マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger)Ⅲ | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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1919年、フライブルク大学で「哲学の使命について」講義[111]。同年、長男イェルク生まれる[5]。

1919年?20年のフライブルク大学冬講義「現象学の根本問題[112]」ではフッサールのいう「記述」は認識論によって方向付けられており、これは「古い思考習慣の残滓」 と批判され、対象化、客観化することなしに経験-「事実的生経験」のなかで、「予期連関において、十全な動機付けの網を、非反省的に生きながらも、省察的に経験する」 ことが求められる[113]。この「省察」という用語にはポメレリア貴族のパウル・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク (Paul Yorck von Wartenburg) 伯の影響があるとされる[113]。また、生としての世界の現象を「環世界」「共世界(Mitwekt)」「自己世界」の3つに区分し、各世界はそのつど自己表出の性格と持つとされた[114]。

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新カント派のマールブルク学派パウル・ナトルプ。ハイデッガーをマールブルク大学員外教授に招聘した。

1920年4月8日、フッサール61歳祝賀会でヤスパースと出会う[5]。二男ヘルマン生まれる。1920年夏、「直観と表現の現象学;哲学的概念形成の理論」講義[115]。1920年、マールブルク大学員外教授招聘候補に上げられ、パウル・ナトルプとフッサールがハイデッガーを推薦したが、イェンシュは反対し、就任したのはニコライ・ハルトマンであった[116]。

1921年、講義「アウグスティヌスと新プラトン主義[117]」が開かれた。1921年6月、カール・ヤスパース『世界観の心理学』書評をヤスパースに送った[118]。1921年から1922年にかけて冬学期にフライブルク大学で「アリストテレスの現象学的解釈/現象学的研究入門」講義[119]。

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ヴォージュ山脈
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トートナウベルク

1922年夏学期、「アリストテレスの存在論と論理学の現象学的解釈」講義[120]。日本人留学生からのポンドによる謝金でトートナウベルクに部屋数が3つある山荘を建てる[5]。トートナウベルクはシュヴァルツヴァルトの標高1000mの高地にあり、ヴォージュ山脈、スイスアルプス山脈を眺望できる保養地である[121]。ハイデッガーは1934年のラジオ放送された講演「我々はなぜ田舎に留まるか」において、「南部シュヴァルツヴァルトの広い谷間の急斜面の海抜1150メートルのところに小さなスキー小屋がある。広さは縦6メートル、横7メートルで、低い屋根の下に部屋が三つ、リビング・キッチンと寝室と勉強するときの独居房がある」「山々の重み、その原生岩の厳しさ、樅の木のゆっくりとした成長、花咲く牧草地の輝くばかりの、それでいて素朴な華やかさ、秋の夜長に聞こえる谷間の小川のせせらぎ、雪に埋もれた平地の厳しいまでの素朴さ、これらすべてが、あの山の上の毎日の現存在を突き抜けて行き、その中を揺れ動く。」とトートナウベルク山荘について語り、「冬の真夜中に、激しい雪嵐が小屋の周りに吹き荒れて、すべてを覆い尽くすとき、そのときが哲学の絶頂期である。そのとき、哲学の問いは、簡明かつ本質的たらざるをえない。すべての思考を徹底的に究明することは、厳しく鋭くあること以外ではありえない。これを言葉で表す苦労は、聳え立つ樅の木の嵐に向かっての抵抗のようなものである」と述べた[122]。

1922年11月、フッサールの推薦でハイデッガーはゲッティンゲン大学教授に招聘され(ヘルマン・ノールが教育学部に移ったため)、ゲオルク・ミッシュの報告ではハイデッガーは学生に人気があり、その哲学は生の哲学 、フッサールの解釈学的方法、ディルタイの精神史を補完させようとしたものとされた[123]。選考の結果、第一候補はモーリッツ・ガイガー、ハイデッガーは第二候補となった[124]。

1923年夏学期、「オントロギー、事実性の解釈学[125]」講義の序言で「探求における同伴者は若きルターであり、模範はルターが憎んだアリストテレスであった。衝撃を与えたのはキルケゴールであり、私に眼をはめ込んだのはフッサールである」と書いた[126][127]。
マールブルク大学

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5フッサール

1923年から28年の間、フッサールやゲオルク・ミッシュの推薦でマールブルク大学哲学部外教授として教壇に立った[123]。1923年9月1日には神学教授クレープスを訪問し、クレープスがカトリック信仰に帰ることはないのかと質問すると、ハイデッガーは「いまのところはまだはっきりとそうとも言えない」がアウグスティヌスとアリストテレスの研究をしていると述べ、クレープスは「話しているとき、私はしばしば昔からの若い友人、完全なカトリック信者の学者と向かい合って座っていると思った」という[90]。

マールブルク大学ではハンス・ゲオルク・ガダマー、フライブルクから移ったハイデッガーの後を追ってやってきたユダヤ系のカール・レーヴィット、ユダヤ系でシオニストであったレオ・シュトラウス、ハンナ・アーレント、ハンス・ヨナス がいた。ガダマーはハイデッガーの個性は「彼が完全に自分の仕事に没頭して、それが滲み出ていたことからきていた」、それは研究と業績の出版に集中するような教授の「授業」ではもはやなかったとし、精神的知的指導者のような人気があった[128]。

1923年から1924年にかけて冬学期にマールブルク大学で「現象学的研究への入門」講義[129]。1924年春には日本の研究所に招聘されたが、実現しなかった[130]。1924年5月2日、父フリードリヒ・ハイデッガー死去[5]。1924年夏学期、「アリストテレス哲学の基礎概念」講義[131]。1924年にハンナ・アーレントがマールブルク大学に入学し、その時から既婚者であったハイデッガーと指導下の学生であった彼女と愛人関係が始まる[132]。またハイデッガーは教育学者でヘルマン・ノールの弟子であったエリザベート・ブロッホマン(Elisabeth Blochmann)とも愛人関係にあった[133]。1924年から1925年にかけて冬学期に「プラトン:ソフィスト」講義[134]。ハイデッガーはマールブルクを「霧のかかった巣窟」といい、「俗物的雰囲気」を嫌ったが、ブルトマン との対話においてフリードリヒ・ゴーガルテンやカール・バルト、スコラ哲学、ルターなど神学の議論を交わした[135]。

1925年4月16日?21日、カッセルのクールヘッセン文芸協会で「ヴィルヘルム・ディルタイの研究活動と歴史学的世界観をもとめる現代の争い」を講演する(カッセル講演)。このなかでディルタイとフッサールを批判しながら、パウル・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯のいう「歴史的省察」を讃えた。1925年夏学期の講義 『時間概念の歴史への序説[136]』 ではフッサールの現象学をギリシア語の意味から「それ自身においてあらわなるものをそれ自身から見させること」と定義し、現象学的探求からは存在の問いが生じるはずであり、フッサールの純粋意識に意識の存在への問いが立てられていないと批判した[137]。1925年から1926年にかけて冬学期に「論理学:真性への問い」講義[138]。この講義ではカントは存在と時間の関連について予感したが、問題の根本的理解にはいたらなかったと解釈した[139]。

1926年夏学期の講義 「古代哲学の根本諸概念」[140]。1926年から1927年にかけて冬学期に「トマス・アクィナスからカントまでの哲学の歴史」講義[141]。

1927年2月、フッサール編集の「現象学年報」8号に「存在と時間」 前半部を掲載し世界的な名声を手に入れ、マールブルク大学正教授となった[98]。しかし、ヤスパースとの議論のあと、印刷が開始されていた「存在と時間」の第3編「時間と存在」の出版は中止され、原稿は発表されず、焼き捨てられた[142]。1927年3月9日、チュービンゲンで「現象学と神学」講演[143]。1927年5月3日、母ヨハンナが逝去[5]。1927年夏学期、マールブルク大学で「現象学の根本諸問題」講義[144]。1927年から1928年にかけて冬学期講義「カント純粋理性批判の現象学的解釈」[145]。

1928年2月14日、「現象学と神学」講演[146]。1928年夏学期、マールブルク/ラーン大学で「論理学の形而上学的な始元諸根拠 ライプニッツから出発して」を講義[147]。
フライブルク大学教授就任

1928年2月25日、ハイデッガーはフッサールの後任としてフライブルク大学の教授に招聘され、就任した[148]。マールブルク大学はハイデッガーの退職は大学にとっての損失であり、招聘を断るよう文部省などへ働きかけたが、ハイデッガーはフライブルクからの招聘を受けた[149]。ハイデッガーがかつて寄宿生活を送ったコンスタンツのコンラディハウス院長マテウス・ラングからの祝辞への返信で「私は、うれしく、かつまた感謝の念をこめて、コンラディハウスにおいてはじまった私の勉学の日々を思いおこしては、すべての私の試みがいかに強く故郷の土に根づいているかを、いよいよまざまざと実感しております」「哲学するとは、畢竟、初心者のほかの何者でもないことの謂いなのです。しかし、私たちが小人たるにもかかわらず、おのれみずからに内なる忠実を保ちつづけ、そこから精進しようと努めるならば、そのわずかな行為も、良きものとなるにちがいありません」と書いた[150]。

1928年から1929年にかけての冬学期にフライブルク大学で「哲学入門」を講義[151]。

1929年4月、スイスのダボスで新カント派のエルンスト・カッシーラー とのダヴォス討論を行い、「神に存在論はない」「存在論を必要とするのは有限者だけである」と語った[152][153]。この討論にはルドルフ・カルナップ も参加しており、ハイデッガーに全てを物理学的用語で表現する可能性について話すとハイデッガーは賛同したという[154]。

1929年夏学期、「ドイツ観念論と現代の哲学的問題状況」を講義、フィヒテの知識学を読解[155]。1929年、「カントと形而上学の問題」を刊行[156]。同年、「根拠の本質について」をフッサール生誕70周年記念論文集に寄稿、同時に出版された[157]。1929年7月24日、フライブルク大学講堂で「形而上学とは何か」公開就任講演[157]。同年、単行本としてボンのフリートリヒ・コーヘン社、のちヴィットリオ・黒スターマン社から刊行。第5版以降、ハンス・カロッサ に献呈されている[157]。

1929年9月にハイデッガーはボイロン修道院へ連れ立った愛人エリーザベト・ブロッホマンへ手紙でこのように書いている(文中の「ボイロン」とはボイロン修道院を指し、現存在の真理を表すメタファーとされている)[158][159]。

人間の現存在の過去というものは、無ではなくて、私たちが深淵へと成長するときに繰り返しそこへと帰っていくところなのです。しかし、この帰還はけっして過ぎ去ったものを継承することではなく、それを変貌させることなのです。ですから、私たちには今日のカトリシズムやプロテスタンティズムは、どうしても嫌悪すべきものとなってしまうのです。けれども、<ボイロン>ー私は簡潔にそう呼ぶことにしますーは、何か本質的なものとなる種子として生育していくでしょう。
??エリーザベト・ブロッホマンへの1929年9月12日付手紙

1929年から1930年にかけての冬学期にフライブルク大学で「形而上学の根本諸概念:世界-有限性-孤独」を講義した[160]。この講義ではオスヴァルト・シュペングラー 『西洋の没落』を踏まえて、現在の貧困、政治的混乱、学問の無力、危険のないところでの全般的な満腹した安楽がいたるところにあるなか、人間の理想や偶像にしがみつくことでなく、「人間の内なる現存在を自由に解放すること」によって「自己封鎖解除」と「決断」が呼び求められると語った[161]。
ナチス政権時代

1929年の世界金融恐慌によって失業率が急増し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が伸張して1930年9月の選挙では107議席を獲得、第二政党となった。ハイデッガーとナチスの関わりは政権獲得以前にさかのぼる。妻エルフリーデは早くからヒトラー支持者であった[161]。哲学者エルンスト・カッシーラー夫人トーニの証言では、1929年にはハイデッガーの反ユダヤ主義的傾向はよく知られていた[161]。1930年ごろからは、初期ナチズムに影響を与えたといわれるエルンスト・ユンガー の『労働者・支配と形態』の要約「総動員」を助手ヴェルナー・ブロックと研究した[161]。1930年ブレーメンでの「真理の本質について」講演後の討論で「ひとは他者の身になってみることができるか」という問いについて荘子秋水篇第17の「魚の喜び」説話を読んで聞かせ、「自己移入」から出発しては「共存在Mitsein」は理解できないということを示そうとした[162]。1930年夏学期、「人間的自由の本質について」を講義、カントの自由論を扱う[163]。1930年、ベルリン大学に招聘される。この招聘は「大学の哲学者に授与される最大の名誉」(ヤスパース)であったが、ハイデッガーは断った[164]。

1930年7月11日から3日間開催された「バーデン郷土の日」の祭典では、のちのベルリン大学総長で優生学者のオイゲン・フィッシャー、エルンスト・クリーク、作家レオポルド・ツィーグラーといったナチの同調者や党員とともに「学術芸術経済分野のバーデン賢人会議」で「真理の本質について」講演を行った[165][161]。カールスルーエ新聞はハイデッガーが「抽象の領域から具体的な状況のただ中へ、真理性の根底としての土着性へ向かっていった飛躍は決定的なものであった」と報告した[166]。この講演「真理の本質について」は同年、ブレーメン、マールブルク、フライブルク、1932年にはドレスデンでも同タイトルで講演され、1943年に出版された[161]。同題講義ではプラトンの洞窟の比喩について、真理はギリシア語でアレーテイアというが、これはア・レーテイア、非隠蔽性、隠されていないことを意味するとし、真理とは「人間を越えて立つところのものである[167]」「本来的に自由であることは、暗さからの解放者であることである」「自由であること、解放者であることは、存在にふさわしく、われわれにぞくする者たちの歴史において共に行動することである」「根源的な闘争(論争などというわけではない)が意味しているのは、自分に最初に敵と反対者さえも作り出し、そしてこれをおのれの最も鋭い反対者にする闘争である」とし、歴史における真理実現のための行動として根源的な闘争が呼び求められるし、ニーチェはヒューマニズム、キリスト教、啓蒙主義に反対したと述べた[161]。1930年10月26日にボイロン修道院で「時間についての聖アウグスティヌスの見解 『告白』第11巻」を講演した[60]。1930年から1931年にかけての冬学期に「ヘーゲル『精神現象学』」講義[168]。

この頃、ベルリン大学教授にハイデッガー、ニコライ・ハルトマン、エルンスト・カッシーラーが候補となり選考がなされた[169]。ハインリッヒ・フォン・フィッカーら選考会ではカッシーラーが候補とされたが、文部大臣アードルフ・グリメはフッサールの弟子でもありハイデッガーを強く推薦した[170]。しかしハイデッガーは1930年5月にグリメにドイツの精神活動を規定する重要な地位であるベルリン大学教授に就くには自分はふさわしい形で責務を果たせないとして断り、1931年1月、ハルトマンが招聘された[171]。

1931年夏学期、「アリストテレス『形而上学9巻1-3』力の本質と現実性について」講義[172]。1931年ごろにはトートナウベルクの山荘に住むハイデッガー家の全員がナチズムに「改宗」していたというヘルマン・メルヘンの証言もある[161]。1931年10月にはボイロン修道院に滞在し、エリーザベト・ブロッホマンへ手紙でこのように書いている[173]。

金曜日から、私はここのいつもの小屋にいて、再び修道士たちの閉ざされた静謐な生活にひたっています。本当でしたら、修道士服に見をつつみたいくらいなのです。普通の市民のかっこうでは修道院のなかを歩くたびに違和感を感じるからです。…長い一日のほとんどは(朝四時にはもう一日が始まるのですから)仕事にあてています。…静かな谷間は輝かしい秋の黄金色で一杯です、岩波が青空にくっきりと浮かび上がっています。
??エリーザベト・ブロッホマンへの1931年10月11日付手紙

1931年から1932年にかけての冬学期に「真理の本質について:プラトンの洞窟の比喩とテアイテトス」講義[174]

1932年夏学期、「西欧哲学の原初 アナクシマンドロスとパルメニデス」講義[175]
フライブルク大学総長就任とナチス入党

1933年1月、ヒンデンブルク大統領の任命でヒトラーは帝国宰相となり、ナチス党がドイツの政権を掌握していった[161]。この頃、フライブルク大学では次期学長選を控えており、社会民主党党員の解剖学者ヴィルヘルム・フォン・メレンドルフが学長内定者であったが、古典文献学者ヴォルフガング・シャーデヴァルトらナチ党員らによってハイデッガーが候補にあがるようになった[176]。4月上旬には内務省ナチ大学担当オイゲン・フェーアレがフライブルク大学視察に訪れ、ハイデッガーは学長選挙にあたってフライブルク大学最古参のナチ党員であるヴォルフガング・アリーらの支援をうけていた[176]。1933年4月21日、ハイデッガーはフライブルク大学総長に選出された。5月1日のメーデーを改称した「国民的労働の日」をもって、エーリヒ・ロートハッカー、哲学者アルノルト・ゲーレン、アルフレート・ボイムラー、哲学者ハインツ・ハイムゼート、テオドール・リットら22名の同僚教授とともにナチス党に入党した[176]。党員番号は3125894(バーデン地区)であった[177]。ハイデッガーの党員証はベルリンドキュメントセンター(Bundesarchiv)に保管されている[177]。

若いハイデッガーに深い影響を与えたコンラート・グレーバーフライブルク大司教もボルシェヴィズムへの不安のため、それまで対立していたナチスと和解し、ファシズムは「現代において最も力強い精神運動」とし、「新しい国家(ナチスドイツ)を拒否してはならない、これを肯定し、迷うことなく、尊厳と真摯をもってともに働くべきである」と中央党の新聞で述べるなどナチスを公然と支持した最初のドイツ人司教となったが、1937年には除名された[178]。

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6シュヴァルツヴァルト

5月26日にはハイデッガーはアルバート・レーオ・シュラゲーター顕彰演説を行った[179]。シュラゲーターはフライブルク大学を中隊し、第一次世界大戦に志願兵として従軍した後、義勇軍となり、鉄道爆破によって逮捕され銃殺刑となり、ナチスから英雄とされていた[180]。ハイデッガーはシュラゲーターを「もっとも困難なことを引き受け」、「自らの栄誉と偉大さのために、心の中で民族の来るべき出発を思い浮かべて、その光景を自らの魂に刻みつけ、これを信じて行かねばならなかった」とし、この「もっとも偉大なるものともっとも遠くにあるものを自らの魂に刻みつける心情の明晰さ」は、英雄の故郷であるシュヴァルツヴァルトから来るのであり、「これが昔から意志の堅固さを作り上げる」のであり、「彼はアレマンの国土を眺めながら、ドイツ民族とその帝国のために死んでいった」とし、フライブルク学生に「意志の堅固さと心情の明晰さ」をしっかりと保持することを訴えた[181]。

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7ナチス式敬礼

5月27日の就任式典ではハイデッガーは就任演説「ドイツ大学の自己主張」を行い、ナチス革命をカイロス(歴史的好機)であり、「はるかなる任務」に委ねることを聴衆に求め、「われわれが自らを再びわれわれの精神的歴史的現存在の開始という力のもとに置く」ことが真の学問の条件であるとし、大学をナチス革命の精神と一致させるよう訴えた[176]。式典ではナチス党歌「旗を高く掲げよ」が演奏され、ナチス式敬礼を非党員にも強要して物議をかもし、またハイデッガー学長は大学の講義の開始と終了にハイル・ヒトラーの敬礼を義務づけた[176]。聴講していたカール・レーヴィットはソクラテス以前の哲学を勉強したらいいのか、突撃隊と行進したらいいのかわからなくなったと述べている[176]。ヤスパースはハイデッガーから「ドイツ大学の自己主張」演説を送られてからの1933年8月23日の返信で「学長就任演説を送っていただいてありがとうございます。初期ギリシア精神をきっかけにした偉大な筆致には、新しい真理のように、同時に自明の真理のように、またまた感動したものです」と書き、この演説は「信頼するに値する実質を持つ」と賞賛した[182]。突撃隊隊員で歴史家のリヒアルト・ハルダーは「大学を真剣に考え、学問に真っ向から対決したもの、真の簡潔さ固い意志と大胆な不敵さをもってなされた真に政治的な宣言」と賞賛した[183]。ハインリッヒ・ボルンカムも賞賛し、ラインヴェストファーレン新聞は「個人の立場から大学を全体国家の中に組み込もうとする初めての試み」とし、ベルリン株式新聞は「魅惑的であるとともに義務感を呼び覚ます」と評価した[184]。ハイデッガーの学長就任演説についてマルクーゼは1934年に「全体主義的国家観における自由主義との戦い[185]」で批判した[186]。ハイデッガーの講義を受けたこともあった日本の哲学者田辺元もハイデッガーのナチス入党と「ドイツ大学の自己主張」について1934年「危機の哲学か 哲学の危機か」で批判した[187]。田辺元は「単に存在の不可測性、それに対する知識の無力の自覚、という如き原理だけで、積極的に民族国家の形而上学的基礎を確立し、学問も国家奉仕の所謂知識勤務を以て本質とすべき所以を明にし得るか、という如き疑問は必然に起こり来らざるをえない」とし、ハイデッガーの師であるプラトンはその師ソクラテスが死刑になったことを源泉とした「危機の哲学」であるが、理性を参与させることなく単に運命的なる存在に従属しようとするハイデッガーは「哲学の危機」であると批判した[187]。ムッソリーニを一時支持したあと転向して批判したベネデット・クローチェ はハイデッガーの演説を「愚かであると同時に卑屈」といい、ハイデッガーがもてはやされるのは「無内容と一般論はいつももてはやされる」からだと1933年9月9日のカール・フォスラー宛書簡で書いた[184]。

1933年6月30日「新しい帝国の大学」をハイデルベルグ大学で講演した[188]。11月30日にチュービンゲンナチ党地区本部とドイツ文化のための闘争同盟とチュービンゲン大学学生組織から招聘され、ハイデッガーは「国民社会主義国家の大学」をチュービンゲン大学で講演した[189][190]。この講演でハイデッガーは「ナチ革命」とは「ドイツの現存在全体の完全な変革」「人間の、学生の、次代の若い大学教師たちの完全な再教育」を意味するとし、「ドイツ人は歴史的民族になる」「次代の学生は、迷うことなく、一心不乱に、民族の知的要求を国家の中で貫徹する戦いを試みねばならない。この戦いにおいて若者たちは、彼らの確固たる意志を導いてくれる指導者に臣従する」と述べた[190]。ドイツ文化のための闘争同盟(Kampfbund fur deutsche Kultur)はアルフレート・ローゼンベルクが1929年に創立した組織である。

1933年夏学期の「哲学の根本問題」講義(ヘレーネ・ヴァイス遺品の聴講生ノートに基づくもので、ハイデッガー自筆原稿ではない)でハイデッガーは「この数週間」は歴史的瞬間であり「ドイツ民族が自己自身に立ち還り、自らの偉大な指導者を見つけ出しているのである。この指導者のもとで、自己自身に至りついた民族は、自らの国家を作り出し、国家の中へ組み込まれた民族は、やがて国民国家に成長していき、この国民国家は、民族の運命を引き受ける。こうした民族は諸民族の真只中に立って精神的な負託を自らに課し、自らの歴史を作り上げて行く」「民族は、こうした問い(我々が何者なのか)を発することによって、その歴史的現存在を耐え、危機と脅威の中でそれを堅持し、その偉大なる使命の中にまでそれを持ち込むことができるのであって、民族がこうした問いを発することこそが、民族が哲学的に考えるということであり、それが民族の哲学なのである。」、「哲学の根本問題とは何であり、またその独自の本質は何かについての決定はいつどこで下されたのであろうか。それはギリシア民族?その血統と言語は我々ドイツ人と同一の起源をもつ?の偉大な詩人たちや思索家たちが、人間的=歴史的現存在の比類なき新しい様式を作り出したあの時である」「西欧の人間の精神的=歴史的現存在のこの始まりは、今なおそのままに、西欧の運命である我々の運命に大きく関わるはるか遠くからの指令として、ドイツの運命と繋がっているはるか遠くからの指令として存続している」と述べた[191]。またハイデルベルグ大学での「新しい帝国の大学」講演では「ヒューマニズムやキリスト教の考えによって窒息させられることのないナチズムの精神を体し、こうしたことに抗して仮借なき戦いがなされねばならない」「戦いは、民族の宰相ヒトラーが実現する新しい帝国の諸勢力を結集して行われる。」「この戦いは大学の教師と指導者を作り出すための戦いである」と述べた[176]。1933年9月にはフライブルク大学の同僚で世界的な化学者であったヘルマン・シュタウディンガー を「政治的に信用できない」とバーデン州大学担当官フェールレに伝えた[192][193]。フェールレは早速シュタウディンガーの告訴手続きを行い、ゲシュタポも罷免相当であるという報告書を作成、ハイデッガーも罷免相当であるという回答を行った[194]。結局シュタウディンガーの免職は政府の許可が下りなかったために実行されなかった。10月1日にはフライブルク大学の「指導者」に任命され、大学の「強制的同一化」を推進した。また国際連盟脱退やヒトラーの国家元首就任を支持する演説も行うなど、学外でもアクティブな活動を行った[176]。

1933年7月20日にドイツとバチカンとの間で結ばれたライヒスコンコルダート(ライヒ政教条約) にハイデッガーは批判的であった[176]。

1933年9月、再びベルリン大学正教授に招聘された。ハイデッガーは9月4日のアインハウザー宛書簡で「個人的な事情は一切抑えて」「任務を果たすことこそ、アードルフ・ヒトラーの仕事に役立つ最善のこと」としていまだ決めかねると答え、結局は招聘を断った[195]。同時期にミュンヘン大学への招聘もあり、ハイデッガーも検討していたがフライブルク大学の後任人事問題のため1934年1月に断った[196]。同時期にミュンヘン大学へも招聘され、ミュンヘン大学への招聘に際してエルンスト・クリークの親友でマールブルク大学のエーリヒ・イェンシェンは文相シェムへの文書でハイデッガーは「危険な分裂症患者」でハイデッガーの著作は「精神病理学の素材以外の何ものでもない」「タルムード的=三百代的思考」であるゆえユダヤ人にとっても大きな魅力となっていると告発し、他方招聘をハイデッガーも検討していたがフライブルク大学の後任人事問題のため1934年1月に断った[196]。

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8ベルリン大学総長オイゲン・フィッシャー(Eugen Fischer)、1934年ベルリン大学での式典。遺伝学者で人種の研究をした。

1933年11月10日のフライブルク新聞は、フライブルク市長ケルバー博士、ツーア・ミューレン学生団体指導者、フライブルク大学総長ハイデッガーの署名で「われらが民族を苦難、分裂、破滅から救出し、統一、決断、栄誉へともたらしたまえる、諸民族の自己責任に基づく共同体の新たな精神の師父にして先駆ける戦士に対して、ドイツ西南の辺境なる大学都市の市民、学生ならびに教授団は、無条件の臣従を約束したてまつる」という総統宛電文を掲載した[197]。

1933年11月、ザクセンのナチ教員同盟(Nationalsozialistischer Lehrerbund、NSLB)大管区長アルトゥール・ゲプファルト、ベルリン大学総長オイゲン・フィッシャー(Eugen Fischer)、ライプツィヒ大学総長アルトゥール・ゴルフ、ゲッティンゲン大学総長フリードリヒ・ノイマン、ハンブルク大学総長エーバーハルト・シュミットと並んでフライブルク大学総長ハイデッガーは「ドイツの学者の政治集会」に参加し、「ドイツ民族は、総統から賛成投票を呼びかけられている。しかし総統は民族に懇願しているのではない。総統はむしろ民族にこの上なく自由な決断のもっとも直接的な可能性を与えてくれている。民族の全体が自らの現存在を望んでいるのか、それともこれを望んいないのかの決断をである。この民族は、明日、自らの未来そのもの、それ以外の何ものでもないものを選ぶのである」、「究極の決断は、我々の民族の現存在の極限を突き詰める」、極限とは「あらゆる現存在の根源的要求、自己の本質を保持し救い出すというその根源的要求である」と述べた[198]。

1933年11月のフライブルク学生雑誌に寄稿した「ドイツ学生」でハイデッガーは「ナチ革命は我々ドイツの現存在を完全に変革している」、諸君には「ドイツ精神の将来の大学を作り上げるために、共に知り、共に行動する義務が与えられている」、これは「民族全体の自己自身を求める戦いにおいて勇猛果敢に身を投げ出す力によって果たされる」と書き、末尾に「ハイル・ヒトラー!」と書かれていた[199]。11月25日の講演「労働者としてのドイツの学生」では「新しいドイツの学生は今、労働奉仕によって歩んで行く。ナチ突撃隊の考えと一つなのである」、「ナチ国家は労働者国家なのである[200]」「かかる奉仕こそ、すべての人々の民族としての連帯の中で、日々、試練に晒され決断を迫られて、個々人の身分上の出自と責任とを明確にし堅固にするという根本的な体験をさせてくれる」と述べた[201][注釈 5]。この演説は西部地区連合放送網によって実況放送された[203][204]。また始業式では「仕事がなく失業していた民族共同体同胞は、仕事が確保されることで、まず何よりも先に、国家の中で、国家のために、それゆえにまた民族全体のために、再び現存在たりうるものにならなければならない」、「労働者は共産主義で言われているような単なる搾取の対象ではありません。労働者身分は、財産を奪われて、一般的な階級闘争へ向かうような階級ではありません。(…)労働とは、個人、集団、国家の責任において担われ、そうすることによって民族に奉仕しうるすべての規制された行為と行動を表す称号なのです」「総統に臣従するとは、ドイツ民族が、労働の民族として、その自然のままの統一、その素朴な品位、その真の力を見つけ出し、労働国家として永続性と偉大さを勝ちとることを、断固として不断に望むことなのであります。こうした未曾有の意志を抱いている人物、我々の総統アードルフ・ヒトラーに対して、ジークハイル(勝利万歳)!を三唱しましょう」と述べた[205][206]。

1934年1月23日にはフライブルク学生雑誌に「労働奉仕への呼びかけ」を寄稿した[207][204]。

かつて自分の友人でマックス・ヴェーバーの甥でもあったエドヴァルト・バウムガルテン(ドイツ語版)がナチ突撃隊とナチ大学教官同盟への加入を申請したとき、ハイデッガーは1933年12月16日ナチ大学教官同盟への手紙でバウムガルテンは「マックス・ヴェーバーの周りのリベラル民主主義的なハイデルベルク知識人グループ」に属しており、ホラ吹きの山師であると書いた[208]。さらにバウムガルテンがユダヤ人の正教授エドゥアルト・フレンケル(ドイツ語版)と密接に連絡を取っているとも付け加えた[209]。ザフランスキーによれば、これはハイデッガーにとって表面的に新しい状況に順応する者への警戒であったとするが、ヤスパースはこれを反ユダヤ主義的な攻撃と受け取った[210]。バウムガルテンは学長就任演説について「ハイデッガーにおいては、こうした神秘的な全実体変化がここで起こっている。今日、問いを発する者の知のこうした限界と、こうした無力感に襲いかかっている全とを、ハイデッガーはかつてのように形而上学的に無化する無と解釈することはない。彼には今それが存在的に強力な存在者、つまり単純かつ率直に、ドイツの革命の事実的な出来事と思われている」と論じた[211]。
総長辞任以後

1934年1月、カトリック学生同盟とドイツ学生同盟が学生同盟リプアリアの活動停止を求め2月に停止されたが、ナチ学生同盟の指導者シュテーベルによって取り消された[212]。その結果、停止処分を訴えていた学生同盟指導者ミューレンが退任することとなり、ミューレンと協力関係にあったハイデッガーは、シュテーベルへ「当地においてカトリシズムが公的に勝利することはなどは、どうしてもあってはならないこと」としてミューレンの復帰を訴えた[212]。

ハイデッガーの「改革」は大学内に内紛をもたらし、混乱を収拾できなくなったハイデッガーは1934年4月23日の会議で総長辞任を伝えた[213]。ハイデッガーによれば、大管区学生指導者グスターフ・シェールらの「ハイデルベルクグループ」とフランクフルト大学のエルンスト・クリークらの妨害工作によって学長職を辞任せざるをえなかったという[214]。また1933年10月1日に法学国家学部長にエーリク・ヴォルフ、医学部長にヴィルヘルム・フォン・メレンドルフを任命すると、文部省がこれを認可せず、他の人物に変更することを要求し、ハイデッガー学長は拒否したことが辞任につながったともハイデッガーは言っている[215]。エーリク・ヴォルフ法学国家学部長就任にあたっては国民経済学者ヴァルター・オイケンとの対立があり、オイケンは副学長ザウアーに対してヴォルフはハイデッガー崇拝者であり正常ではないと申し立てた[216][217]。

1934年5月、ハイデッガーはドイツ法アカデミー法哲学委員会(委員長ハンス・フランク)に招聘された[218]。

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9メラー・ファン・デン・ブルック(Arthur Moeller van den Bruck、1876-1925)は1923年の『Das Dritte Reich(第三帝国)』で神聖ローマ帝国とドイツ帝国を受け継ぐ第三帝国の創設を唱えた。

1934年6月30日から7月2日にかけて長いナイフの夜 でエルンスト・レーム、グレゴール・シュトラッサーら突撃隊幹部が殺害された。ハイデッガーは、突撃隊の立場に近かったといわれ[注釈 6]、アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルック(英語版)の用語(若き力など)、ナチス左派のグレゴールとオットーのシュトラッサー兄弟の用語を使っているとW.D.グードップは指摘している[220]。ハイデッガーと親しかったドイツ学生同盟帝国指導者オスカー・シュテーベルもレームと非常に親しく、長いナイフの夜以後拘禁され、罷免された[221]。ハイデッガーはレームに同調して、「大学こそは真の革命の出発点」とこの頃考えていた[222]。総長辞任後のハイデッガーは「長いナイフの夜」による突撃隊路線の敗北、エルンスト・クリークらといったナチ党系の思想家との対立により、ややナチスとの距離を置くようになった[176]。

1934年夏学期、フライブルク大学で「言葉の本質への問いとしての論理学」講義[223]。

ヒトラーがヒンデンブルクドイツ国大統領死後、大統領権能を指導者兼首相(Fuhrer und Reichskanzler)に統合させ、1934年8月19日の国民投票で追認しようとした際、ヒトラーを支持するドイツの学者声明が出された[224]。声明では「ここにアドルフ・ヒトラーを国家の指導者として信任することを表明する。総統こそがドイツ民族をその困窮と重圧から救い出してくれるからである」とあり、ベルリン大学からは哲学者ニコライ・ハルトマン、遺伝学者オイゲン・フィッシャー、経済学者ヴェルナー・ゾンバルト、法学者カール・シュミット 、哲学者フリードリヒ・アドルフ・トレンデンブルク、K.A.フォン・ミュラー、文学者ユリウス・ペーターゼン、ハイデルベルク大学からはフリードリヒ・パンツァー(Friedrich Panzer)、マールブルク大学からは心理学者W・イェンシュ、ミュンヘン大学からは地政学者カール・ハウスホーファー 、グライフスヴァルト大学からF.A.クリューガー、ゲッティンゲン大学からH・マルティウス、フライブルク大学からはハイデッガーが署名した[224]。

プロイセン大学教官アカデミー計画

ハイデッガーは1934年2月頃にはプロイセン大学教官アカデミーの会長候補となっていたが、マールブルク大学のW・イェンシュやエルンスト・クリークから否定的な覚書がナチ党人種政策局(Rassenpolitisches Amt der NSDAP)長ヴァルター・グロス(Walter Gross)のナチ党外交局(Ausenpolitisches Amt der NSDAP)長ティーロ・フォン・トロータ(Thilo von Trotha)宛書簡で報告され、ローゼンベルクは「各方面からハイデッガー教授の人物に対する警告を耳にする」ため調査すると答えている[225]。プロイセン大学教官アカデミー計画は、ケルン大学、ハレ大学、マールブルク大学、ケーニヒスベルク大学、ギーセン大学、キール大学、ブレスラウ大学、ゲッティンゲン大学、ミュンスター大学、ボン大学、ベルリン大学、フランクフルト大学、グライフスヴァルト大学の教官をプロイセン大学教官同盟に統合するという1933年10月11日の文部省通達にもとづき、ベルリンのプロイセン教官同盟の政治教育機関としてプロイセン大学教官アカデミーを設置するという計画であった[226]。この計画を一任されていたのはヴィルヘルム・シュトゥッカートであり、シュトゥッカートは1933年にハイデッガーをベルリン大学に招聘しようとした[227]。1934年8月28日のハイデッガーのシュトゥッカート宛書簡ではプロイセン大学教官アカデミー計画について、「教育的心構えを覚醒し強化すること」「これまでの学問をナチズムが問題とする方向およびナチズムの力から根本的に考え直すこと」「完成した世界観からなる教育的生活共同体としての将来の大学を念頭に置いて出撃準備を整える」、教師は「何よりもまずナチ党員でなければならない」とし、教育課題、大学施設、図書室、生徒数、生徒の選考、講習期間など詳細な計画を提案し、「今日の研究活動における、さなきだにアメリカニズムは克服されねばならず、将来はこれを避けねばならない」「これは個々の学派や個々の方針の一面的な支配を意味するのではなく、あらゆる事物の父の精神の中にある戦い、いやその中にこそある戦いだけが要求するもの」であると、ヘラクレイトスの言葉を使い説明した[228]。しかし、こうした計画は、エルンスト・クリークは「ハイデッガーの手に委ねられる」と「取り返しのつかないことになる」とイェンシュに伝え、心理学者イェンシュらはハイデッガーはボイロンで心霊修行をしたり、学生にハイデッガーの文章を読解させた心理学実験では被験者は何も理解できていなかったという実験結果、またハイデッガーの哲学は「分裂症的なたわごと」であり、プロイセン大学教官アカデミー指導者にはエルンスト・クリークがこの職にふさわしい唯一の人物であると文部省のシュヴァルム博士に報告したが、文部省参事官アヘーリスはこの報告に反発し、今後このような干渉をすると懲戒処分になると伝えた[229]。プロイセン大学教官アカデミー計画はナチ党世界観担当幹部の反対意見もあり実現しなかった[218]。

1934年夏学期にハイデッガーはベルリン大学とドイツ政治大学で、帝国内務省局長アルトゥール・ギュット(Arthur Gutt0、ブラウンシュヴァイク州首相・親衛隊大将ディートリッヒ・クラッゲス(Dietrich Klagges)、ナチ党中央指導部経済政策委員会議長ベルンハルト・コーラー、国民啓蒙・宣伝省参事官ヤーンケ、副首相フランツ・フォン・パーペンらと講義シリーズを担当した[230]。1934年冬学期のドイツ政治大学講義予告でも宣伝省ゲッペルス、ヘルマン・ゲーリング、リヒャルト・ヴァルター・ダレ、アルフレート・ローゼンベルク、バルドゥール・フォン・シーラッハと並んでハイデッガーは掲載された[231]。

1934年から1935年にかけての冬学期に「ヘルダーリンの讃歌『ゲルマーニエン』と『ライン』」講義[232]。

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10ヴェルナー・ハイゼンベルク

1935年夏学期、フライブルク大学で「形而上学入門」を講義[233]し、このなかで「ヨーロッパは今日救いがたい盲目のままに、いつもわれと我が身を刺し殺そうと身構え、一方にはロシア、一方にはアメリカと、両方から挟まれて大きな万力のなかに横たわっている。ロシアもアメリカも形而上学的に見ればともに同じである。それは狂奔する技術と平凡人の無底の組織との絶望的狂乱である」「存在の問いを問うことは、精神を覚醒させるための本質的な条件のひとつであり、したがって歴史的現存在の根源的な世界のための、したがってまた世界の暗黒化の危険を制御するための、したがってまた西洋の中心である我がドイツ民族の歴史的使命を引き受けるための本質的な根本条件である」と述べた[176]。また「形而上学入門」講義草稿では、ルドルフ・カルナップの「言語の論理的分析による形而上学の克服 [234]」による批判に反論した[235]。1935年秋、物理学者・哲学者カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーハイゼンベルク とトートナウベルク山荘で数日間対話する[5]。1935年11月13日、ブライスガウ地方フライブルク芸術学協会で「芸術作品の起源」講演[236]。1935年、W.F.オットーの求めでニーチェ全集刊行委員となり、以降「ニーチェ文庫」を訪れ、遺稿の刊行を提案する[5]。1935年から1936年にかけての冬学期に「物への問い:カントの超越論的原則論に向けて」講義[237]。
ナチス党員バッジ[注釈 7]

ハイデッガーの妻エルフリーデ・ハイデッガー=ペトリは1935年、「女子高等教育についての母親の考え」を発表し、「軍人精神と闘争精神がすべての男性を戦友にするのと同様に、女性魂と母性愛がすべての女性を結びつける」と論じた[238][239]。

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11シュトライヒャーの雑誌『シュテュルマー』

1936年1月、チューリヒで「芸術作品の起源」講演[240]。1936年夏学期、フライブルク大学で「シェリング『人間的自由の本質について』」を講義し、シェリングのこの著作はドイツ観念論の限界を越えて西洋哲学の頂点の一つと評価した[241]。またこのシェリング講義が1971年に刊行された際に削除された一節には、「ムッソリーニとヒトラーはニヒリズムに抗する運動をそれぞれ異なった仕方で開始した存在であるが、両者ともに、しかしそれぞれまったく違った形で、ニーチェから学んでいる。しかし、それだけではニーチェの本来的な形而上学的領域は、真価を発揮するには至っていない」と語った[242][243]。また冒頭で「やがて、ナポレオンがエアフルトでゲーテに<政治は運命である>といった言葉の持つ深い虚偽性が明るみに出るだろう。そうではなく、精神が運命であり、運命が精神である。しかし精神の本質は自由である[244]」と、政治から精神を重視している[245]。