に救いを求めていると思い   
駆け付けた。だが、絶望もしていない、Kは私になど何も求めてはいない。
 Kも私のそんな気持を察してか、うなだれて語らなかった。
 川沿いの道に出た時だった。
「蛍だ!」
 私は葦の茂みを飛ぶ数匹の蛍を見付けて言った。
「あっ、あそこにも」
 私は何年ぶりかに見る蛍に一人興奮していた。
「うん、ここは昔、蛍川って言うぐらい、蛍が生息していたんだ」
 Kが重い口を開くように、暫くして設明を加えた。
「蛍の群舞いって見たことある?」
 私は以前本で知った、幾千の蛍が繰り広げる光の饗宴を思い出して聞いていた。
「小さい頃、何度か見たよ」
 Kは蛍に余り興味を示さなかった。田舎にいて珍しいものでもない光景であろうが、私   
がふと見付けた安らぎに共感することもなく、私の質問以上は応えず歩き続けた。
                                           
 川面に灯りを映した瀟洒な店があった。黄色いランプが下がり北欧風の白壁と、漆黒の - 
梁材がむき出しになった、閑静なその店に、客は私とKの他はなかった。蛍の川と闇の中 ⑱ 
の一軒家、私は幻想的な雰囲気の中で、Kは本当に死にそこなったのだ、そのKが今、生 - 
きて私の目の前に居るのだと思いたかった。
 Kは自分から話しかけてくる訳でもなく、相変わらず黙り続けていた。
「本当に死ぬ気だったんだろう」
 私は思い余って言っていた。
 Kの瞳が白く光ったかと思うと、涙をうるませ私を睨んだ。
 私は「死ね」と言った以上の残酷な自分を見付けていた。

「ごめん、僕が悪かった」
 私は自分自身が嫌になっていた。Kの腑がいなさからではなく、Kに対し、他人に対し、  
いつも容易には素直になれない自分自身がだった。                    
 Kが本当に死んでいたら、どんなだったんだろう。精神病だった父の死を願ったように、  
私は数年もすれば忘れたのだろうか。いや、Kにだけは悔恨を残しただろう。私は過ちを   
二度も冒すところだった。
「僕は人を愛せない、僕は心から君のように、男らしく人を愛せる人間になりたいと思っ   
てきた。別れた妻も僕は必死で愛した、でも僕は駄目なんだ。愛せないんだ。今回の彼女   
との事も、自信が持てなくなってしまったんだ。僕は駄目な男なんだ。僕は人を愛せない   
不能者なんだ。悩んだ末、僕に残されているものは生命を懸ける位しかなかったんだ」
 Kは店員や私をはばかることなく、泣いて語った。私は嘗て、Kの此れ程の嘆きを聞い - 
ことがなかった。                                 ⑲ 
「許して欲しい」                                 - 
 私も泣いていた。Kは愛されたかったのだった。母のように人から愛され、人を愛した   
かったのだった。私にとっても愛の形はKと変わりはなかった。養護施設で育った私は、   
未だ二児の父親となっても、妻をどこかで母に見立てているところがあった。
 Kは幼児期、母が再婚し、母を義父に奪われたという、埋め合わすことの出来ない心の   
間隙をもっていた。
 Kの妻は母にはなってくれなかった。
「君は幸福になる資格を持っているんだ。今にきっと、君の理想とする女性が現れるよ、   
諦めないで何処までも探し続けて欲しい」
 私は夏の夜のロマンチックな気分からではなかった。高校時代から悩んでばかりのKに   
は、心から幸福になって欲しいと願って言った。
「なれるんだよ僕等は」
 私はKの手を握っていた。
 Kも私の手を握り返していた。
 帰り、私とKは手を握り合って歩いた。私は初恋の、手を握り合う事が精一杯だった、   
遠い昔に忘れてしまっていた感情を蘇らせていた。
 握り合った手が離せなかった。離すとその感情が消えてしまうような、かけがいのない   
もののように、私は人通りに出ても彼女の手を離さなかった。彼女は恥ずかしそうにうつ   
向いていた。私は人を睥睨するように、ゆっくりと踵に重心をかけて誇らし気に歩いた。 - 
汗ばんだKの硬い手があった。                           ⑳ 
「ホモって感情分かる?」                             - 
 私はKに聞いていた。
「世にいう性倒鎖は分からないけれど、友情と愛情が一体になったような世界はあると思   
う」
 私とKは高校時代から・ ホモ・ じゃないのかなどとからかわれた。だが私はけっしてK   
を好いてはいなかった。励ましはしたが、Kに依存したり、Kに友情を感じたりした事も   
なかった。どこかで、いつも私がKを庇護する立場ばかりだったから。
「僕は今、初めて君を真の友人だと思う」
 私は初めて口にする言葉のせいか少し上擦った。
「僕はずっと昔から、君に最初に会った日からそう決めていた」
 Kは普段の、なんの恥らいもない声で言った。
 私はひどくうろたえた。Kは手紙ではよく僕のバイブルへなどと書いて来たが、何とも   
思っていなかった後ろの席の女の子に、突然好きだったと告白された時のようなとまどい   
を感じた。
「悪かったよ、僕は今日から真の友人になるから、挫けそうになった時、僕だって君に助   
けを求めるから、その時はきっと受け止めてくれよ」
 私は少年のようにこれらを言い終えると、深い感動を覚えていた。それは人生において、  
こんなことってあるのだろうかと思えるほどのものだった。どんな悔しい時でも、一人で   
耐えて来てしまった私であった。やっと最近になって、妻に対し少しは素直になる事が出 - 
来るようになった私であった。                           1 
                                         2 
「俺は愛するぞお、人生を愛するぞお」                       - 
 Kは私の手をふりほどくと、駆け出し、闇の中に向かって叫んでいた。
 狼の遠吠えのように、それは暗闇に響き渡った。
「俺だって愛するぞお、人間を愛するぞお」
 私は少しアレンジして叫んだ。人生については分からなかったが、人間については愛し   
て行きたかった。
 暗闇の堤防の上にKが立っていた。
「ホラ、あれが蛍の群舞いだよ、小さいけど」
 来る時見た、葦の茂みの辺りを指差してKが教えてくれた。無数の蛍が一つの塊のよう   
になって葦の上を飛び交っていた。闇に様々な光跡を描きながら、仲間同士で戯れて合っ   
ているようだった。
「すごいなあ」
 私は初めて見る光景に見とれていた。こんな自然がどこにでもあったなら、僕等人間は   
もっと愛し合えるのに、私はKと自然の不思議さに心を奪われていた。

 翌日、健康を恢復したKがY市を案内してくれた。KはY市で高校一年まで過ごしたが、  
非行と暴力事件のかどで退学になり、隣県の私が通っていた夜間高校へ転校して来た。
 退学になったとはいえ、Kにとって母校は思い出深いもののようだった。       - 
「校舎は面影もないが、あの裏山、あそこが僕等の喫煙室だった」           2 
 Kに昨日までの淀みはなかった。忘れていた、恐れず進んだ青春の自分を取り戻して行 2 
くようだった。                                  - 
「早めに引き払って東京へ来いよ」
 私は一人ホームで見送るKに言っていた。
                                           
 Kと別れて一ケ月が立ってからだった。
     Kシス、アスシキ    というKの母からの電報を受け取ったのは。
 KはY市を見下ろすK岳で死んだ。夏山の荷揚げ人夫をしていて、誤って転落したのか、  
故意で落ちたのか、遺書も無いままに、数百メートルの断崖を落ちていったのだった。
                                  了        
                                           
       
                                    
                                           
  作品分析と本文:G線上のアリア                                         


1. あらすじ

離婚の傷から立ち直りかけていた友人Kが、新しい恋の破局をきっかけに睡眠薬自殺を計る。かつてKに「死ぬなら死ね」と言い放ってしまった語り手の「私」は、自責の念に駆られ、Kの故郷であるY市へと向かう。

病み上がりのKと共に夜の川沿いを歩き、喫茶店で対話する中で、二人は互いの生い立ちや「愛に対する欠落感」を共有する。Kが吐露した「自分は人を愛せない不能者だ」という絶望を、「私」は真正面から受け止め、二人の間に「真の友人」としての絆が生まれる。夜闇の中での「叫び」と、蛍の群舞。再生の予感に満ちた別れから一ヶ月後、Kが山で転落死したという電報が届く。

2. 登場人物分析

私(語り手)

「離婚の子」であり、養護施設で育った過去を持つ。

冷淡で合理的な一面があるが、それは自分自身が「素直になれない」ことの裏返し。

Kに対して当初は苛立ちを感じていたが、彼の孤独の深さに触れ、自身の欠落を認め、彼を「真の友人」として受け入れる。



幼少期に母が再婚し、「母を義父に奪われた」という喪失感を抱えて生きている。

「人を心から愛せない」という悩みを抱え、その誠実さゆえに絶望し、命を懸けることでしか自分の感情を証明できないと考えている。

かつては恐れずぶつかっていく勢いのある少年だった。

3. 主要な象徴とテーマ

蛍(ほたる)

闇の中で儚く光り、戯れる蛍の群舞は、二人が一瞬だけ分かち合った「純粋な友情」と「生の輝き」の象徴。

G線上のアリア

タイトルの由来(バッハ)。一本の弦(G線)だけで奏でられる旋律は、不器用で、一つのこと(愛や孤独)にしか縋れない彼らの生き様を暗示している。

「愛せない」という悩み

愛を求めるのではなく、愛せないことを罪悪感として抱えるKの姿は、現代的な孤独の深淵を描いている。

4. 整形済み本文(読みやすくレイアウトを調整)

G線上のアリア

 気だるい夏の午後であった。
「もう僕は駄目だ」
 Kは涙声で繰り返すばかりだった。
 予期していた事とはいえ、私はKにはうんざりしていた。離婚の痛手から立ち直るようにして育てて来たKの恋が、暗礁に乗り上げていたのだった。

「今、彼女を失ったら僕は絶望だ」
 数日前、私を訪ねた時の、Kの言葉だった。
 恋人はKより十歳ほど年下で、可愛相な境遇の娘なんだと言う。可愛相な者同士が引き合わされたようにして結び合った愛なのに、恋人の父親が、Kの離婚の前歴や、定職の無さを理由に妨害をはかっているのだと言った。

 私は、二人の意志がはっきりしてさえすれば家を出て来ればいい事だし、親の理解はその後の事で、先ず彼女の心をしっかりと捕らえることだ、と恋人の居るKの故郷へ送ったのだった。

「しっかりしろよ、高校時代、あの、どんな事にも恐れずぶつかっていった、あの勢いで……」
 私はじれったさをこらえ、Kを励ました。
「もう駄目なんだ」
 Kは泣きながら繰り返すばかりだった。
「死ぬなら死ねよ」
 私はKの意気地の無さに、遂には腹を立て電話を切っていた。

 どうしてやる事も出来なかったし、離婚してまだ間がないというのに、私にはKの神経が解らなかった。
「行ってあげたら」
 電話の側に居た妻が言った。
「いいんだよ、Kみたいなやつ」
 私は「離婚の子」であったし、Kを悲しむ前にKの二人の子供を悲しんでいた。

 その日、私は何も手につかなかった。考え込む度に、妻はKの所へ行くことを勧めた。
 夜、私はKの実家の方へ電話を入れた。「死ね」と言ったKとは口をききたくなかったし、Kの母に先づ様子を聞いて見ようとした。
「今、病院から帰ったところなの。今日私が帰って来なかったら、死んでいたところだった」
 Kの母の息堰切った声があった。
 Kは睡眠薬自殺を計っていた。

 翌朝、私はKの故郷であるY市へ向かった。急行で行っても八時間。いつも不便なY市だと退屈した車中だったが、その時ほど時間の経つのが早いと思った事はなかった。
 私はKを死に追いやろうとした。そのKが助かった。何をしてやったら良いのか、Kのために何が出来るのか、私は考えなければならなかった。

 Kは母と、駅へ私を迎えに来ていた。青黒い死斑のような跡を、頬の落ちた顔に浮かべてKは立っていた。
「出歩いても大丈夫なのか」
 私はやつれ果てたKの肩を、ぎこちなく抱いていた。
「ああ、大丈夫だよ」
 Kはボソッと呟くと私から逃れて後ろを向いた。

 私とKはKの母が手配しておいてくれた、Y市郊外のホテルへ車で直行した。胃の洗浄をして、栄養注射だけで食事を何も受け付けないと母が言っていた。私は車中、彼女とのその後の経過や自殺未遂の事など、過去は聞きたくないし、Kも話さないで欲しいと頼んでいた。
「君のために僕はこうしてここに居る。君が元気になるまで僕は付き添う。これが僕に出来る唯一の事だと思うから」

 だがホテルへ着いてからのKは、失敗した口惜しさ、彼女への憎悪、絶望など少しも無かったように、人の死など何んでもないことのように、矢つぎ早やに話すのだった。
「もういいから、解ったから」
 私はKに又してもうんざりしてしまった。Kは本当に死ぬ気だったのだろうか、未遂に至ることを計算していたのではないだろうか、私はKに愚弄されているような、たまらない気分になった。
 Kは私のそんな気分を感じてか、押し黙った。気まずい雰囲気になってしまった。私は、Kはまだ興奮から醒めていないのだと思い直し、気分転換に川沿いにあるという喫茶店に連れ出した。

 外は身体にまといついて来るような闇だった。蛙の啼き声と、私とKの鳴らす下駄の音が闇の中に響くばかりだった。
「蛍だ!」
 私は葦の茂みを飛ぶ数匹の蛍を見付けて言った。
「うん、ここは昔、蛍川って言うぐらい、蛍が生息していたんだ」
 Kが重い口を開くように説明を加えた。幾千の蛍が繰り広げる光の饗宴を思い出して聞く私に、Kは「小さい頃、何度か見たよ」と余り興味を示さず歩き続けた。

 川面に灯りを映した瀟洒な店があった。黄色いランプが下がり北欧風の白壁と、漆黒の梁材がむき出しになった、閑静なその店に、客は私とKの他はなかった。
「本当に死ぬ気だったんだろう」
 私は思い余って言っていた。Kの瞳が白く光ったかと思うと、涙をうるませ私を睨んだ。
「ごめん、僕が悪かった」
 私は自分自身が嫌になっていた。他人に対し、いつも容易には素直になれない自分自身が。

「僕は人を愛せない。僕は心から君のように、男らしく人を愛せる人間になりたいと思ってきた。別れた妻も僕は必死で愛した。でも僕は駄目なんだ。愛せないんだ。今回の彼女との事も、自信が持てなくなってしまったんだ。僕は人を愛せない不能者なんだ。悩んだ末、僕に残されているものは生命を懸ける位しかなかったんだ」
 Kは店員や私をはばかることなく、泣いて語った。
「許して欲しい」
 私も泣いていた。Kは愛されたかったのだった。

「君は幸福になる資格を持っているんだ。諦めないで何処までも探し続けて欲しい」
「なれるんだよ僕等は」
 私はKの手を握っていた。Kも私の手を握り返していた。
 帰り、私とKは手を握り合って歩いた。握り合った手が離せなかった。離すとその感情が消えてしまうような、かけがいのないもののように。

「僕は今、初めて君を真の友人だと思う」
「僕はずっと昔から、君に最初に会った日からそう決めていた」
 Kの声に、私はひどくうろたえた。
「悪かったよ、僕は今日から真の友人になるから。挫けそうになった時、僕だって君に助けを求めるから、その時はきっと受け止めてくれよ」

「俺は愛するぞお、人生を愛するぞお」
 Kは私の手をふりほどくと、駆け出し、闇の中に向かって叫んでいた。
「俺だって愛するぞお、人間を愛するぞお」
 私は少しアレンジして叫んだ。
 暗闇の堤防の上にKが立っていた。
「ホラ、あれが蛍の群舞いだよ、小さいけど」
 無数の蛍が一つの塊のようになって葦の上を飛び交っていた。
「すごいなあ」
 私はKと自然の不思議さに心を奪われていた。

 翌日、健康を恢復したKがY市を案内してくれた。Kに昨日までの淀みはなかった。忘れていた、恐れず進んだ青春の自分を取り戻して行くようだった。
「早めに引き払って東京へ来いよ」
 私は一人ホームで見送るKに言っていた。

 Kと別れて一ケ月が経ってからだった。
「Kシス、アスシキ」という電報を受け取ったのは。
 KはY市を見下ろすK岳で死んだ。夏山の荷揚げ人夫をしていて、誤って転落したのか、故意で落ちたのか、遺書も無いままに、数百メートルの断崖を落ちていったのだった。

(了)