「大橋教授」謙虚に、系統的に、今日のコロナを理解し、ネットで配信している | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

「大橋教授」

謙虚に、系統的に、今日のコロナを理解し、ネットで配信している、日本で唯一の学者、1953生まれ、徳島大、医学博士、よく勉強している、断定、推測ではない、状況証拠を積み上げ、コロナ騒動を見つめている、世界で何人も、そうした学者、医師はいるが、抹殺され、表には出てこない、氏の視聴回数も4.5千人、投稿ビデオは50本くらいあった、見ておかないと、このコロナ騒動の洗脳は解けない、多く世界の人間が騙されるのも無理もないと、今世紀最大の嘘、策略、陰謀が成功している、

「思想が、政治が」

その都度私に迫った、その度に、私にとっての思想を積み上げ、図ってきた、家族に対し、社会に対し、文学、病気、死に対し、私対世界へと、思考の多様性、柔軟性、その上での統一戦線、これは基本的人権といえど、愛と言えど、真理といえど、又は暴力、ファシズムといえど、人間という、生命の持つ生存欲、幸福欲、を本質と見る観点、全てはこの本質から発生しているという、伊勢崎賢治、国際紛争請負人はここに依拠しているのだ、喧嘩を、いかに今を、和解させるには、これらの回復によるのだから、支配、暴力、抹殺で生命は生きられない、

「世界トップ10シンクタンク」

世界の利権獲得と、コロナによる反グローバルのジレンマ、中国問題がほとんど、中国をどうするか、コロナによって世界資本格差拡大、又強者の、弱者吸収、これはコロナによる利得、世界政治、政府を掌握できるチャンスと、上から下まで、この流れとなる、誰かがつぶれれば、誰かが利権を得るという、それは労働者、貧困層においても、人の犠牲で利得を得る流れ、これらが限界を迎えてコロナは収束する、こうした中で世界政府、強力な国家支配が完了、背後に勝ち残ったロス一派となる、世界は見えている、私は何をしたいのか、

「冬さんとの思い出」

Jが、山の文学学校で、生徒の誰一人、冬さんと一緒に風呂に入ろうとしなかったと、私は若き日、歌人の沢田氏を栗生園に訪ね、そこで冬さんを紹介され、夜には沢田氏と草津の街中に在る、共同風呂にも一緒に行き、昔は町営の風呂には入れなかったと、科学では分かっていても、感情では怖いとする、北條民雄の手紙にすら、菌があるのではないかと、怖がった志賀直哉、多く人間にある、家、部落、社会、国家、人種、文化による、安心、共感と、それらに対し、異質なものへの怖れ、ドイツ人のユダヤ人への、優性思想という、部落民への、朝鮮人への、障害者への、社会、国家によって、作られたものではあるが、依存、依拠して来てしまったものへの枷、感情が自由になれない、らいの恐怖とコロナの恐怖、科学への無知、とは言え、現代でも、もしインターネットがなければ、大本営発表だけとなり、現在のコロナ騒動のように、すべては洗脳され、この洗脳からの自由は、理想でも、正義でも、真実でもないことの、絶望の認識、絶望の共感、その上での、私対世界の生き方、唯一者としての、この時間、この世界に今在ることの、

「核は怖くなかったのに」

コロナは怖いと、何が怖いのか、病むこと、死ぬこと、感染症は因果関係がはっきりしていると、核は怖くない、なぜ怖くないか、直ちに影響はないからと、因果関係がはっきりしていないからと、直ちにか直ちにではないか、直ぐ死ぬか、ゆっくりか、共通しているのは死ということ、ゆでガエルの譬えのように、人は、生き物は、直ちにではないものには鈍感、

「壊れる世界を」

耐えようとする者、冷笑する者、見続ける者、かつて全共闘が、中国紅衛兵が、また最近のアルカイダが、全否定の、破壊の美学を、同和の糾弾の、どれもが先に自己の正当性と、未来、希望を願っての、しかし、このコロナの破壊は、それら仲間内の、被支配者同士の、内輪もめにしか過ぎない、子供の喧嘩などではなく、世界を破壊する、遺伝子を組み換え、人間そのものを破壊する、意図された、支配者の最終戦、この蛮行で支配者は、その狂気を露わにし、生き残る人によって消去されるだろう、そして新しき世界へ、愛だけを糧とした世界へと、

「大西発言」

大西のチャンネルを、生放送で見ていて「老人問題を解決するのは、政治の仕事」と、医療費、介護費の財政問題から、「高齢者から逝ってもらう」と、生命の選択を事も無げに言っているのを見て、こういうことをハッキリ言う男なのだと、
若者に対し(ネットは若者ばかり)、恰好付で言っているなと、が、これを見ていて危険だと感じた者が、問題にし、大西はれいわを除籍となった、大西は金融論で、貨幣論から、政府主導の財政を説いていた、良いだろうと支持していた、今回、コロナが始まってから、老人問題も、優性思想も、トリアージも、安楽死、尊厳死も、人生とは、生きるとは、を議論し合うことが必要だと、コロナに対しても、大したことはないと、マスコミが煽っているだけと、マスクなしで、講演会も自粛しないでやっていた、れいわは自らの信じるところで、発言し、行動する者の集まりで、良い所だと、が、生命の問題は、財政の、優劣の、問題ではない、誰の、どんな生命であっても、犯してはならない、は、人類が到達した人としての定義であろう、死刑囚、ライ、障害者、捕虜、狂人といえど、生命の尊厳は犯すべからず、は、自明であることが、人としての規定、10人を助けるために、1人を殺してもよい、殺人者は死刑、死には死を、正当防衛論の前に、人の尊厳は普遍、汝殺すなかれは前提、例え相手が殺しに来ても、正当防衛で殺してよいではない、まして、財政、リソースの問題ではない、人の理念、思想、哲学の問題でもなく、人の前提、世界の現実の、絶望状況であっても、変わらない人としての前提、規定、絶望を通して、一切れのパンを分かち合う、絶望を通して、生命を差し出す、障害者を育てる、生命を繋ぐ、脳死についても、これからの絶望世界とは、人がどんどん死んでいく世界、意識なくただ生きている存在であっても、人の姿を保っている、それだけで生命である世界、核世界とは、未来でなく現実であることの、

「絶望主義の私対世界」

人や社会がどのようであっても、私は絶望から世界を見据え、私対世界で対するということ、脳死に対して、生かし続けろと言い、あらゆる生命的なものを、生かし続けろと言い、それでいて許されよと、他の生き物の命をいただいて、

「それでいながら」

アルツハイマーになったら、死んでもらいたいと、私が言ったと、エミの唐突なの言葉、言ったかもしれないが、なぜ言ったのだろうと考えた、降圧剤は認知症の危険があると、そして、減薬を話し合った時のことのよう、エミコも、私も、死ぬまで意思を通わせられる存在であって欲しい、薬や、医師に依存せず、自分で健康を管理して欲しいと、おそらく私はブンに対したように、可愛かった、愛したと、どんな状況に到っても、記憶を蘇み返えらせ、看病し続けるだろう、人とは、人間とは、高低、優劣、幸不幸ではない、在ること、在ったことを味わう存在だと、エミのアルツハイマーを味わうだろう、

「人の私の死」

明日死ぬとも、今日の今在ることを、今日までの私があること、記憶に、感情に、私は続いていることの喜びで味わい、これが全て明日潰えるとも、過去、記憶を通した、私があることの、これで十分な人生、家族の死も、友人の死も、私の記憶、私という人も、存在と同じ、世界も、核で疾病で絶滅しても、今在る世界で充分な、核汚染を生きる、生物、自然への信頼、人は絶えても世界は在ることの、生命という、DNAという、原子の化合物、有機物という、物、存在、宇宙という空間の永遠、これらを感じ、味わえる今というもの、私亡き後も在るという、存在への信仰、喜び、味わい、畏敬、共感、