マルティン・ハイデッガーMartin HeideggerⅣ | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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マルティン・ハイデッガーMartin HeideggerⅣ

1936年4月、ローマのドイツ学イタリア研究所で「ヘルダーリンと詩の本質」「ヨーロッパとドイツ哲学」の講演を行った[注釈 8]。ハイデッガーの講演にはその頃イタリアにいたレーヴィットも出席し、レーヴィットと遠足に出かけた時もハイデッガーはナチス党の党員バッジをはずすことはなく、「ナチズムがドイツの発展の方向を指し示す道だと相変わらず確信していた」という[247]。また、1935年、ユダヤ人との性交渉をするとアーリア人の血が汚れる等という記事を掲載する雑誌『シュテュルマー』の編集者ユリウス・シュトライヒャー がドイツ法アカデミー法哲学委員会に入会したことをレーヴィットが聞くと、ハイデッガーは「シュトライヒャーについて言うことはなにもない。だって彼が編集している雑誌『突撃兵』はポルノグラフィー以外のなにものでもない。なぜヒトラーは彼を追放しないのかわからない」と述べた[218]。
ナチス知識人によるハイデッガー批判と帝国公安からの監視

ハイデッガーはナチス賛同者の学者からも批判されており、フランクフルト大学・ハイデルベルク大学の哲学・教育学教授エルンスト・クリーク[248]はハイデッガーを「極めつけの無神論であり形而上学的ニヒリズム」「ドイツ民族にとっては腐敗と解体の酵素」と非難していた[249]。

1936年、ヒトラー・ユーゲントの機関紙『意志と力』でケーニッツアー博士が「若者の方がハイデッガーよりもヘルダーリンを知っている」と非難し、ハイデッガーはケーニッツアー博士は1933年には社会民主党員として活動していたのに今ではフェルキッシャー・ベオバハター(民族的観察者)の大物となっているがこうしたドイツ人にはもはや多くは期待できないと述べている[250]。

1936年5月14日にはローゼンベルク事務局(Amt Rosenberg)がハイデッガーの調査を行い、これにはイェンシュやクリークらのハイデッガー非難文書が背景にあるとされ、イエズス会的な扇動をしているとも邪推された[250]。1936年5月29日、ローゼンベルク事務局は帝国公安本部学術部門に報告し、ハイデッガーへの監視命令が国家秘密情報機関から出された[250]。

1936年11月17日・24日と12月4日に、フランクフルト自由ドイツ高等神学校で「芸術作品の起源」講演[251]。

1936年から1937年にかけての冬学期に「ニーチェ,芸術としての力への意志」講義[252]。このなかで「ヨーロッパは相変わらず<民主主義>にしがみつこうとし、これがヨーロッパの歴史的な死滅になるであろうことを学ぼうともしない。ニーチェがはっきりと見たように民主主義とはニヒリズムの、すなわち最上の諸価値の価値剥奪の一変種にすぎず、まさしく価値でしかなく、もはや形態を与える諸力ではない」と語った[253]。

一方でライヒ文部省やプロイセン州文部省、中でもベルンハルト・ルスト教育大臣はハイデッガーの支援者であり、極めて良好な関係を持っていた。ルストはフライブルク大学学長辞職後にハイデッガーを哲学部部長に任命するよう大学側に要請したほか、二度にわたるベルリン大学への招請はルストの後援によるものであった[254]。第二次世界大戦末期の時期にも著作出版のための紙の調達に便宜を図っている[255]。

ライヒスコンコルダート以後もナチスはカトリックに圧迫したため1937年3月、ピウス11世教皇は回勅「ミット・ブレネンダー・ゾルゲ」でナチを批判した。ハイデッガーは、1936年から1938年にかけて書いた草稿群『哲学への寄与論考』においてナチスとカトリックとの政教条約に対して、「これら両者の根底には総体的な姿勢として、本質的な諸決断の断念がある。両者の闘争は創造的な闘争ではなくて、プロパガンダと護教論である[256]」と批判し、また「多義性は現実的な決断にたいする無力と無意思を引き起こす。例えば民族とよばれているものはすべてそうである。つまり、共同体的なもの、人種的なもの、低俗で下等なもの、国民的なもの、持続してあるものはそうである。例えば神的と名付けられるものはそうである」(56節「響きあい」)と「民族」や「神的」という言葉に批判的に書き、また「人間が歴史を達成しているかどうか、歴史の本質が存在物を越えて行くかどうか、史実(Histore:物語)が根絶されるかどうかは予測されない。そのことは原存在Seynそのものに委ねられている」と個々の人間の努力によって解決されるものではないという宿命論的な考えが書かれた[257]。

1937年夏学期、フライブルク大学で「西洋的思考におけるニーチェの形而上学的な根本の立場」講義[258]。1937年、ジャン・ヴァール の質問に対して、自分の問題は実存ではなく存在であり、ヤスパースとは異なると答えた[259][5]。

1937年から1938年にかけての冬学期に「哲学の根本的問い 論理学精選諸問題」講義[260]

1938年6月9日、フライブルク大学で「形而上学による近世的世界像の基礎づけ」を講演、のちに「世界像の時代」と題された[261]。その草稿では「国民社会主義的な諸哲学がそうであるように、矛盾した諸成果の苦労の多い仕立て上げは混乱を引き起こすだけである」とナチスと距離をとった[253]。1938年秋、弟フリッツに金属製の二つの箱にいれた草稿を渡し、清書と保管を依頼した[262]。フリッツはタイプライターを持っていなかったため、銀行の休憩時間や夕食後に職場に戻ってタイプした[263]。

1938年から1939年にかけての冬学期に「ニーチェ 反時代的考察第二編」講義[264]

1939年夏学期、「認識としての力への意思についての教説」講義[265]。
第二次世界大戦時

1939年9月、ナチスのポーランド侵攻により第二次世界大戦がはじまる。1939年のゼミナールでは「言語の本質について:言語の形而上学:ヘルダー言語起源論に寄せて」[266]。1939年から1940年の冬にかけて再びユンガーの「労働者」を取り上げ、「ユンガーが労働者の支配と形態という思想のなかで考え、この思想に照らして見ているものは、惑星的規模で見られた歴史の内部での、力への意思の普遍的な支配である。今日すべてのものはこすいた歴史的現実のもとにある。それが共産主義と呼ばれようが、ファシズムと呼ばれようが、あるいは世界民主主義と呼ばれようがそうなのである」と述べた[267][268]。

1940年、「真性についてのプラトンの教説」を『精神的伝統』第二年次年報に発表[269]。1940年第二学期講義「ニーチェ ヨーロッパのニヒリズム」[270]

1941年フライブルク大学で「ドイツ観念論の形而上学:シェリング」を講義[271]。1941年夏学期、「根本諸概念」講義[272]。1941年から1942年にかけての冬学期にフライブルク大学で五番目のニーチェ講義「ニーチェの形而上学」が予告されたが、実際には行われなかった[273]。1941年から1942年にかけての冬学期には「ヘルダーリンの讃歌『回想』」講義[274]。

1942年の草稿「形而上学の克服」では「世界大戦とそれらの総体性はすでに存在棄却性 (Seinsverlassenheit)の諸帰結である[275]」「指導者たちは自分から、利己的な我欲の盲目的な半狂乱状態のなかで、思い上がってすべてを行使し、彼らの強情さからすべてを整える、と思われている。本当は彼らは存在者が錯誤という仕方に移行してしまったことの必然的な結果である[276]」と書かれた[257]。

1942年夏学期、「ヘルダーリンの讃歌『イスター』」講義[277]。この講義では「アメリカ主義のアングロサクソン世界は、ヨーロッパ、故郷、西欧的なものの元初を殲滅しようと決意している」と述べた[278][279]。1942年から1943年にかけての冬学期にパルメニデス講義[280]。1942年から1943年にかけて「ヘーゲルの経験概念」講演[281]。

1943年、「真性の本質について」出版。原稿は1930年の講演[282]。1943年、ヘラクレイトス講義[283]。1943年の講演「ニーチェの言葉:神は死んだ」は1936年から1940年にかけて5学期に亙って続けられたフライブルク大学でのニーチェ講義に基づく[284]。この講演では「ニーチェが念頭に置いている公平性の了解を準備するためには、われわれはキリスト教的、ヒューマニズム的、啓蒙主義的、ブルジョワ的、社会主義的モラルに由来する、公正性にかんする考えはすべて排除しなければならない」と語った[285][286]。

1944年夏学期、ヘラクレイトス講義[287]。この講義のなかでハイデッガーは「ドイツ民族が西洋の歴史的な民族でありつづけるのか、それともそうでないのかどうかという、このことだけが決定を迫られているのではなくて、今は大地の人間が大地もろともに危険にさらされているのであり、しかも人間自身によってそうなのである[288]」「この惑星は炎に包まれている。人間の本質は支離滅裂になっている。ドイツ人がドイツ的なものを見出し、保持するということが想定されるとすれば、世界史的な熟慮が生まれるのはドイツ人からのみである[289]」と語った[290]。1944年の戦争末期、軍務を免除された500人の学者と芸術家のなかにハイデッガーは入っておらず、大学総長は大学教官を不用、半ば不用、不可欠の3グループに分け、ハイデッガーは「不用」グループの筆頭にされ、夏にはライン川保塁工事を命じられた[5]。ハイデッガーは国民突撃隊に招集された大学教官のなかで最年長であった[5]。1944年-45年の冬学期にフライブルク大学で「哲学入門―思索と詩作」を講義したが、11月8日で招集のため中断した[5]。「哲学入門―思索と詩作」は第二次世界大戦以前では最後の講義となった[291]。このなかでは「実益と成果をあてにしてたんに計算するという思慮分別は平凡人の思慮分別なのであって、それは経済的政治的にみて世界的な広がりで振る舞う場合でも、平凡でありつづける。そこにもすでに歴史的で西洋的な使命の忘却が働いている。それは、富と道徳性と民主主義的なヒューマニティによって飾り立てられることによっては埋め合わせができない忘却である[292]」と語られた[290]。1944年9月12日、フリッツとハインリヒはマルティンの原稿を入れた鋼鉄製の箱二個をビーティンゲン教会塔へ移した[293]。

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ハイデッガーが避難したヴィルデンシュタイン城

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ヴィルデンシュタイン城内

1944年11月27日、連合軍の爆撃でフライブルクは壊滅した[294]。フライブルク大学哲学部は帝国講師連指導者シェールにハイデッガーの兵役免除を嘆願し、1944年12月4日にハイデッガーは除隊を許可されたため、メスキルヒに向かった[295]。12月、ハイデッガーは義理の娘と助手の女性とともにフライブルクからメスキルヒまで徒歩で避難をし、道中ゲオルク・ピヒトの家に宿を求めた[296]。ピヒトの妻がシューベルトの遺作ピアノソナタ第21番変ロ長調を演奏すると、「こんなことは我々は哲学ではできない」と述べ、ピヒトの来客記念帳には「破滅するのは、のたれ死にするのとは違う。上昇の中には常に破滅が隠されている」と記した[296]。冬、フライブルク大学校舎が爆撃で破壊されたため、10人の教授と、男子は戦場に行っているため全員女子の学生30人はボイロン修道院の上手にあるヴィルデンシュタイン城に移った[297]。

1945年2月22日、連合軍によるメスキルヒ空襲で35名が死亡、93名が負傷した[298]。空襲後、銀行の貸金庫に保管していた原稿をハイデッガーは自分で取り出しにいった[293]。3月、ハイデッガーはフライブルク大学教員と学生のいるヴィルデンシュタイン城に移り、ヘルダーリンを講義をした[297]。

1945年4月、ハイデッガーの聴講者であったザクセン=マイニンゲン家のマルゴット王女が、ボイロン近くのダグラス伯爵の森番小屋を避難所としてハイデッガーに提供した[299]。4月22日、フランス軍機甲部隊がメスキルヒを占領した[300]。

1945年4月30日にアドルフ・ヒトラーは自殺した。5月8日、ドイツは連合国軍に降伏した。

第二次世界大戦後

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連合軍に分割占領された1945年の連合軍軍政期ドイツ。

1945年6月、フランス軍がバーデン=ヴュルテンベルク州を占領。ハイデッガーは幼少期に遠足でよくいったフィヒテナウのヴィルデンシュタイン城 (Burg Wildenstein)に避難し、城近くの岩山の上でカント、ヘルダーリンを講義した[301]。この夏学期は6月24日に終了し、1945年6月27日、フライブルク大学関係者の求めに応じてハイデッガーはベルンハルト・フォン・ザクセン=マイニンゲン公の森林官宅で講演「貧しさ (Die Armut)」を行った[301][302]。ピアノ演奏の後、ヘルダーリンの文「われらのもとで、すべては精神的なるものに集中する。われらは豊かになるためにこそ貧しくなった」について語った[303]。

第二次世界大戦後、フライブルクにはフランス占領軍が進駐した。1945年7月16日、フライブルク市長のメモにハイデッガーのナチス入党の履歴があったため、フランス占領軍はレーテブック47番地の家屋接収を通告した[301]。ハイデッガーはフライブルク市長に弁明と抗議をした[301]。

1945年7月20日のシュターデルマン宛手紙でハイデッガーは「誰もが今は破滅を思っているのでしょうが、我々ドイツ人は、いまだ昇りつめておらず、何としても夜を耐え通さねばならないがゆえに、破滅することはできません」と書き、9月1日の手紙では「我々のシュヴァーベンの家から西欧の精神が目覚めるであろう」と書いている[304]。

純化委員会による査問

ハイデッガーは1945年11月から12月にかけてフランス占領当局によってフライブルク大学において非ナチ化を行う純化委員会の査問を受けた[5][305]。査問委員はコンスタンティン・フォン・ディーチェ、ゲアハルト・リッター 、ランゲ、アルゴイアー、フリードリヒ・エルカースで、7月23日、ハイデッガーは委員会の前で弁明し、アードルフ・ランペ以外の委員はハイデッガーがナチの内的な敵となっていたことから好意的だった[301]。委員会はランペの意見は採用せず、ハイデッガーは1934年以降ナチではなくなっていたと寛大な判定を下した[301]。ハイデッガーはフライブルク大学学長への弁明書で次のように語っている[306]。

私の学長時代に多数の学生がナチズムへとそそのかされた、というあまりに粗雑な主張がくりかえしなされるのであれば、正義のためには、少なくとも次のことをも承認する必要があるでしょう。すなわち、私は1934年から1944年までにあいだ、私の講義をつうじて何千もの聴講者に、われわれの時代の形而上学的基礎を自覚するよう教育してまいりました。そして、精神の世界と西洋の歴史におけるその偉大な伝承の世界に対し、彼らの眼を見開かせてきたのです。
??フライブルク大学学長宛弁明書、1945年11月4日付

ハイデッガーはカール・ヤスパースを頼ろうとしたが、妻がユダヤ人であったヤスパースはハイデッガーがバウムガルテンを密告したこと、同時にユダヤ人の助手ブロックのイギリスへの亡命を手助けしたことなどが書かれて、「ハイデッガーの思考様式はその本質からして自由をもたず、独裁的で、コミュニケーションができないもの」と厳しい評価を含む報告書を送った[301]。1945年秋、のちに映画監督となるアラン・レネ がハイデッガーを訪問した[307]。

1945年末にハイデッガーはかつて手ほどきをしてくれたコンラート・グレーバー大司教を訪れ、救援を求めた。大司教の妹が12年も訪問しなかったというと、「私はいま手ひどくその償いをしている。私はもうおしまいだ」と語った[308]。グレーバー大司教は1946年3月8日の教皇ピウス12世への報告書でハイデッガーは真摯に反省しており、敬虔な態度を見せたと報告した[309]。1946年1月19日、純化委員会はハイデッガーの教職活動剥奪と年金減額をフランス軍政当局に提案し、フランス軍政当局は年金削除を命じたが、この追加部分は1947年5月に取消された[301]。

ハイデッガーは元ナチ党員追放裁判で疲労困憊したため、バーデンヴァイラーの精神科医で、ビンスワンガー派に属するヴィクトリア・フライヘル・フォン・ゲープザッテルの診察を受けていた。[309]。1946年当時はフライブルクの家は占領軍の宿営として接収されていたため、トートナウベルクの山荘に住んだ[310]。

1946年と翌年の夏にハイデッガーは『老子』のドイツ語訳に着手した[311][162]。ハイデッガーはヤスパースへの書簡で、1943年から44年にかけてのパルメニデス講義とヘラクレイトス講義を聴講した中国人蕭欣義(Paul Shin-Yi Hsio)がハイデッガーの思索には東洋のものを思わせると語り、当時老子の翻訳を試みたと語っている[312][311]。ハイデッガーは老子の「孰能濁以静之徐清。孰能安以動之徐生。(たれかよく濁りて以ってこれを静めておもむろに清(す)むや。たれかよく安らかにして以ってこれを動かしておもむろに生ずるや)。」を漢文のまま書斎に飾っていたという[162]。「言葉の本質」では「道とかタオという語のうちには、思惟しつつ言うことの秘中の秘が潜んでいるのではないだろうか」と述べた[313][注釈 9]。1946年10月、ベルンのペルー大使館秘書官アダルペルト・ワグナーからハイデッガー家は経済援助をうける[5]。

1945年夏よりジャン・ボーフレ はハイデッガーに熱烈な書簡を出した[308]。1946年11月10日のボーフレ書簡への返信は1947年、「『ヒューマニズム』に関する書簡」としてベルンで出版され、単行本が1949年に刊行された[315]。

1946年夏、フランス軍政当局はハイデッガーの無期限教職禁止令を指令。これは大学からの免職ではなく、研究教授としての在留を認めたものでもあった[5]。12月、バーデン州文部大臣から大学教職無期限停止令が下された[316]。

1947年8月28日、かつての弟子マルクーゼが亡命先のアメリカから書簡をハイデッガーに出し、ナチズムとの一体化から解放されるためには変化を告知することであると書くと、1948年1月20日の返信でハイデッガーはこうした変化は当時の学長辞任後の講義で行っていたと述べた[317]。さらに「あなたが『幾百万人のユダヤ人をただ彼らがユダヤ人であるという理由で殺害した政府、テロルを日常状態とし、精神と自由と真理という概念と実際に結びついていたすべてを血なまぐさいその反対物へと逆転させた政府』について述べている重大で正当な非難に関して、私はこう付け加えることもできるだけです。『ユダヤ人』を『東部地域のドイツ人』に置き換えるべきであって、そうすれば、同じことが連合国のひとつにも当てはまり、違いは、1945年以降に起こったすべてのことは全世界に知られているのに、ナチスの血なまぐさいテロルはドイツ民族には事実上秘密にされていたということです[318]」と書いた[319]。

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カール・ヤスパース

1949年2月6日、ヤスパースはハイデッガーとの文通を開始し、以降ハイデッガーの復職に尽力した[320]。1949年3月、フランス軍政局はハイデッガーとナチスとの関係は「服従することなき同行者[5]」「制裁には及ばず」と最終決定した[320]。1949年5月、フライブルク大学評議会はハイデッガーを名誉教授として復権させ、教職活動の再開案を過半数で可決した[320]。

戦後1945年から1949年まで教職活動が禁止されていた時期には、幼少期から親しんだボイロンのベネディクト派修道院でハイデッガーは話をした[321]。ガダマーによれば[322]ハイデッガー山荘には世界中から多くの「巡礼」が訪れた[121]。

ハイデッガーはフライブルクに住み、春および秋にメスキルヒを訪れ、弟フリッツの家で過ごした[323]。11月11日は聖マルティン聖名祝日をボイロン修道院で祝った[59]。
ブレーメン講演

1949年12月2日-4日「ブレーメン連続講演 有るといえるものへの観入」[324][5]。ブレーメン講演では「物が物となる(das Ding dingt)」という事態において性起における存在者の現前の仕方とは、「大地」「天」「神的なるものたち」「死すべきものたち」の四者が、おのずから一つの「四方界 (das Geviert)」となって共属しつつ物に滞留することと語られた[325]。また第一講演「物」では「死は、無の聖櫃として、[真]存在の山並み(Gebirg)である[326]」と語られた[327]。

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ハンナ・アーレント

前年1949年11月から「ヨーロッパユダヤ文化再建委員会」のナチス略奪文化財の調査で訪欧していたハンナ・アーレントが、ヤスパースに会ったあと、1950年1月にフライブルクを訪問し、ハイデッガーと会った[328]。ハイデッガーはアーレントのホテルを訪れ、またハイデッガーの家では妻エルフレーデと三人で会ったが、諍いとなった[329]。

1950年3月7日、ハイデッガーはヤスパースへの書簡で1933年以来、ヤスパース家を訪問しなかったのは夫人がユダヤ人であったからではなく、「ただ自分を恥じたからなのでした」と述べている[330]。

1950年3月25-26日、保養所ビューラーヘーエにある医師ゲーアハルト・シュトローマンのサナトリウムで「在るところのものへの観入」講演をする。講演は1957年までに四回行われた[5]。聴衆はバーデン=バーデンで年金生活を送っている名士、産業界の大物、高級官僚、政治家、外国の高官らであった[331]。6月6日、バイエルン芸術学士院で「物」を講演し[5]、世界の四方域(Geviert)について語られた[331]。会場は満員であった[331]。ロッツ、ユンガー兄弟、R・ハルダー、フォン・ヴァイツゼッカー、ハイゼンベルク、グァルディーニらも聴講した[5]。

1950年4月8日のハイデッガーからのヤスパース宛書簡についてヤスパースは「ハイデッガーの言うには、悪の事態は終わったのではなく、今初めて世界の舞台に登場した。スターリンはもはや宣戦を布告する必要はない。毎日のように戦闘に勝っているからだ。今はもう戦争回避はない。一言一言、一文一文がたとえ政治の領域のことではなくても、反撃なのである。政治の領域は、とっくに他の存在関連によって巧みに隠蔽され、ただ仮象の現存在を生きているだけなのだ。事柄が簡単になればなるほど、それを考え、言葉に出すのは難しくなるというあの昔の話は、書面での討論の素晴らしい提案にも当てはまる。故郷喪失の現況では、何事も起こらない。そこにはキリスト降臨のはるかなる合図が潜んでおり、我々はおそらくひそかにそれを体験しているのである」と書いている[304]。
大学への復職

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ホセ・オルテガ・イ・ガセット

1951年には復職し、退官教授となり、夏学期は演習「アリストテレス自然学2-1,3-1-3」[5]。1951年8月5日、ダルムシュタットでのシンポジウム「ダルムシュタット会話:人間と空間」において「建てること、住むこと、考えること」を講演[332]。ホセ・オルテガ・イ・ガセットもこのシンポジウムで「技術の彼岸にある人間の神話」を講演し[333]、ハイデッガーと会話した[5]。1951年10月6日、ビューラーヘーエで「詩人のように人は住む」講演[334]。ビューラーヘーエでオルテガ と存在概念について論争する[5]。

1952年5月19日、ハンナ・アーレントは再びフライブルクを訪問し、ハイデッガーと会った[335]。6月6日の夫への手紙でハイデッガーの講義はすばらしいものであったが、その妻とは悶着をおこし、ハイデッガーの5万ページの未発表原稿は「本来ならそれを彼女(妻エルフレーデ)が数年のあいだにスムーズにタイプすることができていたはず」なのにしなかった、ハイデッガーが頼れるのは弟だけと報告している[336]。

1953年初頭、サルトルがハイデッガーを訪問した[5]。『形而上学入門』がマックス・ニーマイヤー書店より再刊される。当時24歳の学生ユルゲン・ハーバーマスは「『存在と時間』の魅力に取り憑かれていただけに、文体の隅々までファシズム的なものの染み込んでいるこの講義を読んで大きなショックを受け」、「ハイデッガーとハイデッガーに対して考える」を1953年7月25日フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙上に発表し、「この運動の内的真理と偉大さ」という文中での表現について注釈も序文での説明もないまま刊行したハイデッガーを「ファシスト的知性」と非難し、「数百万人の人間に対する、今日我々みなが知っている計画的な殺人も、運命的な迷誤として存在史的に理解することができるというのだろうか。それは帰責能力をもって殺人を行った人々の実際の犯罪ではないのか。それに対しては、一つの民族全体が良心の呵責を感じねばならぬのではないのか」と質問した[337][338]。8月13日、クリスティアーン・E・レヴァルターがディー・ツァイト紙上で、この箇所は、ハイデッガーが当時ヒトラー政権を「新しい救済の印」としてではなく、形而上学の頽落の歴史の中での「さらに進んだ頽落の症候」と理解していたことの記録であるとし、「この運動の内的真理と偉大さ(惑星規模の規定を受けた技術と西欧的人間との出会い)」と括弧内に付け加えられた文章について「ナチ運動は、技術と人間の悲劇的な邂逅の症候であり、その影響が西欧全体に広がり、西欧を没落へ引きずり込もうとしているからこそ、そのような症候として偉大さをもつのである」と反駁した[339]。ハイデッガーも9月24日ディー・ツァイト紙上でレヴァルターの見解を適切とし、あの文章を「削除するのは容易なことだったでしょう。しかし私はそうしませんでした。将来もそのまま残すつもりでいます。というのも、一つには、あの文章歴史的に言って出来事としてすでに講義されたものだからですが、また、二つ目には、思索の手仕事を学んだ読者から見れば、この講義は氏が挙げている文章を十分に受け入れうるものと確信しているからです」と投書した[340][339][注釈 10]。

11月18日、ミュンヘン工業大学で講演「技術への問い」、ハンス・カロッサ、ハイゼンベルク、エルンスト・ユンガー、ホセ・オルテガ・イ・ガセットらも聴講し、盛大なスタンディングオベーションが起こり、戦後ドイツでのハイデッガーの公開の場での最大の成功となった[343]。

1954年3月、ドイツ文学者の手塚富雄がハイデッガーを訪れた[344]。手塚との会話をもとに九鬼周造についての論評を交えてハイデッガーは『言葉についての対話』として刊行した[345]。1954年夏には鈴木大拙がハイデッガーを訪問した[5]。1954年、ヤスパースがブルトマンとの論争で公然とハイデッガーを批判した[5]。この1954年からハイデッガーは「1945年 - 51年の大学における私の正教授としての地位に関する出来事」という弁明書を書き始めた[5]。

1955年4月、W・ホフマンの求めでヘルダーリン協会に入会[5]。1944年に書いていた『思惟についての野の道での対話』を改訂、マイスター・エックハルト を「思惟することの古き巨匠」と呼んだ[346]。同年、メスキルヒ出身の作曲家コンラディン・クロイツァー生誕175年記念のために1945年に行った講演「放下」を対話篇『放下の解明のために』として書き、1959年に刊行した[347]。

1955年9月、フランスノルマンディーのセリジー=ラ=サルの城館で「哲学とは何か」講演、ジャン・ボーフレ、コスタス・アクセロス、ガブリエル・マルセル、アンリ・ビロール、ルシアン・ゴルドマン、文学研究者ベーダ・アレマン、ヤスパースの高弟ジャンヌ・エルシュ、ドゥ・ヴェーレンス、ドンディン、ワイルマン、ヴァン・リート、ビーメルが聴講した[5]。コスタス・アクセロスの仲介でハイデッガー、ジャック・ラカン と会う[348]。 パリで詩人ルネ・シャール と会い、ヴァランジュヴィルで画家ジョルジュ・ブラックと会う[5]。ユンガー60歳記念論文集に「線を越えて」寄稿、1956年に『有の問いへ』と題してヴィットリオ・クロスターマン社から刊行された[349]。

1956年5月7日、「ヘーベルとの対話」講演、5月25日、ブレーメンクラブで講演「根拠律」[5]。オランダヘルダーラント州のクレラー・ミュラー美術館でフィンセント・ファン・ゴッホの絵画を見る[5]。

1957年3月24日、トートナウベルクで講義「形而上学の存在神論的体制」[5]。夏学期、一般教養講義で「思考の根本命題」[350][5]。6月27日、フライブルク大学創立500年祝賀会で講演「同一律」、この講演はレコード化された[5]。ボーデン湖マイナウ島でマルティン・ブーバーと会う[5]。1957年、ハイデッガーはベルリン芸術学士院会員、バイエルン芸術学士院会員、ガダマーの尽力でハイデルベルク学士院会員となる[5]。

1958年3月20日、エクス=アン=プロヴァンスで「ヘーゲルとギリシア人達」講演。これ以降、ルネ・シャールの招きでハイデッガーはエクス=アン=プロヴァンスを三度訪問した[5]。同年7月26日、ハイデルベルグ学士院総会でも同題で講演[351]。5月11日、ウィーンのブルク劇場で講演「詩作と思索」、久松真一辻村公一 らも聴講した[5]。5月、フライブルク大学でハイデッガーが主催し、「芸術と禅」について討論会、久松真一、辻村公一、オイゲン・フィンク、M・ミュラーが参加した[5]。1958年、ミラノ-ヴァレセの「Il Pensiero (思想)」に1939年に書かれていた草稿「ピュシスの本質と概念について。アリストテレス、自然学B、1」を発表[352]。

スイスの精神科医メダルト・ボスの求めで1959年9月8日、チューリッヒ大学付属病院精神科ブルクヘルツリの講堂で講演、以降、1964年1月、7月、11月、1965年、1966年、1969年にボス自宅でツォリコーン・ゼミナールが開かれた[353]。9月26日の70歳誕生日にはメスキルヒ住民からの祝いがあった[5]。

1960年バーデン=ヴュルテンベルク州ヘーベル賞受賞[5]。これ以前にヘーベル賞を受賞したのは作家アーダルベルト・シュティフターとカール・ヤコブ・ブルクハルト (1891 ? 1974) のみで、ハイデッガーは3人目の受賞であった[5]。

1961年5月17日、キールで「有に関するカントのテーゼ」を講演、単行本は1963年に刊行された[354]。1961年7月22日、メスキルヒ公会堂でメスキルヒ700年祭祝辞を述べ、そのなかで思慮は夕べに、一日の終わりの夕べ、生の終わりの夕べにまつわる事柄と語った[355]。

1962年4月[5]、リチャードソン神父への書簡で「転向」は『存在と時間』の変更でも放棄でもなく、『存在と時間』の問題に忠実になされたと書いている[356]。同4月、ブレーメンのヘルムケンの勧誘で初めてギリシアを旅行した[5]。7月18日、実業学校教員の息子イェルク・ハイデッガーの仲介でシュヴェービッシュ・ハルコンブルクの国立アカデミーでの実業学校教員のための講演「伝承された言語と技術的な言語」をした[357]。この年、ハイデッガーのナチス関連の文書を収集したグイード・シュネーベルガー『ハイデッガー拾遺』が刊行された[358]。

1963年2月23日、ハイデッガーはヤスパース80歳の誕生日に祝信を送る[5]。3月25日、ヤスパースは「対話はおそらくできません」と返信した[5]。ギュンター・グラス は1963年に発表した小説『犬の年』でメスキルヒで生まれた男(ハイデッガーのこと)について「よく聞け、犬よ。あの男はメスキルヒで生まれたんだ。イン河畔のブラウナウの近くにある町でだ。あいつ(ハイデッガー)ともう一人の男(ヒトラー)は同じとんがり帽子年に臍の緒を切られたんだ。あいつともう一人の男はお互いに創造し合ったのだ」と書いた[359][注釈 11]。

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西谷啓治

1964年、ハンブルク大学客員教授となった西谷啓治がハイデッガーを戦前に訪問して以来久しぶりに訪問した[5]。1964年5月2日、ハイデッガーはメスキルヒのラテン語学校の同窓会で「アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラについて」講演し、そのなかで「ザクセンハウゼンがフランクフルトの近くにあるように、我々の平和が戦争の近くにあるとしても、神の慈悲によって、我々のところでは、貧しくとも、みな暖かい」というアーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラの言葉を引用したり、またアーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラの文章には韻が巧妙に配されており、「トルコ兵の頭蓋(Kopfe)と弁髪(Zopfe)が土鍋(Topfe)のように一面に散らばっていた」という文章や銀白の白鳥に雪の白さを連想させた文例を挙げるなどしたうえで、「言葉の巨匠」であると論じた[56]。テオドール・アドルノ は1964年の『本来性という隠語』でハイデッガーを批判した[360]。1964年秋、ハイデッガーはネスケへの覚書でナチスへの加担の政治的過誤について書いた[5]。

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「サント・ヴィクトワール山」セザンヌ

1966年9月5日-10日、プロヴァンスのル・トールでパルメニデスとヘラクレイトス講義[5]。このゼミナールは1968年、1969年にも行われ、午前中に開かれ、午後はポール・セザンヌが描いたサント・ヴィクトワール山方面へのハイキングに出かけ、ハイデッガーは「初めから終わりまで、私独自の思索の道がその独自の仕方で」この道にふさわしいとした[361]。夕方にはルネ・シャールの家で集まった[361]。同1966年、ユンガーが東アジアに旅行するため、手紙に『老子』下篇47章の訳を添えた[5]。

1966シュピーゲルインタビュー

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ハイデッガーを批判したフランクフルト学派のユルゲン・ハーバマス

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フランクフルト学派のテオドール・アドルノ(右)とマックス・ホルクハイマー(左)。ハンナ・アーレントはヤスパースへの書簡でアドルノ達を批判していた[362]。

1966年2月、デア・シュピーゲルで「ハイデッガーがフッサールの大学への立入りを禁止した」「ハイデッガーがヤスパースを訪ねなくなったのは、ヤスパース夫人がユダヤ人だからである」と報じられる[363]と、ヤスパースは「シュピーゲル誌はかつての悪い流儀に逆戻りしている」とアレントに手紙で書き、アレントはこうした流儀はアドルノ一派によるもので、アドルノとホルクハイマーは「自分たちに敵対する者にはすべて反ユダヤ主義の罪を着せるか、罪を着せると脅かしてきていました」と述べている[362]。

こうしたことを背景にハイデッガーは生前にインタビューを発表しないという条件で1966年9月23日、シュピーゲルのインタビューに応じた[364][365]。このインタビューでハイデッガーは、学長職はメーレンドルフと副学長から引き継ぎを頼まれて引き受けたものであったこと、「ドイツ大学の自己主張」演説については「ナチス党と国家社会主義学生組織が要求する<政治科学>に抵抗するものであった。当時の<政治科学>とは、現在でいう科学ではなく、人民のための実践的な有効性を従ってのみ判定されるものであった」、タイトルにある<自己主張>とは、「西洋思想の伝統の反省を通じて大学の意味を回復させ、大学がただの技術組織ではないということを目指したものだった」 と述べた[364]。1938年のフッサールの葬儀に出席しなかったことについては、それより5年前の1933年5月に「ハイデッガーの妻からフッサール夫人へ出した手紙を出したが、フッサール夫人からの手紙は形式的なもので、両家族の交遊はその時点で壊れてしまった。フッサールへの私の愛情と尊敬の念を再び表現しなかったままフッサールが死去したことは、私の人間としての過ちであった。そう私はフッサール夫人への手紙で謝罪した」と述べた[364]。学長辞任後の1934年の論理学講義、1934年-35年冬学期のヘルダーリン講義、1936年のニーチェ講義は「聞く耳を持っていた人はみんな、これがナチズムとの対決であったということを聴き取りました」と述懐している[364][366]。ハイデッガーの後継学長(法学)の就任についてナチ党機関紙 Der Alemanne (アレマンネ)での報道では「初の国家社会主義者 大学学長に」と見出しが出たという[364]。

インタビュアーのアウクシュタイン[367]はユルゲン・ハーバーマスが1953年に指摘した[368]次の点、すなわち1935年の『形而上学入門』で「今日、国民社会主義の哲学として出回っているが、この運動の内的真理と偉大さとはまったく何の関係もないものは、価値と全体性の濁流のなかで網打ち漁をしている」と述べられた箇所について、同書が戦後1953年に刊行した際には「運動(つまり、惑星規模で規定された技術と近代人との出会い)」と括弧で挿入語句が付け加えられた問題について問うた[364]。ハイデッガーはこれは最初の草稿にあったものだが、私の技術性についての思索を正確に表現しようと務めたためで、この1935年の時点ではまだGe-stellの概念の説明にはなっていないし、また当時の私の聴衆は、ナチのスパイや密告者とは違って、正確に理解できると確信していためと述べた[364]。また、共産主義やアメリカニズムもこうした惑星レベルの技術性の形式のひとつにほかならないし、「この30年間が明らかにしたことは、近代技術の惑星規模の運動が歴史を決定するということがほとんど考慮されていないということです」「技術時代にふさわしい政治形式がなにかについて答えはありません。それが民主主義であるとも確信できません」「技術の本質は、人間が自分自身の力でマスターできるものではない」「原爆のように我々を根こそぎにするものは必要ないのです」とも述べた[364]。このインタビューはハイデッガー没後の1976年5月31日にシュピーゲル誌に掲載された。

1966年から1967年にかけてフライブルク大学でオイゲン・フィンク と共同ゼミナール「ヘラクレイトス」を開いた[369]。

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詩人パウル・ツェラン

1967年4月4日、アテネ学芸アカデミーで「芸術の由来と思索の使命」を講演[370]。同年ハンブルク大学でカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー(弟は第6代連邦大統領のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー )のゼミナールで「時間と存在」を朗読、夜の対話で学生運動と新左翼についての話題となったが、ハイデッガーは「まだ我々を救えるものがあるとすれば、それは神だけです」と語った[5]。1967年7月24日、詩人パウル・ツェラン がフライブルク大学で朗読会を開き、ハイデッガーも聴衆としており、翌日7月25日、トートナウベルクのハイデッガー山荘を訪れた[371]。ツェランから詩を送られたハイデッガーは1968年1月30日付礼状書簡で「私は幾つかのことはまだ、いつの日か、無-言を脱して対話に入れるものと思っています」と書いた[372]。1967年、ハンナ・アレントがハイデッガーを訪問[373]。

1968年、原祐と渡邊二郎 が訪問する[5]。4月9日、ハイデッガー、スイスザンクト・ガレンでの彫刻家マンズの展覧会に行く[5]。9月3日、ハイデッガー、画家セザンヌのアトリエを訪問した[5]。

1969年8月、ハンナ・アレントが夫ハインリヒ・ブリューヒャーとハイデッガーを訪問し、それからは毎年のようにハイデッガー宅を訪問する[373]。9月17日、R・ヴィッサーとTV対談を自宅で撮影[5]。ハイデッガーはTVを自宅に置いていないと語る[5]。スイスザンクト・ガレンのエルカー書店より『芸術と空間』、マックス・ニーマイヤー書店より『思索の事柄へ』刊行[5]。

1970年、クロスターマン社より『現象学と神学』、フィンクとの共著『ヘラクレイトス』刊行[5]。「思い」を執筆し、翌年ドミニク・フルカド編『ルネ・シャール』(レルネ出版)に掲載[5]。

晩年

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メスキルヒにあるハイデッガー夫妻の墓。右隣には両親の墓、左隣には弟フリッツ夫妻の墓がある[374]。ハイデッガー夫妻の墓石の墓紋は十字架でなく星型である。ハイデッガーは『思惟の経験から』で「星に向かって進むこと、ただこれのみ」と書いている[374]。

1972年、西谷啓治がゲーテ賞受賞、ハイデッガーと対話する[5]。ハイデッガー、「ランボー」執筆[5]。

1973年9月、ツェーリンゲンでゼミナール[5]。ハイデッガー全集の刊行を決意した[5]。

1974年、ロッツがハイデッガーより未発表の『存在と時間』後半部分原稿はあるが、全集には収録しないと聞く[5]。秋、タイの僧侶マハ・マニと対話し、バーデン・バーデンTV放送で放映[5]。

1975年6月25日、オイゲン・フィンク死去、7月26日、「オイゲン・フィンク追想のために」を書く[5]。7月20日すぎ、辻村公一が訪問し、ハイデッガーは弁証法が現象学を壊したと語った[5]。クロスターマン社より全集刊行開始[5]。1975年12月4日、ハンナ・アレント死去。1975年冬、ペチェットがハイデッガーを訪れると別れ際に「そうだよ、ペチェット、もうおしまいに近づいているんだ」とハイデッガーは言った[375]。

1976年1月14日夜、メスキルヒ出身でグレーバー大司教の秘書でもあった神学者ベルンハルト・ヴェルテが論文「ハイデッガーの思惟における神」をハイデッガーに送ったことをうけて、ハイデッガーは自宅にヴェルテを招待し、エックハルトなどについて対話した[376]。ハイデッガーはヴェルテに、メスキルヒでの自分の葬儀の時に弔辞を述べるよう頼んだ[162][377][378]。5月より死ぬまで毎日、ヘルダーリンを読む[5]。1976年5月26日朝、一度目覚めて、またもう一度眠り込んでそのまま息をひきとった[375]。最後の言葉は「感謝します」であった[5]。5月28日の葬儀にはエルンスト・ユンガー、インゲボルフ・ベットガーが参列した[5]。弔辞はベルンハルト・ヴェルテで、ハイデッガーの意志を生かして聖書詩篇130篇、マタイ伝5,6,7章を朗読し[注釈 12]、息子ヘルマンはヘルダーリンを読んだ[5]。ミサはフリッツの息子ハインリヒが執り行った[378]。同日、ヴェルテ名誉町民になる[5]。

1976年12月6日、フライブルク大学でガダマー、ヴァイツゼッカー、W・マルクスがハイデッガー追悼講演会[5]。

フランス語蔵書はストラスブール大学に寄贈された。ハイデッガーは生前、息子のヘルマン・ハイデッガーに「私が死んだら、原稿は100年間封印してほしい。時代はまだ私を理解する構えにはない」と遺言で述べていた[379]。