ポール・ゴーギャン10
少なくとも最初の1年は、絵を描かず彫刻に集中していることをモンフレーに伝えている。この時期の木彫りの彫刻が、モンフレーのコレクションとして少数残っている。『十字架のキリスト』という、50センチメートルほどの円柱状の木の彫刻を仕上げているが、ブルターニュ地方のキリスト教彫刻の影響を受けたものと思われる[54]。絵に復帰すると、『ネヴァモア』のように、性的イメージをはらんだヌードを描くようになる。この頃のゴーギャンが訴えようとした相手は、パリの鑑賞者ではなくパペーテの植民者たちであった[55]。
しかし、健康状態はますます悪くなり、何度も入院した。フランスにいた当時、彼はコンカルノーを訪れた際に酔って喧嘩をし、足首を砕かれる重傷を負った[56]が、この時の骨折も完治していなかった。その治療にはヒ素が用いられたため、余計に健康を害することとなった。また、ゴーギャンは湿疹も訴えていたが、現在では、これは梅毒の進行を示すものと推測されている[37][57]。
1897年4月、彼は、最愛の娘アリーヌが肺炎で亡くなったとの知らせを受け取った。同じ月、土地が売却されたため家を立ち退かざるを得なくなった。銀行から借入れをして、今までよりも豪華な家を建てようとしたが、身の丈に合わない借入れにより、その年の末には銀行から担保権を行使されそうになった[58]。悪化する健康と借金の重荷の中、失意の縁に追い込まれたゴーギャンは、同年に自ら畢生の傑作と認める大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。モンフレーへの手紙によれば、作品完成の後、自殺を試みたという[59][60]。この作品は、翌1898年11月、ヴォラールの画廊で、関連作品8点とともに展示された[61]。これは、1893年にデュラン=リュエル画廊で開いて以来のパリでの個展であり、今度は批評家たちも肯定的な評価を下した。ただ、同作は賛否両論でもあり、ヴォラールはこれを売るのに苦労した。1901年にようやく2500フランで販売され、そのうちヴォラールの手数料は500フランであったという。
ヴォラールは、それまでジョルジュ・ショーデというパリの画商を通じてゴーギャンから絵を購入していたが、ショーデが1899年秋に死去すると、直接の契約を締結した[60]。この契約で、ゴーギャンは、毎月300フランの前渡金を受け取るとともに、少なくとも25点の作品を各200フランで売り、その上、画材の提供を受けることになった。ゴーギャンは、これによって、より原始的な社会を求めてマルキーズ諸島に移住するという計画が実現できると考えた。そして、タヒチでの最後の数か月を、優雅に暮らした[62][63]。
ゴーギャンは、タヒチで良い粘土を入手できなかったことから、陶器作品を続けることができなくなっていた[64]。また、印刷機がなかったため、モノタイプ (版画)(英語版)を使わざるを得なかった。
ゴーギャンがタヒチにいる間に妻にしていたのは、プナッアウイア地区に住んでいたパウラという少女で、妻にした時に14歳半であった[65]。彼女との間には2人の子供ができ、うち女の子は生後間もなく亡くなり、男の子はパウラが育てた。パウラは、ゴーギャンがマルキーズ諸島に行く時、同行するのを断った[62]。







































