「3.11で終わるはずが」 コロナで、政治がまたしても問題に、私の生が問題であるのに | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

「3.11で終わるはずが」

コロナで、政治がまたしても問題に、私の生が問題であるのに、コロナも、原発も、世界の邪悪も、私対世界の営みであること、コロナから一年、クレートリセット、ワクチン、世界支配、人口削減、原発再稼働、時に核戦争、私の死迄には様々ありはするが、全て私対世界の、世界の営み、私は私へ、もう止めよう、再びツァラトウストラは洞窟へ、人生あと2500日足らずなのだから、

「国家の終焉が」

このような形で進むとは、国家だけではなく、文化、芸術、人の営為全てが、無の上に置くこととなる、シュティルナーも想像しなかっただろう、最も原始的な人間命題、無の上に私を据えるという、どのような絶望を前にしても有効な、無というもの、全存在を包合する、人の意識の極、核とは違う、目に見える、直ちに現れる、世界同時の、人間の闇、全歴史を、全文化を洗い流す、人意識の無というものが、

「9.11も3.11もコロナも」

不況、失業なんて関係ないのではなく、どうすることも出来ないのだから、台風のようにやり過ごす事しかないと、庶民は従ってしまうのだ、それが陰謀論、ヤラセで、それが戦争あっても、仕方がないと従う庶民というもの、

「3.11以降は」

ガンからの生還と同じように、何が起こっても動じない、コロナなどたとえ億人が死のうが、グレートリセットで恐慌が起きようが、マスクもワクチンも、私はやらないし、人とも会いたいとも思わないし、世界は私対世界で対象化している、私は私で充分に世界を楽しんでいる、

私の死を考えている、73才の癌、コロナ後の、リルケに不条理感は無い、死への恐怖なだけ、35才のリルケ、世界に死が、不条理が蔓延、明らかとなった現代、実存が本質、人為、自明性を持ち、独自な対峙の死など人には無く、サルトル的死など、只の事実となり、今の今が実存、

「誰かの為に」

何かの為に、ものを書き、考えているのはなく、私の為の、私の人生の為にやっていること、私が世界を絶望、無為と捉えれは無為、が、有為と捉えれば有為、それが私の為の文学ということ、

「トランプ革命が嘘であっても」

本質的な革命が、金融制度の革命無くしてもあり得ないことを、ゲサラ、ネサラを通して達成することの、嘗ての世界同時革命、連続革命の視点であった、それを今観ていると思うと、心躍る、共産主義という、全体主義ではない、個人主義の革命、

「彼らグレートリセットを」

先ずやりたいのだ、資本主義のグローバリストの、持続可能の為に、その為のコロナ、最終兵器は世界統一政府、今日のコロナでぼぼ確かめられた、次は更に強力な体制と、ウイルスを使い完成へと、これらを人類は許すのかが、これからの10年、見ものだ、グレートリセットへ向かっての実験中、先ず不況、貧困、借金漬けにしておいて、ベーシックインカム等を必要とさせ、リセットへ、何年かけても、その間コロナは持続させ、

「大東亜共栄圏と」

ニューワールドオーダー、そしてグートリセットと、政治経済が人間を規定している現代、文学がそれらをテーマにしないではいられない、管理、支配としての国家を超えた、世界政府、その為のシステム、支配階級の考えが、個人へと、私へと、どのように関わって来るのか、私対世界ではあるが、

「ウミネコとハトとカラスと戯れ」

コロナのいら立つ世界にあって、一人マスクもしないで、鶴見川堤防に腰掛、鳥たちに持参したカロリーメイトを砕いて投げ与えた、次々と寄ってくる、健気な鳥たち、100羽以上の鳥たちに、たった2本のカロリーメイト、それでも皆で突いていた、死刑囚が今日もスズメが来てくれましたと、スズメと遊ぶ気持ちを味わった、川沿いの道を、よろよろと、また速足で行く人々を、私はコロナ以前と全く変わらず、暮らし、眺め、それら人々を思いやり、イタリアが楽しかったのは、観光客の楽し気な姿だった、世界は何時も楽しんでいる人の姿があってこそ、政治は、権力者は、迎合者は暮らしを冒し、壊し、否、迎合している国民が、人間の罪、罰、ワクチン、リセット、まだまだ続く、人間への罰でいい、

「私の星ではないのだから」

私対世界と言った時、この星は私のものではなくなった、彼らのものだから、私が彼を眺めるだけ、住まわせてもらっているだけ、私は、草木、動物、虫達と只在るだけ、

「哀しみ」

私対世界が、哀しみの感情に、世界の腹立たしさが、私に対する世界が、自然は何も変わらず普遍だが、人間世界だけが、哀しみ、愚かしさに、世界から愛されたいたのだった、自然だけではなく、世界からも、

「人々の会話」

今回のワクチンは、変異したウイルスでも、対応しているそうだ、コロナは怖い、予約の電話を入れる者、公共の福祉、指定感染症は強制される、小学校の時、赤痢が流行り、保菌者も隔離された、嘗てライが、例えコロナが嘘であっても、世界は確実に私を喪失している、狂っているではなく、消えている、ペストの世界とは違う、カミュのペストの恐怖からではない、自らを持たない、公衆衛生の名の下に、

「TVのプロパガンダ」

しゃーしゃーと本日の感染者は4000人がとか、病院はレベル4の逼迫、インドの新型ウイルス18人とか、韓国ではワクチン打てば、集会でマスクはずせるとか、12日目で高熱が出てICUに入ったとか、老人には在宅医が出張注射とか、コロナ一色の報道、

「彼ら」

自由にいくらても印刷出来、金など必要なし、ビルゲイツでさえ100兆円を持ち、ロスチャイルドなど1000兆ドルの資産だと、1%が99%の資産を持つ世界、3.11が人工地震、コロナが細菌戦争であっても、少しも不思議ではない、陰謀論と言われる、9.11etcの出来事が、全て可能な、現実に日々行われている、戦争、謀略の数々、そうした現実、歴史の中の人間の在り方、ニヒリズムからの、絶望からの、悪との闘いへと、

「キャリーマリス等」

PCR開発者、ワクチン開発者が、ワクチン
PCRの中止を呼び掛けも、やり続ける勢力
神は死んだの世界から、悪魔は生きている時代へ、乗せられ、支配されていく者ら、無知というより世界のカラクリである、国家、歴史、経済、宗教、教育、あらゆる人間社会というものが、カラクリで成り立っているのだから、作家らYも、Hも、女のYも、反原発の者らも、皆ワクチン信仰となるのは致し方ないこと、

「金融、政治、全てを支配しているのに」

今更、やろうとしている事が人口削減とは、そして、この支配を完全なものにと、対立、分割して支配、コロナプランデミックは大成功、

「ニーチェ(1844~1900)55才」

1872~悲劇の誕生 28才
1876~反時代の考察 32才
1878~人間的な余りに人間的な 34才
1881~曙光 37才
1885~ツァラトゥーストラ 41才
1866~善悪の彼岸 42才
1877~道徳の系譜 43才
1888~この人を見よ 44才
    ワーグナーの場合
   ニーチェ対ワーグナー
   偶像の黄昏
   アンチクリスト
遺稿集~力への意思
    生成の無垢
1889~トリノで発狂