「放射能は怖がらないで、コロナは怖がる」 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

「放射能は怖がらないで、コロナは怖がる」

3.11で日本の終わりを考えた者、コロナでは自分の死を考える者、世界の終わりと自分の終わり、ゆっくりと直ちにの違い、コロナの直ちにの恐怖、突然死のTV映像、詐欺、ヤラセ、世界金融資本による世界支配のプログラム、19c、それを帝国主義と言い、革命で以ってと、が世界金融資本は、背後で互いを操り、日本は満州事変の借金を最近まで支払っていたと、世界は何世紀も前から、彼らの手の中に在り、コロナは恰好の道具で、IMF支配、借金漬け、更なるグローバル化、食料、水、気候、医療、あらゆる物、人の意識と、

「林達夫が」

骨のある、良く世界を見ていた者だと、選集を買ったが、雑事への小文、つまらぬ、変革への志向がない、立ち位置が詰まらない、アメリカ生活の経験から、日本を見る位置、世界そのものを見れない位置、現代の批評家、作家たちと同じ、何かとの比較で論じている、
マクロ、根本への問いが無いなら、作庭記に感心する花田、作庭記がデレッタンティズムに過ぎないのに、思想の運命、共産主義的人間、ファーブル昆虫記訳、ベルグソン笑い訳、鵠沼の林邸、
コロナ禍にあって、あらゆる芸術文化がディレッタントに過ぎず、読むに耐えないのだ、3.11の時と同じ、またしても読む本が無くなってしまった、

「絶望をもって私対世界を」

表現の不自由や、パンデミック規制や、失業、格差、ワクチン、監視社会に対して、対立しても、反抗しても、絶望を通して、私対世界として、3.11を絶望と捉えた者にとって、世界は、私対世界であることの自明、

「非国民、アカ、エゴイストと、」

デモクラシー、反権力、個人主義とは、近代人としての感情、思想が未発達なだけ、絶望を通した時、人は一瞬にして、それらを超える、絶望だけが有効、世間や、社会や、国や、宗教を超え、私対世界へと、

「辺見に対して~コロナ時代のパンセ~」

私権の制限の体験
国家を知る体験
大本営の体験
一億玉砕の竹やり体験
欲しがりません勝つまではの忍耐の体験
自粛警察、隣組の監視社会の体験
営業権、集会、外出停止の体験
孤独、引きこもり、死、不信
スローライフ
善人と悪人、利権、御用の明確化
原発と違う、その人間の本性が現れ
陰謀論の見定め
個人の頭で考える人間群へ
アフターコロナがそれらを明確にし
絶望を通した連帯の社会へ

「どこかの花畑で、チューリップを切っている」

どこかの学校で、段ボール箱の中で勉強させている、どこかのスーパーで、2m離れてレジに並ばせている、どこかのレストランで、客を飛び飛びに座らせている、40℃の炎天下でマスクをしている、情報操作をすれば、世界は簡単にコントロールできることを、DSは味わった、次はもっと確実に、新型ペスト、新型エイズ、新型コレラ、etcと、

「辺見の『月』の問題」

人間はナチズムを超えていない、障害者への目線は死刑制度と同じと、
今、コロナによるパンデミック、ワクチンによるジェノサイドが進行している中に在って、『1937』と同じ自己糾弾、総括であっては、DSの確信的、悪魔主義とは戦えない、ジャック・アタリ、クラウス・シュアブ、ハラリへの、ナチズムを超えた、「1984」の現代版への、死刑制度も、優性思想も、パワーエリートの支配道具、ワクチンと称する人遺伝子操作、人口削減、ナノチップによるコントロール、人道も、倫理も、津波のように飲み込み進行している、
人に生きる権利があろうが無かろうが、障害があろうが無かろうが、生まれたからには生きる、私対世界の、絶望を生きる、

「全てを解決したいと」

人生の意味、目的、人生上の、人間の全ての問題を解決するために、生きてきたのだと、文学、哲学、芸術、音楽、政治、etcの、全ての問題を解決する方法を、それが絶望の肯定、認識、確認、一遍の、全て捨てると同じだが、捨てて生きる、が絶望を通す生き方であった、存在の、私という至高性を味わったが故の、絶望、全て捨てるが、唯一者の視点から可能に、

「何処から来て、何処へ」

穴の開いたズック靴、恥ずかしいと思った、何故?、貧しいから、貧しいと何故?、ここから始まった、そして、頭が良い悪い、一家団欒の、
母の家出、父の逮捕、居候、養護施設、日課、労働、母子寮、夜学生活、政治活動、団体職員、充実、空虚、向学心、文学熱、
ここから私は来た、
そして、癌、
私対世界の構築、
そして、3.11、
絶望主義の確立、
そして、コロナ、
唯一者とその世界である、私対世界、絶望主義が、決定的なものに、
私たちは何処へ、

われらは何処から来るか?
われらは何であるか?
われらは何処へ行くか?
(ポール・ゴーガン)

外は明るいのに、画面全体はさわやかな陰影になっていて、この青紫から赤褐色にいたる、さまざまの色調の入り混じった薄明かりの空間のうちに、生気が漂い流動するのを感じ、生命の神秘にうたれる、植物・動物・人間を通じて、均しく万物を生かす精霊の無数の粒子がそこに満ちているごとく、それらが大河の水流のように、
右端、泉から流れる小川のそばに、睡る幼児と坐る3人の女が「われわれは何処から来るか?」のテーマを示し、まんなかの果実をとる大きな人物が「われわれは何であるか?」のテーマを示す1群の人びとの中心となり、左端に、死を考えながら諦める老女の坐る姿が「われわれは何処へ行くか」のテーマの中心をなす。

ジャック・アタリ、クラウス・シュアブ、ハラリ、は何処へを、世界連邦政府、AI、サイボーグ社会、と、
私は、科学否定、自然と一体、縄文社会へ、絶望世界の後には、人間社会の始原への回帰が、人はそれで十分に生きられる、

「絶望主義」

グローバル資本家の人生を、人生とは何だったのかと、描いたとして、このグローバル世界をフーコーのように、構造として、監獄社会と規定しても、それは既知のこと、人はそれでもってどうするわけでもない、ただの知識としてなだけ、絶望主義でさえ、ただ首肯するだけ、生き方の、価値観の、基底とはならず、宗教、啓蒙、科学、etcを超える、これからの人類の、共有感情、共有精神であるのに、
アタリ、ハラリ、などによって、それらはスポイルされ、世界連邦、人口削減、エリート、テクノクラートの支配へと、

「コロナパンデミック」

が、やらせ、策略であっても、それで世界が弄ばれ、翻弄されたとしても、核の絶望の前には戯言に、3.11で絶望した者にとって、コロナは如何に、原発安全神話、アメリカの核支配、メディアコントロール、軍産学複合体、原発再稼働、日米合同委員会、世界は支配する者によって支配されていた事の自明、コロナがWHOを支配する者によって為されていることの自明、

「何処まで、何を」

3.11で世界の絶望は決まっていた、その上でコロナ禍、グローバル企業、国際金融資本、ディープステート、限られた寿命の中で、楽しんでいる、アフターコロナ、世界不況、世界分断、何であっても、何処へでも良いこと、絶望の前には何事も無、

「反核とコロナ」

世界がDSやらの陰謀、操られていること(スペイン風邪はペニシリンが原因であった)を、自明とし、理想を、希望を信じて闘う者、闘いはするが、虚無な者、多く作家は虚無な者、多く政治家は希望する者、反ワクチン派は多く虚無な者、反核者が、コロナ陰謀にのせられ、パンデミックの詐欺に呑まれ、自粛、検査、マスクと、反権力は何処へやらで、やっていることを冷笑し、更なる虚無に、